伝言 発電場周辺

発電場の運転は、一九二九年(昭和四年)に始まるんですが、当時は小さい部屋だけでしていました。一九三四年(昭和九年)から、工場の拡張が始まりますから、大きい部屋を増設します。この発電所の内部には、六〇〇馬力のディーゼルエンジンがあって、ディーゼル機関に発電機が直結しているわけなんです。こういうのが六基据わってて、最終的には三四〇〇キロワットの出力です。ディーゼルですから、重油を燃料にして、それに発電機を連結して、発電していました。発電機は、戦後、フィリピンの方へ全部持っていかれ、ここは、一番早く、がらんどうになりました。当初はこれを体育館にするとか何とか言ってましたが、何もせずにとうとう腐ってしまいました。これは国の財産で、われわれ一人ひとりのものです。われわれの税金をしぼりとって、これができるわけなんです。それをこのようにほったらかしにして、腐らせて、何にも役に立たん。そして最後には、ここに入っていけんどと垣を巡らせて。これが日本政府のやり方です。いつまでも昔の権力を固持するようなことになっている。うらめしいような気がします。

先ほど言いました「MAG2」という標示のことですが、当時、弾薬は、この建物いっぱいに積まれてありました。私もちょうどそのころ、地元の町役場に勤めておりまして、町会議員と一緒に見せてもらいました。そのときの印象は、弾薬を入れとった箱がびっちり上までありました。説明では、この大久野島中の弾薬を金額にしたら、その当時の日本の予算とほぼ同じくらいの価値があったということです

写真10 発電場内部

中の様子を思い出してみますと、二階が事務所、下には開閉機。スイッチをオンにしたりオフにしたりするところです。最初は、この発電場の電力だけ使っていたのですが、一九四一年(昭和一六年)一二月八日、日米開戦以後は燃料の重油が入手困難になるということから、対岸の忠海側から商業電力、要するに今の中国電力の電力を海底電線によって、ここに引き込んで使い始めました。それからというもの、敗戦まで自家発電と海底ケーブルで併用ということになります。

発電所には、工員や技術者が一七人くらい常駐していました。ここへは無用のものは立ち入り禁止、毒ガスの気配は全くありませんから、別天地ですね。やっぱり電気工になって発電所勤務となりますと、エリートコースです。えばったもんです。そういう夢を一時見ました。私は機械工ですけども、一番頑固な鋳鉄で、たたくと容易に壊れますけど、この鋳鉄で物を造るという仕事をやってました。たとえば大久野島で毒ガスを造っておったのが、もう毒ガスより、すぐ使える爆薬をつくろうというときに、毒ガスをつくる装置を今度は火薬をつくる装置に変えるんですね。そういうときにこの鋳鉄で加工せんにゃあならんことがたくさんでてくるわけです。そのときに鋳鉄というのはもろい鉄なんですが、それで鋳型をこしらえて、それで溶鉱炉で鋳鉄を溶かして・・。それから工作機械のもとをつくる仕事をわたしがやっていました。ですから、直接毒ガスとは接触するということは少なかったです。おかげで、今日に至って元気でおられるというのも、その影響だろうと思います。