伝言 長浦毒ガス貯蔵庫周辺
写真54 毒ガスタンク台座(村上初一撮影)

ここは部屋が六つあります。鋼鉄のタンクが縦に、それにイペリットあるいはルイサイトを貯蔵していました。イペリット、ルイサイトを工場から運んでくるときは、鋼鉄の特別の容器に入れてきました。電動車というのがありまして、早い話が電気自動車みたいな、ああいうようなスマートなもんじゃないんですが、電気発電機がついている電動車で、工場車というものがあるんです。それをひっぱってくる、それに毒ガスの原液を積んで運んできます。運んでくると、このなかで両サイドに小部屋があります。同じ形態の小部屋ですが、そのどっちかが、吸い込み側、払い出し側。その中では換気扇もありましたから…。コンクリートの四角のもの、あれが、換気扇の排気筒です。小部屋には、真空ポンプがおいてありました。そのポンプの中を真空状態にするとだんだん吹上がってきますよね。小出しに曽根の工場に送るときに、展示室にあるような黄剤容器に詰めて送る。出すときは工場員が作業してましたね。 曽根に積み出した桟橋は、今の無料休憩所があるところからです。あそこから、いろんなものを持ち出しました。ここで船に積んで、九州にいったという人がいます。その人が補給廠に勤めておりまして、ここでつくったガスは軍のガスですから、兵器補給廠に納める。そこから、出すといいます。つくりよるもんをどこに、どういうふうにしよるのか、ほとんどの工員は知らんのです。赤剤は中国へここから直接もっていってます。ほかは、まず、曽根で爆弾に詰めて、それを中国に運んでます。

オーストラリアの写真では発電所のように前に盛り土をしてありました。三、四メートル積んであったですね。貯蔵庫が海上から見えないように遮へい物になっていました。そう高いものじゃないです。わたしらが見たのはこの海岸道路に来まして、そこにはいっていきます。貯蔵庫前は作業所になってました。この道路はありません。全部遮へい物になってました。そういうような現場の体験をもってます。

戦後処理が始まると、毒物をホースでひいて、船に積みました。その後、貯蔵タンクをどのようにしたんじゃろうかと思うてましたが、つい最近、証言を聞きまして、その人によると、一〇〇トンタンクをクレーンでつって、外に引っ張り出して転がして、切って、処分したそうです。それをここらの海底に沈めたかというとそれはわかりません。と同時に鉛が内張にあったので、鉛の溶解をここでやったというんですが、焼却場でやったのかもしれません。貯蔵庫には、屋根もあったんでしょうが、屋根も取り除く、部屋の扉も取り除く、ここでほとんど解体されてます。


図11をクリックすると、PDFファイルが表示されます