チチハルチチハルは黒龍江省第二の都市、ここには毒ガス部隊の関東軍化学部、通称「第516部隊」があったところだ。駅舎は赤い総レンがづくりの重厚な造りで満州国当時の建物とのこと。この建物は中国の「中」の字に似せてつくられている。中国人の手によって、設計され、後でこのことを知った日本軍は激怒し、設計者らを捕らえて殺してしまったという。
関東軍建物跡
関東軍兵事部跡、とりこわし直前だったホテル鶴城賓館へ直行し荷物を置くとすぐ、ホテル近くの関東軍の遺跡をまわるために出発。何とホテルのすぐ後ろに関東軍の兵事部があるとのこと。行ってみると取り壊す直前で、たくさんの人々が一輪車で土を運んでいた。許可をえて中に入らせてもらう。壁はレンガだが松の木の床でこれが日本軍の建物の特徴をよく表しているとのこと。まだ、事務室として使われていた部屋もあったがほとんどの部屋はがらんとしていた。二階建ての建物の壁には菊の紋の模様の飾りがついていた。この建物が取り壊されたらホテルを増築するとのことである。あの建物はすでになくなっていることだろう。
中国東北部では、中国の経済開発が進む中で戦争遺跡もほとんど壊されているとのこと。次に、ホテルの前の道の向側にある日本軍の電信部跡へ。メインストリートにある赤茶色のレンがづくりの3階建てのビルであり今も電話機などを売っていると言う。建物の説明を聞く。
関東軍弾薬庫跡
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弾薬庫跡、大久野島の発電場の入口とそっくりだった弾薬庫跡に到着、道路に車を止め、大久野島の発電場の入り口とそっくりのトンネルのような入り口を入ると200坪くらいの土地の周りをぐるっと土塁で囲んであり、その中に30坪くらいの平屋のレンがづくりの建物が二棟建っている。土塁の上にはやはり大きな木がうえられている。これは外からはもちろん上空からも弾薬庫が見えないようにするためであろう。土塁は火災や爆発時に隣に類焼させないための物。実際すぐとなりあっておなじつくりの弾薬庫があり、私たちが見ただけでも4カ所は確認出来た。もう取り壊されているがこのあたりには多くの弾薬庫の施設が並んでいたという。
第516部隊本部跡次に訪れたのは、日本軍の第516部隊跡。この部隊は化学戦部隊で、毒ガス弾や化学兵器を秘密裡に研究製造していた部隊である。細菌兵器などを作っていた第731部隊とは悪魔の兄弟とも言える殺人部隊で、毒ガスなどを使った人体実験を盛んにおこなった部隊である。敗戦まぎわに証拠隠滅のため軍事施設はほとんど破壊されている。今は、ガラス工場になっている。中にいくつかの当時の建物が残っており本部跡もあった。塀の外、道路の横に衛兵室跡、そこから南に約1km行ったところに第525部隊の着弾地の観測所跡などがあり曹志勃さんに案内してもらった。これらの建物の中には現在、住居として利用されているところもあった。
日本軍は、敗戦の時、たくさんの化学兵器を中国のあちこちに遺棄して帰っている。しかも住宅地の近くであろうと、農地であろうと、河であろうと、おかまいなしに捨ててきている。中国の人たちの生活の場の近くに日本軍が遺棄した毒ガス弾などの化学兵器が、戦後たくさんの中国の人たちの命を奪い、傷つけ、生活を破壊してきた。われわれが今回、中国にきたのもその毒ガス被害者の実態を調査することにあったが、現地に来て、改めて、日本の犯した罪の大きさを認識させられた。チチハル市を流れる松花江に架かる嫩江大橋へ。この橋の上からもたくさんの化学兵器が捨てられている。嫩江大橋に行ってみると、そこは大変、景色の良いところだった。川底の砂の下に、毒ガス弾が埋もれているのを知って知らずか、釣り人が1人、河の中で釣りをしていた。嫩江大橋はちょうど工事中で橋の上から遺棄した場所を見ることはできなかったが橋の下の川辺の砂浜に降りて曹志勃さんより詳しい説明を聞いた。ここに遺棄したという日本軍の元隊員の証言をもとに中国の人が潜水具をつけて調査してみると、たくさんの遺棄毒ガス弾が砂に埋もれているのが見つかったとのこと。中には川の流れによって下流に流されたものもあり遺棄毒ガス弾はかなり拡散して埋もれているとのことだ。いずれ、ここに遺棄された毒ガス弾も日本が処理しなくてはならないが、それは、大変な作業になるだろうと思う。それまで、被害がでないことを願う。
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この橋の上から毒ガス弾等が投げ捨てられた
次に、日本軍の飛行場跡を見学。車窓から、格納庫や見張り塔など一部残っている遺跡を見る。まだ十分土地利用されていないようで、広い土地に建物が点々と存在する風景は、滑走路跡もあり飛行場を思わせる雰囲気が残っていた。
今日の遺跡めぐりの最後は、忠魂碑跡。現在は神社の石段が残っているだけだが、広い広場、それをとりまく林や参道のような道。階段の上に忠魂碑を想像してみるとよく日本の神社などに見られる風景がそこにあった。周りには日本人の学校が建てられていたそうで日本人と中国人の皇民化政策に利用されたに違いない。中国人がこの忠魂碑の前を通る時、礼拝しなかったら罰せられたという。
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