| 伝言 発電場周辺 | |||||||||||||||||
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写真14 製品倉庫前で
第3回ガイド養成講座(2000.11.11) |
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現在、忠海からの船が着く桟橋前の谷には毒ガスの製品、液体の毒ガスのイペリットやくしゃみガスのジフェニールシアンアルシンを置いていた製品倉庫がありました。このことは、一九四四年(昭和一九年)の大久野島建造物配置図(毒ガス資料館に展示)を見ても推測できます。製品倉庫と書かれ、その付近は除毒する必要があると図示してあるからです。今は公園になっていますが、そういう歴史が残っています。 当時の女学生がここへ勤労奉仕に来まして、くしゃみガスの入っているドラム缶をこの向かいにある愛媛県大三島の海岸へ分散しています。その理由は、空襲にあった時のことを考えてです。この谷から休暇村本館へ行く途中に中央桟橋があるんですが、その手前に今キャンプ場があります。そこに、以前のフェリー乗り場があるのですが、そのあたりに特設の桟橋がありまして、ドラム缶を積み出しています。岡田先生が、「大久野島学徒動員の語り」という本を出していますが、その中に出てきます。そこから積み込んで、すぐ向かいの、二キロメートルも離れてない大三島に分散しました。あの海峡は向こうの海岸が砂浜になっていまして、それに茅の木がずーっとしげっている、その茅の木と畑の所にドラム缶を全部積んだのです。それがまた敗戦になって、また大三島から大久野島へ一応集積して、それを島の北部からアメリカの上陸舟艇に積んで土佐沖へ捨てに行きました。 ここに置かれていたのは製品です。原材料ではありません。このドラム缶が岡田さんらが描いた通りのドラム缶です。よう記憶しとったですよ。そりゃあまあ命がけでやった作業ですから覚えとったんでしょうね。 作業の服装は、女学生は特に作業服は着てなかったです。私服でここに入ってくる時はセーラー服で白いネクタイをしてハチマキをしてそりゃ粋なかったですよ。私はちょうどそのころ一八、一九才で一番色気ざかりの年少工員でしょう。そのすさんだ所へ生きのいい女学生が入ってきた時にはうれしかったですよ。何か生きる力がわいてきました。そういうことを記憶しています。 |
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「大久野島学徒動員の語り」 岡田黎子著より
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写真61 製品倉庫跡(フェリー乗り場前)
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写真62 石垣
(正面奧には、明治時代のものが残る) |
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