会報「記録にない島」

創刊号

1996年5月31日発行

         ★ 目 次 ★
  (1)毒ガス島歴史研究所 発足総会
     ・発足総会報告
     ・毒ガス島歴史研究所 発足への思い (村上初一代表)
     ・祝辞・アピール
     ・意見 (蔵本正俊)
     ・毒ガス島歴史研究所 発足の主旨
     ・毒ガス島歴史研究所 規約
     ・毒ガス島歴史研究所 役員名簿
     ・閉会挨拶 (大川淳三副代表)

  (2)「加害者としての日本−そして広島  村上初一 
                 広島創価学会青年部平和講座(1995年6月4日)                
              (3)新聞切り抜き
                 ・村上初一 毒ガス資料館での思い
                 ・毒ガスの島 (中国新聞特集:1995年8月〜11月)
                    第一部 「悪魔の痕跡」、
                    第二部 「知られざる被害」、
                    第三部 「中国からの報告」、
                    第四部 「今問われるもの」

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「毒ガス島歴史研究所」 発足総会報告

発足総会写真

 発足総会は4月28日(日)10時30分より、大久野島国民休暇村会議室で、次のような日程で開きました。

<発足総会日程>

    (1)開会・黙祷
    (2)毒ガス島歴史研究所準備会・村上初一代表挨拶
    (3)祝辞・アピール

      ・服部 忠 (毒ガス島歴史研究所 顧問)
      ・平和問題懇話会 (大阪)
      ・毒ガス展実行委員会
      ・「戦後50年」問題栃木県連絡会

    (4)協議事項

      ・毒ガス島研究所発足の主旨について
      ・A規約について
      ・B役員選出及び挨拶

    (5)閉会挨拶

 初めに毒ガス犠牲者に対して黙祷を捧げました。その後、毒ガス島歴史研究所準備会の村上初一代表の挨拶があり、各所より寄せられた祝辞・アピールを読みあげ、協議事項に入りました。蔵本正俊さんよりの補強意見があり、各議案とも満場一致で承認されました。終わりに大川淳三副代表の挨拶があり、閉会しました。(以上)



「毒ガス島歴史研究所 発足への思い」

代表 村上初一

毒ガス製造並びに毒ガス戦争の実態を語り伝えて8年、いわゆる『加害を語るな。わしらは毒ガス製造の被害者だ。』と言い、自らの戦争責任について考えようともしない圧力と闘った8年でもあった。

毒ガス問題は国内外に秘匿された部分があり、毒ガス資料館にいる間に多くの内容が明らかになった。それらを伝えることが私の使命であるとの思いを強くした。今後は隠された事実を明らかにし、毒ガス問題の真実を伝えることで平和と人権を守る運動を推進していきたい。

身近なわが郷土忠海(ただのうみ)の変遷を見れば、1889年(明治22年)に町政を敷いた頃より軍政の色に染まる。日清戦争(1894年〜)前より、日本軍国化路線のなかで、呉の東部防衛を担うため軍部の進出が始まった。地元民の耕地を買収し、ついには陸軍要塞司令部が設置されるに至り、軍都を形成した。これが町の繁栄に繋がって行くのである。

その後、国勢情勢は軍縮の時代に変転した。そして、軍隊は移転し、町は衰微の一途を辿る。町政はかつての隆盛復活のため工場誘致の施策を図る。中央行政との折衝を重ね、工場誘致を獲得した。

しかし、これが毒ガス生産工場であって悲惨な毒ガス事象の発端であるとは、当時誰が知っていたのであろうか。しかも、このころ既に化学兵器使用禁止国際条約(ジュネーブ議定書、1925年)の呼びかけをしていて、日本もこれに調印している。こうした国際条約から4年後、日本陸軍は海上の一孤島に製造施設を作るのは工業常識上考えられないと言いながらも、外部に対する秘密保持と災害が起こった場合の危険を配慮し、大久野島に毒ガス生産工場を建設して生産に入った。

各国がそれぞれ「制定」した毒ガス兵器を、日本陸軍も第一次大戦後一通り生産を可能にし、多くの人々がこれを国策の一環と理解し生産に従事したのである。やがて、大久野島での毒ガス生産は軌道に乗り本格化した。

私は毒ガス兵器を、当時「的の中枢機関を襲撃し、もっとも効果のある殲滅的打撃を与えるものには化学兵器に勝るものはない。しかも、化学兵器は他の兵器に比べ障害時に苦痛度、人体損傷の永久性や負傷者の死亡率は少ないから人道的で近代兵器である。」(養成校の教科書より)と教えられた。しかし、現実はそうではない。あくまでも「攻撃兵器」「侵略兵器」であり、他民族を殺害するための兵器である。しかも、自国民の「生命」と「安全」を護るためのものでもない。国策の陰には毒ガスによる障害と後遺症が続出する痛ましい出来事が多発した。

この救済を、1952年に障害者は組織を結成し充実させ、毒ガス生産の実態と被害を国に請願し、援護法の制定を呼び掛けていった。敗戦時いち早く国は毒ガス製造事実を消去したために、事実確認が難しいことから救済措置を非常に困難なものにした。また、政府は旧軍の毒ガスに関することを認めることはできないと援護法の制定を見送らせた。そして、救済については旧法(陸軍共催組合法)を使った旧従業員を対象とするささやかな特別措置しかとらなかった。そのため、本来は一体化し、補償を求める運動を推進していく障害者が分裂し、多くの障害者団体が作られていった。国の責任はその面でも大きいと思う。

毒ガス障害者の中に「わしらは、毒ガスを作らされたんだ」と自分の責任を逃れようとし、「戦争だから被害・加害は表裏一体だ」という戦争認識しか持たない動きがある。それでは「戦争なら何をしてもよい。何をされても仕方がない。」ということになる。第二次世界大戦終結後50年を経過した今日、日本の加害と被害の両面から戦争を直視し、国民一人一人の戦争責任も明らかにしなければならない。ヒロシマ・ナガサキでは平和宣言のなかで加害と被害の両面を訴えている。

また、かつて日本軍が中国において化学兵器を使用したことも政府が認めている。しかも、調査の結果、中国に遺棄されている毒ガス弾が日本軍のものであったことも判明し、いまその安全処理対策を日本は迫られている。このことは即ち、中国その他対戦国に対して行った日本の侵略行為を示すものである。毒ガス資料館を背景に、日本の戦争責任を明確にし加害性を語って、何ら批判されるべきでない。私は、この加害責任について大久野島問題を通して学ぶべきであると考え、ここに「毒ガス島歴史研究所」を設置し発足させるのである。今後は毒ガス問題と忠海、大久野島いわゆる毒ガス島の関わりについて、更に研究を深め、整理し郷土の戦争歴史としても伝えていきたい。(村上初一)

                       


「毒ガス島歴史研究所 発足の主旨」

1945年の敗戦から51年目を迎えた今、毒ガス問題は大きくクローズアップされて来ています。それは大久野島にある毒ガス資料館に於ける地味な活動と「戦後50年」を機に各地での毒ガス問題への取り組みの広がり、アジアとの関係のなかで日本国並びに国民一人一人の戦争責任・加害性まで踏み込んだ議論の活発化などがあげられます。また、今年は全国各地で開かれる「毒ガス展」により一層の広がりが期待されます。

毒ガス島いわゆる大久野島は1923年、日本陸軍が毒ガス製造のため忠海兵器製造所を建設してから敗戦に至るまで、地図からも抹消されていた秘密の島「毒ガス島」として、各種毒ガスが極秘裡に製造されていました。その間と戦後の製造・処理により、仕事に従事した多くの人が毒ガスによって障害と後遺症を受けました。そのことで、日本国内には毒ガス障害者の問題と毒ガス遺棄の問題が今も存在しています。

また、中国に日本陸軍が遺棄した毒ガス弾の問題も大きく取り上げられています。1993年1月、日本と中国を含む115ヶ国が署名した「化学兵器禁止条約」は10年以内に国内並びに他国に遺棄した化学兵器を処分しなければならないと規定しています。そのようななか、昨年(1995年)3月、日本政府は中国に遺棄されている毒ガス弾の調査をし、それが日本陸軍のものであったことを公表しています。また、4月にはこの条約を国会で承認しました。そして、以前(1983年)アメリカで見つかった毒ガス使用に関する日本陸軍と中国側の資料、今回の調査によりやっと日本政府は過去の戦争で日本陸軍が中国において化学兵器を使用したことを認めました。これらの中で、中国に遺棄されている毒ガスによる今も続く被害者の問題、環境破壊の問題、その補償と安全対策・処理の問題など多くの未解決の問題が明らかになり、それらの取り組みが急がれています。

このように、毒ガス問題は過去の問題ではなく現在の問題として認識する必要があります。私たちはそのことを引き起こした責任と戦後50年を経ても未解決のまま放置してきた責任をとることが求められています。

大久野島のある忠海は、1890年代より要塞司令部が設置されるなど軍都を形成してきました。その流の中で、毒ガス製造工場が誘致され、毒ガス問題との関わりが出てきています。私たちは「なぜ戦争に協力するようになったのか」「毒ガスによる被害の実態はどのようなものか」「毒ガスがどのように使われたのか」など、戦争の事実を身近なところで明らかにしたいのです。そのために、私たちは毒ガス島の関係者の聞き取りを含め、忠海の歴史を掘り起こし毒ガス問題を考えることで、私たち一人一人の戦争の被害と加害の両面を考えていきます。

しかし、毒ガス問題は国の内外に秘匿された事柄が多く、調査・研究は少ないのが実状です。この研究所では過去の忌まわしい歴史を二度と繰り返さないために調査・研究し、毒ガス問題を通して戦争の被害・加害の真実を広く伝える平和研究機関として平和と人権を守る運動、並びに大久野島の戦争遺跡の保存運動を推進していきます。(以上)


閉会挨拶

副代表 大川淳三

本日は大変お忙しい中、ご出席頂き盛会裏に閉会を迎えたことを大変うれしく感謝いたす次第でございます。

国際化社会到来が叫ばれ久しく、世界の平和の流は非核、化学兵器廃絶へと大きく前進して居ります。国内におきましても首相の過去の戦争による加害責任、また広島・長崎市長の平和都市会議における加害・被害に対する発言など平和に対する意識高揚が大きくクローズあっぷされて居ります。

化学兵器製造所の実在した竹原市に於いては現代社会情勢に添わない被害意識のみの救済運動が行われ平和教育意識の低下をまねいている現時点に、本日毒ガス歴史研究所の発足を迎えた意気は誠に大であると思うわけであります。

過去8年間毒ガス資料館での戦争による加害・被害の実態を語り続けた村上館長の功績は誠に大と言わざるを得ません。

今後益々毒ガスの実態と平和の大事さを語り継ぎ戦争の無益さを説いていくことこそ研究所の最大のテーマと心得、皆様の御協力をお願い申しあげ閉会の言葉とかえさせて頂きます。本日は誠に有難うございました。(大川淳三)