遺棄化学兵器の今(国内編) 1999年3月、大久野島の旧防空壕から、大赤筒9本が発見されました。ヒ素による汚染土壌除去作業中であっただけに、「大久野島の事実上の安全宣言が繰り返されるが、本当だろうか」という不安におそわれました。と同時に、この赤筒の扱いがどうなるのかが、私たちの関心事となりました。というのは、化学兵器禁止条約では、赤筒(ジフェニールシアノアルシン)は、条約に決められた毒性物質、前駆物質に該当しないとされ、条約の適用を受けないというのが、一般的な見解だったからです。しかし、適用を受ける可能性も残されていました。
「表に上げられてない物質でも、条約上の化学物質として扱うべき物質の存在の可能性を排除されていない」(1995.3 衆議院商工委員会 外務省軍縮課答弁)防空壕跡(1996.7.28) 1999年12月 環境庁に、大久野島にある遺棄化学兵器などの完全廃棄を求める要請を行ったとき、この9個の赤筒の扱いについての質問をしました。
「中国で廃棄の対象となっているのに、国内では、なぜならないのか」(毒歴研)
「赤筒は、2国間の約束で廃棄するのであって、条約にもとづくものではない」(環境庁)
最終的には、「OPCWに問い合わせる必要があるかどうか、外務省に確認してみる」との回答を引き出しました。そして、2000年2月に、「外務省に問い合わせたところ、条約の観点から資料の提出を求められたので、現在その資料の収集及び作成を行っているところである」との回答があったものの、扱いが最終的にどうなるかは、わからないままでした。私たちが、9個の赤筒がOPCWの査察の対象となったことを知ったのは、11月でした。その後、環境庁は、12月1日報道資料「大久野島の大赤筒(9本)の無害化処理について」を発表し、OPCWによる査察、無害化処理が始まりました。
それでも疑問はまだ、残っています。「条約のどの条文に照らして、査察の対象となったのか」
その間、環境庁、外務省、OPCWの間のやりとりがあったようです。
3月21日 大赤筒の鑑定作業。条約に基づく「老朽化した化学兵器」であることを確認
8月31日 北九州市内の廃棄物処理専門業者構内に移され、無害化処理の実施まで保管
9月 日本政府、条約に基づき「国内に存在する老朽化した化学兵器」として、OPCWに申告
12月4日 OPCWの査察始まる
(無害化処理、施設の解体撤去を含め2000年1月中に終了予定。終了時に、もう一度OPCWの査察をうける)中央に見えるのが「赤筒」。クシャミ性の毒ガス「赤1号」(ジフェニール・シアンアルシン)を軽石の粉に付着させ、この筒に詰め、点火とともに煙を出す、毒ガス兵器。 (毒ガス展広島1996にて)
<戦後処理>
敗戦後、大久野島で毒ガスの処理が行われました。大久野島に集められた約65万個の「赤筒」は、1946年、島内27カ所のトンネル(防空壕)にを入れられ、入り口を鉄筋とセメントで閉じ、その後さらし粉と海水によって中和されました。詳しくは、Q&A「大久野島と毒ガス」をみてください。
大久野島に残されたていた毒ガスの戦後処理はどのようにおこなわれたのでしょうか。
(1)敗戦直後、大久野島周辺に毒ガスがどのくら残されていたのだろうか。
(2)敗戦後大久野島に残された毒ガスはどのように処理されたのだろうか。
また、大久野島での戦後処理については、オーストラリア戦争記念館(AUSTRALIAN WAR MEMORIAL PHOTOGRAPH DATABASE 英文)の写真のデータベースに、90枚の写真と解説があります。(OKUNOSHIMAで検索)
<1969年〜1970年 赤筒発見>
1969年、キャンプ場の近くの防空壕で赤筒が発見されたことをきっかけに、厚生省は陸上自衛隊の協力のもとに1970年1月13日から3日間、大久野島の島内防空壕内の調査を行いました。このとき、7カ所の壕内を調査した結果、大赤筒22個、中小赤筒630個、発煙筒1000個が見つかりました。この赤筒は毒ガスの効力は無いとして、再び埋めもどされています。
防空壕跡(2000.3)
2000年冬、島内の防空壕跡は、さらに石垣で入口をふさがれた<OPCWへの要請>
毒ガス島歴史研究所は、2000年12月5日、OPCWへも、大久野島に赤筒65万個が埋められたままになっている事実を知らせ、日本政府の対応について検討するよう要請書を送付しました。大久野島に埋められた「赤筒」約65万個の日本政府の対応について
1999年、大久野島の旧防空壕において発見された9個の「赤筒」(ジフェニールシアノアルシン)が、北九州市の廃棄施設に移され、今日OPCWの査察団により、「老朽化した化学兵器」として現地査察が始まりました。
しかし、この9個の「赤筒」の存在は氷山の一角です。というのは、以下の2つの文献に、大久野島には65万個余りの毒ガス「赤筒」が防空壕に埋設されたことが記されているからです。
・戦後の処理を請け負った株式会社帝人三原工場の社史「帝人の歩み」
・毒ガス処理作業を監督・指揮したイギリス連邦軍=オーストラリア軍の報告書「DISPOSAL REPORT CHEMICAL MUNITIONS OPERATION LEWISITE BCOF OCCUPATION ZONE JAPAN 8 MAY 1946 to 30 NOV.1946」(現在、AUSTRALIA WAR MEMORIAL=オーストラリア戦争記念館 に保管)
これらの報告書によると、1946年、島内27カ所のトンネル(防空壕)に約65万個の「赤筒」を入れ、入り口を鉄筋とセメントで閉じ、その後さらし粉と海水によって中和したとなっています。1969年から1970年にかけて、防空壕から2000個あまりの存在が確認され、コンクリート詰めにして、再び防空壕に埋め戻されましたが、ほとんどの「赤筒」は現在でも未確認のまま、大久野島内に埋められたままになっていると考えられます。
今回の査察対象となっている9個のあか筒が「老朽化した化学兵器」に当たるのであれば、これらも、「老朽化した化学兵器」に該当するのではないかと私たちは考えています。
私たちは、1996年7月に公表されたヒ素による大久野島の土壌汚染、水質汚染の問題をきっかけに、日本政府に大久野島及びその周辺の遺棄毒ガス兵器の完全廃棄をもとめてきました。その中で、前述の文献を示し、防空壕に埋められた約65万本の「赤筒」の完全廃棄も求めましたが、政府は、化学兵器禁止条約の第3条2をもとに、大久野島に現在もある毒ガス弾のあらたな処理を行うつもりはないことを明言しています。
化学兵器禁止条約は、人類の安全を保障していくためにつくられた条約です。過去、埋められた化学兵器は締約国の裁量にまかされているとはいえ、条約の精神は、こうした無責任な放置を生むことを目的とはしているとは考えられません。今一度そうした条約の精神に則り、日本政府のこの問題への対応について検討をお願いいたします。毒ガス兵器廃棄報告書の表紙
(1991年 吉見義明(中央大教授)らが、米メリーランド州の国立公文書館分館で見つける)
大久野島の戦後の歴史については、年表 大久野島の歴史(戦後・環境問題編)を読んでください。