遺棄毒ガス弾による被害 調査報告 その1




毒ガス被害者との交流                 
              

 朝、早めに出て、チチハル市郊外にあるフラルキ区の中国第一重型機械集団公司供応処に向かった。今回の旅の目的の一つである遺棄毒ガスによる被害者からの聞き取りをさせてもらうためであった。1987年10月工事中に日本軍の遺棄した毒ガスの入った鉄缶が掘り出され、毒ガス剤とは知らず、何であるかを調べているうちに王岩松さんをはじめ13人が被毒し呼吸器障害や皮膚びらんの症状になり、後遺症に悩まされ、その他、たくさんの人に軽い被毒症状が出たというところである。私たちは今日、ここで王岩松さん、李国強さんたち三人の方から証言を聞かせてもらうことになっていた。工場の広い応接室で、三人の聞き取りをさせてもらった。いずれも、遺棄毒ガス剤による被害により、今だに続いている後遺症、被毒がもたらした家族生活の破壊。私たち、日本人が背負って帰らなくてはならない重たい現実を聞かせてもらった。私は何ができるだろうか、心の中で自問した。

第526部隊跡

 遺棄毒ガス被害者との交流の後、昼食を済ませて私たちは、王岩松さんたちに被害をもたらした毒ガス缶の堀り出された場所に行った。今は大きな建物が建っているだけだったが、1987年10月毒ガス缶はガス管の埋設工事をしていた時掘り出されたそうだ。土を5m掘ったところ重さ100kgもの鉄の缶が掘り出された。中の液体が何か解らないので、いろいろ調べているうちに、それに関わった人が次々と被毒したという。中国軍の防化班の専門技術員が調査し日本軍が遺棄していった軍用の毒剤イペリットの混合物と解ったそうだ。

 フラルキ区には日本軍が毒ガス剤を遺棄して帰ったことが、元日本軍の隊員であった金子さんの話でも明らかになっている。金子さんは第526部隊に所属していて化学部練習隊の隊員だったそうで、敗戦時、約200個くらいの毒ガス缶を第526部隊の近くに埋めて帰ったと証言している。第526部隊跡は静かな農村地帯にあり草地と林の中にあった。部隊の正門跡だというコンクリートの残骸が残っているだけでほかには遺跡は残っていなかったが、この近くに毒ガス缶が埋められていたという。日本軍が引き揚げた後、日本軍の残した物資を手に入れ、その中にあった缶を毒ガス缶とはわからず触れた農民が被害を受けたそうだ。そんなことがあったとは思えないような静かな農村地帯であった。

            
            遺棄毒ガス被害者の証言を聞く
             
日 時  1997年7月29日(火) 10:00〜
               場 所 フラルキの中国第一重型機械集団公司供応処応接室
   


   
王 岩松の証言 

        
1955年1月30日生まれ  
           職業 中第国一型機械重集団公司供応処工会主席科長

(1)事故発生

 フラルキのガス会社が1987年10月16日、工事中に土の中から一つの缶を掘り出した。その缶は丈夫に密閉してあった。(重さは約100キログラム。)掘り出したのはフラルキの人ではなくまわりの農村から働きに来ていた人たちでした。すぐ公安局に連絡をした。公安局の人が現場に行ったが鑑定できなかった。わからなかったので、工場の病院に聞きに来た。工場は二人の人を派遣した。そのとき何か測る機械を持っていった。その一人が李国強さん。機械はX腺を測る機械でした。結局は放射線はなかった。そのときどういう物かさっぱりわからなかった。缶は二重の構造でとても丈夫でした。さびていたので鉄缶にひとつの穴をほった。穴を開けてから中身をガラスの瓶に入れて(200ccぐらい)李さんは病院に持って帰った。李さんはサンプルを持ち帰って、もっと検査しようと思った。そのとき毒ガス剤という認識が全くなく、どういうものかわからなかった。
 
病院でどうしてもわからなかったので、次の日、李国強さんは私のところへもう一人のお医者さんと一緒にそれを持ってきた。 私は工場の油の管理をしていたのでどういう物か鑑定をと。 私は、毒剤などとは考えていませんでした。ただの油と考えた。どういう油か鑑定しようと思った。新聞に瓶を包んで持ってきて事務室の真ん中におきました。そのとき事務室には7、8人いました。その中に李さんもいました。瓶を鼻でかいだ。臭いにおいでしたが、わからないので李さんは指に少しつけてみた。それでもわからなかった。すぐ洗面所で指を洗って事務室に帰ってきた。そのとき呉科長さんもいた。呉さんは包んであった新聞に少し油がついていたので火をつけたが燃えなかった。もう一人の若い王さんが新しい新聞紙を丸めて瓶に入れ多めに液体をしみこませました。今度は燃えました。とたんに事務室に煙が充満し臭いがとてもきつかった。事務室の面積は約20平方メートル。臭いはとても強くそれは辛く刺激が強かった。そのときの感覚は、頭が痛く胸が窒息しそうだった。すぐ逃げないといけないと判断しました。事務室にいた7、8人が窓から飛び出たりドアから逃げるなどいろんな方法でこの事務ので主人の自転車に乗せてもらって会社に来た。ほかの人はどういう状態だろうかと心配でしたから。事務室にくると昨日の7、8人とも同じ様な状態でした。これは中毒だなあと思った。「その責任は李さんだよ。李さんがこんな物もってきたからですよ。」ということになった。
 
               王岩松さん

 
それでみんなで工場の病院に行った。除院長さんは李さんから聞いていたからもう知っていた。私はすごく怒ったけれど院長さんは私の気持ちをわかってくれて「一生懸命、方法を探して治療してあげます。安心しなさい。」と言ってくれた。薬をつけたり飲み薬をくれたりした。そのときも未だ毒ガスだとはわからなかった。
 
  色々治療をしてもらいながら、私は毎日仕事に来ました。自分の仕事は重要だからほかの人にやってもらうのは無理です。だから毎日出勤しました。臭いが未だ残っている事務室で毎日仕事をし、弁当も食べました。床の上にはそのときこぼれた液体の跡が2年間ぐらい残っていました。臭いもしました。
 
 半月たってもちっとも良くならないので私の父が北京の解放軍の307部隊病院の院長さんに手紙を書いてくれました。その病院は化学毒剤専門病院として有名です。娘の様子を知らせ、治るかどうか、一度診てもらえないだろうかと書きました。手紙を出すと、チチハル市の防化部隊が聞いてすぐ現場にきて調査し、それはイペリットの中毒だと認めました。その年(1987年)の11月10日の新聞に載りました。

 院長さんはその手紙をその病院の有名なお医者の黄さんに渡した。黄さんは化学毒剤の病気を直すので有名です。手紙と新聞を見て黄さんが手紙をくれました。手紙の中に「イペリットという毒剤は細胞の組織を破壊する物なのですぐこの病院に来て治療してください。」と書かれていた。手紙を受け取って、ああこれから自分は病気が治るかもしれない、死なない、生きれるんだという希望がわいてきました。

  一人で汽車に乗って北京まで行きました。24時間かかるので駅についたとき意識不明になってしまった。そのとき周りの人が私を病院まで運んでくれました。

 病院まで運んでもらって黄先生に会えてとてもうれしかった。身体全体を検査してもらって、結局イペリット中毒だとはっきりしました。入院して一週間ぐらいしたとき、「私は化学毒剤の医者として有名ですが、あまり経験がありません。あなたの病気はこれからどうなるかは未だ言えません。ただ、他の人にうつることはない」と言われました。症状は少しも良くなりませんでした。

  病院から帰っても身体全体が弱くてすぐ風邪をひいたり病気にかかったりしました。それから10年間経ったけれども未だ喉も痛みが出ます。声もきれいだったのに変わってしまいました。今でも痛いです。鼻の穴を指でさわると血が出ます。被毒する前は歌が大好きでしたがもう歌えません。息も苦しいです。視力も弱くテレビもはっきり見えません。動悸も激しく、いつもいらいらしています。落ち着いているときがないという状態です。それ以来抵抗力もなくなり、よく病気になります。原因不明の病気によくなります。お腹がいたくてどうしようもないが病院でもわからない。そういう症状が良く出ます。色々な病院に行ってみてもらいました。半年まえ、上海の病院で2つの腫瘍があると言われましたが、どういう物かはまだ不明です。自分の体の抵抗力がなくなったから、色々な病気になって治ることがなく腫瘍が大きくなったのでしょう。上海の病院の先生は世界でも有名なお医者さんだからすぐ治るはずです。元気だったら薬を飲めばすぐ治るのに弱くなっているのでだめなんです。。家族みんなに迷惑をかけるのでいらいらすることも出来ません。

 もう一つの症状として、気持ち悪いとき腹が立ったとき緊張したとき頭が震えてしまうので一生懸命仕事をしてメモを取っているときなどに震えます。自分ではそれは解りませんが周りの人が震えていると教えてくれます。指も形が変わっています。毎日使うので、つるつるになっていてとても痛いです。

(3)お願い

 私個人としてお願いがあります。日本からこられて調査したり聞き取りをしていただいて私はうれしいです。皆さんも、日本に帰って日本の人たちに本などで報告していただければ私の気持ちは慰められます。

 皆さんにお願いがあります。ほかの人がもう毒ガスの被害を受けないように適切な処理をして欲しいです。お願いします。皆さんは日本の政府でもいいし民間でもいいし、なるべくたくさんの日本の人に私たちのことを知らせてください。もし良い治療方法があれば知らせてください。そういうことの研究もしていただければありがたいです。私は、いつ、生命がなくなるかわかりません。生命をのばしたいという願いがあります。生命は一番尊いものです。今の身体の調子は良くないです。でも家族に心配かけな命は一番尊いものです。今の身体の調子は良くないです。でも家族に心配かけないように面倒をかけないように苦しめないように毎日出勤するつもりです。私は毎日、化粧して出勤します。化粧しなければ、毒ガスの後遺症よる顔のシミがいっぱいあってどうしてもダメです。だから、もし出来れば治療していただきたいです。毎日苦しいので薬を飲まなければなりません。お医者さんの推薦で遺伝因子と言って小さな牛から取り出した物で高価な物ですが、命をのばすためにはあきらめるわけにはいきませんから毎日注射しなければなりません。何年間も続けて注射したんですよ。経済的にも精神的にも苦しみましたから、日本政府は慰めていただきたい。そういう補償をしていただきたい。

                

今、国営企業につとめていますから男は60才、女は55才まで働きます。それは正式の退職です。私は、今、42才。あと13年です。自分は今まで立派な労働者として活動してきました。でも自分はあとしばらくで亡くなると思います。自分の生命はいつまで生きられるかわからないから、あと13年間の仕事時間がありますが、昨日、正式に科長さんに退職願いを出しました。あと少しの命と思うので、生きている間に自分の子どもと旦那さんの世話をしたい。そういう気持ちで決心をして退職願を出しました。自分は共産党員のメンバーです。仕事が出来なくなって、ほかの人に面倒を見てもらうことは自分は出来ない。家族や家庭に力を入れて、一生懸命守って死ぬまで幸せな生活をしてみたいのです。私は今、生きているが、いつ亡くなるかわからない。主人は未だ若いけれども、子どもはまだ小さく、母親が早く亡くなってしまうとかわいそうです。生きている内になるべくたくさんの幸せを自分の息子に与えたい。

 私は他の人に負けないように一生懸命勉強してきました。北京の大学と連絡してフランス語の勉強もしました。昇進もしました。自分は55才までつとめて自分の企業をつくりたいと思っていました。独学で色々勉強もしました。毒ガスの中毒になってしまって何もできなくなりました。もったいないと思います。こんな状態になってしまった自分を許せない思いです。

 今、家の中は薬ばかりです。遺棄毒ガス剤による毒ガスの中毒患者は私一人ではありません。周りにいっぱいいます。今日、ここに来た人は少ないけれども実際はいっぱいいるんです。

 これから退職しても、薬を毎日飲まなければならないし、そのうえに色々な治療をしなければならないから結構お金がかかると思います。私はそういう中毒の被害で、皆さんとこの様な縁でつきあいになり、うれしいです。次に誰か来られるでしょう。これから日本とつきあうことはふえてくるかもしれません。。皆さんは日本に帰ったらそういう精神的な面や経済的な面で少しでも力づけていただければ自分はとてもうれしいです。ありがたいです。


李 国強の証言

       1949年8月8日生
          職業 中第国一型機械重集団公司供応処職工医院医生

      李国強さん、王雅珍さん夫妻

 私は今年49才。李国強ともうします。まず自分の仕事を紹介します。私の仕事はこちらでは医療衛生と言いますが、日本では労働医学という仕事です。

 これから私の被害経験を紹介します。何故こういう事件に遭ったのかですね。当時フラルキの公安局に頼まれました。何か放射能を調べてくれと言われた。私は放射能の研究をしていますから、測りに行ったのです。

 私は最初から最後まで関わっていますから、私が一番症状が重いです。一番最初は公安局に頼まれて現場に行って缶を切って、缶からガラス瓶に入れた時と運んだとき。自分で化学実験したこともあるし、やむを得ず王さんの事務室に持っていったときも、1kmぐらい離れたところから運びましたから、漏れて手にふれました。新聞紙を燃やしたときもいました。いろんなところで触れています。でも、幸いそのときは小雨が降りました。そのおかげで、液体の蒸発ががそれほどあがらなかった。病院から供応処まで持っていった時も曇っていた。ですから、あまり蒸発しなかったです。だから、自分の呼吸器がいたまなかった。当時、缶から液体をガラス瓶に入れてからビニール袋に入れて病院に運んだんです。病院にいたときもやはりビニール袋に包んでいました。自分が実験をするとき、ビニール袋をはずしたんです。供応処に持っていく時に改めて新聞紙に包んだんです。その時のガラス瓶には蓋がなかったんです。そういうイペリットというガスはチチハル市の防化連という部隊が証明しました。現場に行って化学実験をして、それを王さんのところに持っていったのは私です。

 その事件が起こってからすぐ入院して、緊急手当を受けるために職業病だということで職業科の病院に3日目に入院しました。チチハル市の203病院に行きました。当時診断してくれたのは外科の黄さんです。病状の一つは呼吸器官を破壊され、心臓も動悸がします。傷が乾いても改めて水が出る。呼吸器科の損傷、皮膚のやけど。診断をうけてから、うちの病院で緊急手当をうけました。私はその当時、緊急手当で33日も入院していました。退院してからもなかなかそういう病状が治らないで、今は髪の毛も抜けました。その後遺症で、一年中何回も風邪をひきます。

 いくら入院してもそういう病状がなかなか治らないです。咳もあるし、呼吸しにくいし、動悸もあるし、視力も低下しました。自分は当然医者としていろいろ考えるし、ほかのお医者さんも色々考えてくれました。細胞色素C、など三種類の薬をあわせて飲んでいます。

 当時、203病院の黄さんの話でそれ以外のいろんな薬を飲みました。退院してからも自分のお金を出していろんな薬を飲みました。そういう状況なんですが、後遺症は呼吸しにくいし、よく眠れないです。免疫力が低下しているから病気がちです。一年中風邪をひきやすいです。咳も出るし。もう妻に説明したんです。「自分はイペリット中毒だからきっと癌でなくなるだろう」と伝えているんです。

  実は私と妻の年の差は1才だけですが、人が見ると10才はあるだろうと言われます。私が先に衰えているんです。

  ときどき出勤できない状態になります。咳もあるし、風邪がひどいときもある激しいし、衰弱がひどいときがあります。病院の理事たちは私がそういう病気にかかっていることを知っているから、重い仕事はやらせない。軽い仕事をします。私の仕事は騒音とか放射能とか振動を測る仕事です。

  私は毒ガスの中毒患者だということを隠すとか言わないということはしませんでした。新聞にも報道されたし、化学部隊も見に来たし、周りの人たちもたくさん中毒したこともあってみんな知っています。

  中国に日本がたくさん毒ガス弾を遺棄していたためにこういう被害に遭ったのだということをみんなに訴えたいと思ったけれども、なかなか実施出来なかった。今、いろんな苦しみが出たことから日本政府は一つの答えを出してくれればと思います。

  工事現場の毒ガス缶はそれ一つです。まわりの土が黒くなりました。その事件が起こってから公安局に色々聞いたんです。当時の公安局の黄さんは「前は日本軍の軍用地だった」と言ってくれました。年寄りたちも軍用地だったということだけは知っていますが、それ以外は知りません。話によりますとチチハル市の防化連が化学剤で処理したそうです。

  ここに報道された新聞があります。
『工事中毒剤掘り出し。10人あまりが中毒を起こした。この日午後フラルキのガスパイプの工事をしているうちに高さ90センチ、直径50センチ、目方は約100キロのい鉄の釜を掘り出した。さびていたが二重構造で閉鎖性も良好である。工場の職工病院の職員が、約200ccの黒茶色の液体を取り出して実験をした。その結果6人も中毒した。その工場の油供給部門で改めてさらに検査しました。新聞紙につけてもやした。その結果、現場にいた7名の中、6人も呼吸器と目が中毒した。一人は右手に触れたため皮膚中毒した。駐在する一つの軍隊は10月16日から19日にかけて防化専門技術者を派遣し、3回にわたり現場検査した結果、日本帝国主義がわが国東北部を侵略した時中国人民を殺害し遺棄した軍用毒剤イペリットとルイサイトの混合物。この毒剤は細胞の組織を破壊し皮膚のビランを起こします。』
と書いてあります。実際は10人どころではありませんが、人数が多いと、みんなが動揺するだろうからと、控えてあります。

     いまだに続く遺棄毒ガスによる後遺症

妻 王雅珍さんの証言

        
1950年4月7日生
            職業 小学校の教員

  中毒した日、彼は夜10時頃帰ってきたので、何故こんなに遅いのか聞きました。「缶が発見されて放射物があるかどうか測るために調べていた。まわりの土はみんな白くなった。」という話をしている内に咳が出た。私はぱっとわかったんです。もうダメだ。もう中毒が起こった。私は日本軍の捨てた毒物だと思ったんですよ。そう直感しました。ひどい毒だと思いました。日本軍が毒ガス弾を捨てていたということは知っていました。幼い頃から親からも聞いたり、本で読んだことがあります。私は学校の教師だから知っていました。濃い色の煙が出てきたと言うことを聞いて直感したのです。どういう毒かはわからなかったけれども。

 次の日、彼はいつものとおりそれを持ってあちこち実験したり選別してもらったりしていた。私はそのことに対して非常に怒ったんです。毒があると注意したのにどうしてそんなことをまだ続けるのか。そんなことをしたのか。もしそういう毒が私と子どもの体の中に伝染したらたいへんなことになります。

  3日めに病状がひどくなった。脈拍が一分間に150もある。身体も硬直し、ひどい咳が出ました。彼はそういう病状になってから、一生懸命いろんな薬を飲みました。いくら飲んでもいっこうによくならないんですよ。私はさっそく、彼の衣服をみんな捨てたんです。しかたなく入院しなければならないから入院し、私は彼を世話しながら院長さんと相談しましたが、院長さんはそういう経験がなかったから治療方法がわからなかったんです。

  当時、二人の子どもが未だ幼かったんです。北京に赤十字会があるけれども、そちらにはたぶん治療方法があると思ったのですが、子どもが小さいから家を離れられないから近くの病院に入院しました。入院中に2回も危篤状態になりました。さっそく病院の院長さんに電話をしました。院長さんはこう言いました。「全ての薬を選んであげました。みんなよい薬です。もうこれ以上は薬がありません」。入院して20日間してだんだん病状が良くなった。ただ、ときどきは咳が出ます。連続的ではなくて。一時は良くなったので、私は北京に行くことはあきらめたんです。後はだんだん良くなると思っていました。当時、なぜ、赤十字会に行きたかったかというと赤十字会は日本とよく行き来しますから日本はどういうふうに毒剤をつくったかとか、毒剤の病気を治す方法があるかもしれないと思ったんです。

  退院してからも病状が治らない状態です。咳も出るし熱もでる。いつも突然、知らない内に突然病気になります。熱もでるし、体もふるえます。熱は39度もあがったんです。39度以上にもなります。退院して5日目に、姉が新聞を見て病気見舞いにやってきました。姉と話している途中で熱が出て、ひどい咳が出たので救急車で病院につれていったのです。一日治療して帰ってきました。被害者の中で一番い重い患者だったのです。

  私は、当時は非常に怒りました。二つの理由があります。二人の子どもは小さいのにもし父親が死んだらこれから生活はどうしても生きられないですよ。それに愛した人なのに治療方法がどうしても見つからなくてちょっとがっかりした状態になるのです。それまで完璧な素晴らしい家庭でしたから、どうしても維持していこうと思っていましたよ。それに彼の命をのばすために力を尽くすつもりでした。当時、彼は心臓の病気もあるし、自分は彼の生命を伸ばすためにたくさんの自分のお金を出してたくさんの珍しい薬を買ったんです。経済的だけでなく、精神的にもたいへん苦しめられたですよ。彼はよく咳が出ます。ひどい咳ですよ。私は、夜眠られないです。毎日わずか2〜3時間しか眠れません。子どもはそういうことはわからないから理解してくれないです。

  夫が中毒してから、当時私は日本の軍国主義者を非常に恨みました。軍国主義者は、土地を侵略するばかりでなく、百姓も殺したりいじめたりしました。こんなに毒ガス中国においたままにされたんです。中毒してから私は非常に苦しみました。私は毎日病院に行かなければならないから、小さい二人の子どもの面倒をみれなかったんです。

  現在は、日本人民と中国人民は睦み合っておつきあいすべきだと思います。皆さんは日本人として、私たちのような被害者を慰めるためにいらっしゃったんです。皆さんがこちらにいらっしゃった以上、これからきっと病気をなおす方法が出る、そういう希望がどんどん出てきたんですよ。そういうことを私は確信しました。皆さんは帰国してぜひ多くの人に知らせて、日本政府にでもよいですから補償をしていただきたいです。そういうことを唱えてください。今は何家族もの他の人と一緒に住んでいます。命を延ばさなければならないからお金がないのです。そういうことを補償していただきたいのです。

  彼は時には10数分間続いて咳が出ます。その苦しみを見てとても困っています。私は彼の苦しみを解消する方法がないからとても苦しいです。

  私は日本の軍国主義者は非常に恨んでいますが、皆さんは正義のためにいらっしゃったので非常にうれしいです。皆さんにお目にかかれて非常にうれしいです。正義感に感謝します。
 
 毒ガスの被害に合ってからは、誰もが彼は私より10才も年上だろうと言いますが、実際はわずか一つ上です。

 今回、皆さんはいろいろ調査して帰国してみんなに報告します。それから、私は素晴らしい情報を聞きたいです。解決方法とか聞きたいです。答えを聞きたいです。まだ、日本のお医者さんに見てもらったことがありません。その日を首を伸ばして待っています。治療方法があれば何よりのことです。

 彼は、いくら注意しても風邪を引きます。抵抗力がなくなってしまいました。事故のせいで考える力もなくなったんです。子どもたちもこういいます。「お母さんは私の言うことをすぐ理解してくれるのに、どうしてお父さんはわかってくれないの。」と言います。子どもたちはお父さんの病気を理解できないのですよ。

李 国強

  日本の軍国主義や日本国民に対する気持ちは妻が言った通りです。妻の意見に賛成です。日本の軍国主義者は恨んでいます。その罪は日本人民にはなく日本の軍国主義者にあります。人民はやはり友好的に睦みあっておつきあいした方がいいと思います。
 
 私は何回もインタビューをされたことがあります。1回目と2回目は日本のテレビ局です。皆さんは4回目です。日本政府は毒ガス弾に対する対応の態度がどうなるかは別として、日本人民の皆さんは正義感を持ってわざわざいらっしゃったのです。この点から見れば、皆さんのこういう行為にたいして非常に感謝致します。皆さんは日本政府にこういう遺棄毒ガス弾をどういうふうに処理するのか催促して欲しい。
 
 皆さんのご苦労にとても感謝します。一日もはやく吉報を待っています。もう10年も経っています。生きている内にどうしても聞きたいです。



1998年8月1日竹原で開かれた中国遺棄毒ガス弾被害者“李国強先生”証言集会での証言もあります

2002年3月24日 中国遺棄毒ガス被害者竹原証言集会