遺棄化学兵器の今(国内編)

1995年5月、長野県松本市毒ガス中毒事件、東京地下鉄サリン事件に触発され、不安を感じた元兵士が北海道の屈斜路湖に毒ガス弾を遺棄したことを弟子屈町に報告します。これをきっかけに、屈斜路湖での遺棄毒ガス弾の調査が始まります。その後の経過は

1995年9月
遺棄毒ガス弾、潜水調査で確認
1996年10月
遺棄毒ガス弾26個、引き上げ、保管
1997年4月
日本政府、化学兵器禁止条約の発効に伴い、この遺棄毒ガス弾を「老朽化した化学兵器」としてOPCWに報告
1997年12月
OPCW、一時保管場所の現地査察
1999年6月
屈斜路湖の老朽化学兵器処理に関する省庁連絡会議設置
1999年 6月
OPCW、現地査察「弾の形状や保管状態が化学兵器禁止機関に申告された内容と一致するか確認」
2000年8月〜9月
埋設現場への機材運搬のための道路整備と仮設処理施設の建設
2000年9月〜11月
毒ガス弾処理作業
これで、屈斜路湖の遺棄毒ガス弾、26個の廃棄は終わった。しかし、住民の証言から、判断すると、別の遺棄毒ガス弾が投棄されたままになっている可能性が残されている。

このページでは、1996年10月までの経過と問題点を、村田歩さんと森亮一さんに語ってもらった。
 
屈斜路湖の遺棄弾については北海道弟子屈町の町広報に掲載された。1999年7月号で化学兵器禁止機関OPCWの現地査察の様子、2000年9月号で化学処理作業スタートという記事が紹介がある。

@屈斜路湖に遺棄された毒ガス弾

村田歩・森亮一 731部隊展・帯広実行委員会
(公開シンポジウム「大久野島から」1996.8.30〜9.1 広島県竹原市 毒ガス展実行委員会 報告集より)

 
屈斜路湖は、北海道の東部に位置し、周囲56キロメートルのカルデラ湖です。ここは、私の住む斜里町から、約100キロメートルの距離にあります。そこで、屈斜路湖の遺棄毒ガス弾について関心をもっておりました。

 この問題は、昨年5月以来「北海道新聞」「朝日新聞」「毎日新聞」などで、30回にわたり報道されました。

 元兵士の証言かきっかけ


 屈斜路湖の遺棄毒ガス弾問題というのは、1995年9月「毒ガス弾とみられる砲弾状の物体が確認された」ことをいいます。 どうしてこの様な物体が棄てられたのかといいますと、1945年(昭和20年)8月22・23日頃、弟子屈町に住む合田末広さん(89才)のところへ、計根別飛行場に勤務していた青木軍曹が、「国際法に触れるガス弾を隠してほしい」と依頼し、屈斜路湖に遺棄することになりました。
 
 青木さんが、何故合田さんに、湖へ投棄するように頼んだかといいますと、当時の飛行機の油は、松の樹の根を原料にして採っており、合田さんはこの油を、計根別飛行場に納めていたという関連があったからです。合田さんは、一昨年の松本サリン事件・東京の地下鉄サリン事件が起き、胸の中に秘めていた毒ガス弾投棄のことを道に報告しました。
 
 北海道新聞の記者・池田哲哉さんは、関東地区に住む青木元軍曹と会って、その証言を裏付けることができ、それは毒ガス弾であったということが明らかになってきました。そして、証言から湖底の調査へと移され、それらしき物体を確認し、毒ガス弾遺棄問題として大きくクローズアップされました。今年の10月6日から23日の間に、自衛隊が引き揚げるということになりました。その後の処置については、まだ未定です。

 私は、郷土史を研究している関係上、多少は計根別飛行場との関わりをもっています。計根別飛行場は北海道の東部・根釧原野にあり、屈斜路湖はすぐそばです。これに摩周湖・阿寒湖・雄阿寒岳・雌阿寒岳を加えて阿寒国立公園と呼んでおります。計根別地区からも100キロメートル程かと思います。

 本土決戦に備えた守り

1944年(昭和19年)2月1日、本土決戦のために北海道は樺太・千島を総括して第5方面軍いう名称になり、司令部は札幌にありました。「将来、北海道に敵が攻めてくる。その時の防衛はどうするか」ということを研究していたのです。敵の上陸地点は北海道西南部(苫小牧地区)と北海道東部(計根別地区)の2カ所のいづれからか、必ずくるものと判断し、ここを戦場とした作戦を企画しました。この場合、敵とはアメリカてす。 それに「ただし」がつぎ、それはソ連を指します。これは決して忘れてはならないことで、1945年(昭和20年)秋には、本土決戦になる.そして、ソ連の参戦は冬季にかかってからだろう。これは、満州から攻めてくる時、湿地帯のために、どうしても表土が固くならなければ、機動部隊が渡れないということで、冬季を想定していました。
 
アメリカは、太平洋艦隊に航空母艦を加え、移動距離はハワイから北千島、あるいは北海道を全体的に呑み込んでしまう。そのために、北は千島守備隊に任せておくのではなくて、オホーツク沿岸も含めた計根別地区が、主要決戦地区の要となったのです。

 道東地域は第7師団が、西南地域は第77師団の受け持ちです。当時、北海道の兵隊は11万4千人だそうです。その中に飛行部隊が札幌地区と帯広地区、それに計根別地区の3カ所です。苫小牧の方は、今も千歳飛行場があり、この部隊の戦闘機は約40機、帯広は戦闘機が3機、計根別には襲撃機という機関銃及び、軽爆弾をもった対地攻撃を主任務とする飛行機約20機を配備し、本土を守備するものでした。それだけでは足りないため、「民間人も一緒になって戦っていかなければいけない」というのが、第5方面軍の戦略方式でした。
 
 では、飛行機は何をするのかというと、戦闘機はB29に対する特攻でした。襲撃機に対しては、こちらのオホーツク海側から攻め込んで、また、船舶・航空母艦・巡洋艦などが計根別地区の港からやってくるから、これに対して総攻撃をかける。これを約20機でやろうとしていたわけです。その他に、美幌飛行場・小清水飛行場などがあったものの、1機の配属もなかったのです。したがってこの計根別地区が1944年(昭和19年)以降の第5方面軍の戦略方式の中では、非常に大きな位置を占めていたのです。
 
最近、沖縄・普天間基地の本土移転に伴う問題があり、その一部を北海道に移転しようとしております。その地区は、別海町矢臼別演習場といっていますが、ここは計根別飛行場のあった地域なのです。第5方面軍の戦略で、計根別地区はアメリカ軍の上陸を阻止し、戦争を挫折させていく重点拠点でした。その一つとして、毒ガス弾を使用することを計画していたものと考えられます。

 遺棄毒ガス弾の解明を

 屈斜路湖の遺棄毒ガス弾について、防衛庁の川野胱明研究員は、「計根別のような防空が主任務の部隊で、毒ガス保持などは考えられないし、そのような記録は、見た事も聞いた事もない。何かの間違いでは」と、コメントを寄せました。これは、10月6日からの砲弾の引き揚げによって、毒ガス弾か、通常弾なのかが明らかになり、やがて、歴史が証明するのも間近だと思います。遺棄毒ガス弾こそ、今日に連なる戦争と平和に関するさまざまな問題をここに提起したものだと思います。

 今日、私がここへ参加したのは、20年程前に手がけていた硫黄採掘のことを調べるためです。当時の技術者に、「この硫黄を何に使うのか」聞くと、「毒ガスだ」と答えました。しかし、町史や参考資料では、「平和産業に使った」としか書いてありません。私自身こういった問題と取り組みながら、平和の中に知らず知らずのうちに戦争に巻き込まれていく多くの事実から、過去の歴史を掘り起こし、歴史認識を深めながら、二度と戦争にならないように、その一人として関わっていきたいと考えています。


Aその後の「屈斜路湖遺棄審ガス弾」問題

「遺棄毒ガス弾」引き揚げ準備

1995年9月、毒ガス弾とみられる砲弾状の物体が、屈斜路湖の湖底に沈められていること、潜水調査で確認されて以来、一年間の調査・研究期間を要し、引き揚げの作業手帳が整ってきました.道が接触した自衛隊関係者は、「問題の物体は、飛行機などから落下される爆弾の一種で、 爛性ガスが詰められている」と証言したことで、「毒ガス弾」との認識を深め、引き揚げ作業から最終処理まで、慎重な対策が企画されました。「毒ガス弾」引き揚げ作業は、次の5項目にそって実施されることになります。

1.10月1日〜4日 潜水調査(総体の 数量など)。

2.10月5日 模擬弾を使った引き揚げ の演習。

3.10月7日〜14日 水中処理班のダイバーによる手作業。
@物体の強度を確認
A水中で密閉容器に物体を詰める

4.10月15日〜18日 引き揚げ作業開始
屈斜路湖を源とする釧路川の水は、釧路市、標茶町、弟子屈町の水源になるので、作業期間中は、河口付近の水質検査(砒素など)を実施する。

5.引き揚げ後の物体は、塩化ビニール製容器に密閉したのち、コンクリート製の箱に一つずつ収めて町内の土地に運び、地下2〜3メートルに埋没した鉄筋コンクリートの保管施設に入れる。
 劇物の処理については、今後の問題として遺されることになります。
 
爆弾状物体は「 爛性ガス弾」


1996年10月15日、自衛隊は毒ガス弾とみられる金属物を、湖底から26個のうち4個を回収し、S線照射による内部構造の鑑定や、ガス弾の種別標識帯を示す黄色の帯から、「糜爛性毒ガス弾」であると断定しました。内容液は弾の特徴から、糜爛性の「イベリット」と「ルイサイト」の混合液が詰まっていると想定しております.砲弾は、直径18センチ、長さ105センチ、重量35キロであり、尾部は4枚の翼を有しております。(図2)
 
 中央部は、毒ガス弾特有の伝火薬装置があり、弾体は薄く、爆発すると砲弾に詰めてあるガス液が広く飛散する様になっています。また、有翼と機体につるす懸吊(けんちょう)装置が付いていることから、航空機より投下するガス弾であることも分かってきました。10月18日の引き揚げ作業は、事前調査で判明した26個をすべて回収し、終了しました。これらのガス弾は腐蝕が進み、完全な状態のもの2個、他の24個はすべて水が入っており、そのうちの1個から微量のイペリットが検出されています。
 
 26個のガス弾は、アルミ製の密封容器に収納され、人の入り込まない山林に、約5m地下のコンクリート室へ、完全密閉状態で保管されることになり、毒ガス弾の無害化については、97年発効を予定している化学兵器禁止条約に基づいて検討中とし、保管期間は未定です。
 
「網走沖にも毒ガス弾」投棄
 
 屈斜路湖毒ガス弾問題は、テレビ・新聞などの報道で、全道民に大きな衝撃を与えました。その波及は、旧海軍美幌航空隊航空廠で、弾薬や爆弾などの補給の担当責任者であった樋口正治さん(80才)や、美幌警防団の元副部長・手戸正さん(80才)などに及びます。
 
 樋口さんは、毒ガス弾が航空廠の西側の沢の両側に掘った隠遁に、一つずつ木箱に入れて保管していました。終戦日の前後には美幌にいなかったので、どのように処分したのか分かりませんが、同僚は「上司(中佐)の命令で、兵器を米軍に渡すものと、投棄するものに分別して、毒ガス弾は、網走港帽子岩の2キロ程沖合に投棄した」と話していました。
 
 手戸さんは美幌警察署長の命令で、爆弾類や小銃類の処理班に組み込まれ、美幌航空厳から網走港まで15回前後、兵器を運搬、港からは漁船に積み替え、「ニツ岩」を左側にした状態で約30〜40分沖に出て、海中投棄しました。このとき、毒ガス弾が含まれていたかどうかは確認できなかったといいます.しかし、同様の作業に当たった同僚は、「屈斜路湖に捨てに行った」と話しています。
 
 ここで一つの問題点が出てきました。
「屈斜路湖への毒ガス弾遺棄」の始めの証言者。合田さんは「私の捨てたガス弾は木箱に入っておらず、形も記憶していたものと違う」と言っております。この度回収されたガス弾は、偶然にも接近したポイントにあった美幌航空厳からのもので、合田さんのものは、まだ沈んでいる可能性が充分考えられます。
 
 陸上・海上自衛隊員430名、道職員60名、道が投じた費用は、1億2千万円をかけて、遺棄毒ガス弾の引き揚げ作業が終了しました。本土決戦に備えて、各飛行場に毒ガス弾が配備されていたとも想定され、他の湖や海洋へ投棄した人たちの証言が待たれるところです。
 
 屈斜路湖遺棄毒ガス弾問題は、美幌海軍飛行場にも配備し、網走沖の海洋や屈斜路湖へも遺棄され、今後はその処理をめぐって新たな展開を始めようとしています。今こそ、国は毒ガス弾の資料を一般公開するとともに、遺棄弾の調査を積極的にすすめ、被害者を出さないよう国民の安全を計るべきです。
 
 さらに、戦後51年経った今日でも、中国に遺要してきた約70万発の旧日本軍毒ガス弾の腐蝕が進み、多くの民衆が被害を受けている実態を認識して、それに対する謝罪と補償をキチンとすべきだと思います。

屈斜路湖遺棄毒ガス弾を引揚げる自衛隊の各装甲車