遺棄毒ガス弾 埋蔵地 調査報告




この日は、朝から毒ガス弾埋蔵地に向かった。緑や黄色にあざやかに彩られた丘陵地帯を進んでいくのだが、道は非常に悪い。運転している韓さんも、今日は車の駆動を4駆に切り変えて、滑りやすい泥の上を進んでいく。途中何度か難所を切り抜けたが、とうとう車は止まってしまった。ここからは歩くしかない。

 覚悟を決め、靴の紐をしめなおす。しばらく行くと柵の中で牛を飼っていた。そこで働く人に趙さんが道を聞いている。そこから右に折れて山道に入ると、後はその人の案内で進むことになった。

 15分くらいは歩いただろうか。左手にちょっとした空き地があり、そこに碑が建っていた。その一段低いところに直径2mほどの窪地があり、水がたまっていた。そこが毒ガス弾埋蔵地だった。

          毒ガス埋蔵地

 1995年の栃木の「戦後50年」問題栃木県連絡会の報告によると、そのまわりには野ざらしの遺棄弾があったということであったが、現在は埋め戻されている。これは、その危険性を重要視した黒龍江省社会科学院の歩平先生の指示により、人民解放軍が行ったものだ。だから僕たちは直接は遺棄毒ガス弾を目にしていない。

 埋蔵地の周囲は林にはなっているが、尾根側に10数m行くと畑(大豆?)が広がっており、またここを下っていくと沢のような湿地帯のようになっているところがあり、どうやら大量に湧水しているようだった。その麓で牛を飼っていたのである。

 何が埋蔵してあるかわかっているようだったが、果たしてその危険性をどれだけ知っているだろうか。牛を飼いだしたのはここ数年のことらしい。

 昼食後は、43年前この埋蔵にかかわった孫作敏さん宅を訪問し、その当時の証言を聞いた。今日になって急にお願いしたのだが、こころよく応じてくださった。孫さんによれば、4月に土が融けていないので、3発の爆弾で穴をあけて埋蔵したそうである。チチハルの鉄鋼所で事故があったので、大変注意して埋蔵されたそうである。




孫作敏の証言 

日時 1997年8月2日(土)  スンウーの孫作敏の自宅にて

               
          遺棄毒ガス弾埋蔵地のため立ち入り禁止を示す標識


 私は孫作敏といいます。1954年から毒ガス弾の処理を始めました。私は、その当時のことで知っていることをお話します。

 それは戦争が終わって、中国の建設が始まった頃でした。チチハルの鉄鋼工場が古い鉄とか銅を買い取って集めていました。日本軍の砲弾も集めていました。その工場から派遣された人が鉄を買い付けに孫呉県にも来ていました。孫呉の人たちは日本軍の建物跡から鉄や銅の物、砲弾などを拾い、それを売ってお金にしていました。古い砲弾は集めて、爆薬で爆破して焼却していました。その砲弾を燃やしているとき、事故が各地でおこりました。そして、そのことを東北軍区と中央政府に報告しました。

 中央政府は東北軍区と黒龍江省軍区に調査し、処理するように命令を出しました。東北軍区と黒龍江省軍区は調査チームを作り、東北軍区は王さんを黒龍江省軍区は孫さんを派遣しました。2人は孫呉県の武装部の人たちと一緒にいろいろな調査を始めました。私は当時(22歳)、孫呉県の武装部で働いていました。孫呉県では数グループを作り、全県を調査しました。私たちは、勝武屯(勝山要塞)、飛行場、軍営、野戦工事跡などを調査しました。そして孫呉県では、主に、特別一八倉庫、平度屯にあった日本軍隊の弾薬倉庫、勝武屯の弾薬倉庫などから毒ガス弾が見つかりました。県粮食局(役所の食料を管理する部署)で廃品を回収していました。

 孫呉の周辺から500発以上の毒ガス弾と毒ガス缶が見つかりました。それ以外に黒河で見つかった2個のビラン性の毒ガス缶もありました。毒ガス弾は75_、105_、150_の3種類がありました。私たちはこれらの毒ガス弾をすべて武装部の庭に集め、そのことを東北軍区に報告しました。軍区のリーダーたちは埋めるように命令をだしました。埋める場所の条件は、30年以内に畑などしない所、地下に鉱山資源(石油等)などがない所、4m以上の深さに埋めるということでした。
 
その当時、黒龍江省の省都はチチハルでした。私は一度チチハルの省政府に行き、埋め立て場所の地図を作りました。1954年4月、省政府が埋蔵を許可しました。そこは「北山」と呼ばれている県の中心地から約20qのところにある丘でした。

 4月の孫呉県の土地はまだ凍っていました。孫さんと王さんは「北山」に行き、百姓を動員して、穴の近くまで馬車に毒ガス弾を積んで運びましだ。山の周りには爆弾があちこちにいくつもありました。その中から3つの爆弾を運び、爆発させ穴を作りました。その穴の中に人が降りて、毒剤缶はケースに入れ、毒ガス弾は一つずつ手渡しで一段一段並べました。毒ガス弾は箱に詰 めたものもばらばらのものもありました。知識が少なかったので素手で砲弾を持っていきました。毒ガス弾は腐食しているものもありましたが、孫呉県では埋蔵に伴った毒ガスの被害者はでませんでした。他で被害が出ているのを知っていたので、扱いが慎重であったために被害がなかったのだと思います。

 埋蔵が終わって、周りを鉄線で囲み、そばに石碑を建てました。始めは埋めた後、地面より高かったが溶けたり凍ったりしているうちに下に沈んで、今は大きな水溜まりのようになっています。