
■ 招 請 状
1998年5月27日 毒ガス島歴史研究所
■ 「中国遺棄毒ガス弾被害者との交流をすすめる会」結成の趣意書
1998年6月12日
毒ガス島歴史研究所
■ 中国遺棄毒ガス弾被害者李国強さん来日費用のための
カンパのお願い
1998年6月8日中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会
■ 李国強先生一行の来日の足取り
■ 中国遺棄毒ガス弾被害者“李国強先生”証言集会
1998年 8月 1日竹原証言集会にて
中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会
■ 中国遺棄毒ガス弾被害者の補償に関する要請
1998年10月22日 中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会
■ 中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会総括
1998年11月25日 毒ガス島歴史研究所
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中国遺棄毒ガス弾被害者“李国強先生”証言集会
1998年 8月 1日竹原証言集会にて
中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会
(1)李国強先生の証言

皆様こんにちは、私は中国からまいりました李国強と申します。
まず、中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会の皆様が、私を呼んでくださって、平和の交流を行って下さることに感謝します。特に,このたび私が日本を訪問するために大変苦労して熱烈な歓迎をしていただいた村上初一先生をはじめとする中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会の皆様、および賛同し、ご支援くださった皆様に心から感謝の意を申し上げます。今日、証言集会に出席していただいた日本人の友達に感謝しております。
次に、私は第2次世界戦争の時、日本軍が中国国内に遺棄した毒ガス弾による被害経過を紹介させていただきたいと思います。1987年10月16日の午後、中国黒龍江省チチハル市フラルキ区にガスパイプの工事をしているうちに、土を10メートルの深さに掘ったところ高さ90p、直径50p、重さ約100sの丸い鉄の缶を掘り出しました。錆びていたが二重構造になっていて、缶の側面に黄色の線が引かれていました。その缶の上にはいくつかのネジが並んでいました。
当時、工事をしていた人たちは、その缶がいったい何物か確定できませんでした。そこで、チチハル市フラルキ区公安分局の歴風林科長を現場に呼んできましたが、やはり確定来ませんでした。多分毒物缶だと思いながら、中国第一重型機械集団会社の病院に頼みました。私は、この会社の病院の職業科の主管医師で、労働衛生の理因子方面の仕事をしていましたから、上司の指示により、私は現場に調べに行かされました。主任さんと私たち4人が、α・β・γ放射線測定器を持って同行しました。
その時は小雨でした。私は2時間かかって繰り返し機械で測定しましたが、測定器は何の反応も示しませんでした。「まりしっかり密閉してあるから、測定出来ないのではないか。開けて隙間をつくれば、放射線が測定できるかもしれない。」という提案がありました。そこで、缶をこじ開けたところ、醤油状の液体物質が入っており、からし粉のような臭いがしました。中から、白い煙が出ました。私はもう1度測定しましたが、やはり反応はしませんでした。私たちは普通の空き瓶に内部の液体200tを移して、ビニールの袋でしっかりと口を塞いで病院に持って帰りました。また、いくつかの放射線測定器で測定しても、放射性の物質は測定出来ませんでした。
開けていた缶から出てきた煙のせいで、その場にいた人たちはみな呼吸が荒くなり、眼が充血して、光に弱くなってきました。私は接触の時間が一番長いから症状が著しい。咳が止まりませんでした。手にもいっぱい水疱が出来ました。

大久野島毒ガス資料館見学
次の日、私は液体物質を入れたビンをもって、「供応処油化科」の呉道南科長のところに鑑定をお願いしました。「これを燃やしたら、油であるかどうかはすぐわかるはずです。」という提案で、液体を新聞紙につけて燃やしたら、青い煙が出てきてすごく臭かったです。私はもっと呼吸困難になり、心臓の動悸が早くなり、酸素不足と感じました。すぐ病院に運ばれて、緊急手当を受けました。その時、呼吸器官を破壊され、気管支壁のビラン、咳込みました。心臓も動悸がします。脈拍は150回/分で、高熱もありました。病院ではいろいろな治療を施しましたが、病状が直らないままです。私は毒物に接触する時間が長くて、回数も多いから、中毒症状が重かったです。
この毒物は防化部隊の鑑定によって、日本軍の遺棄毒ガス弾のイペリットの混合物であると断定されました。私は第203軍隊病院の専門家である関慶祥教授の診察を受け、診断はイペリットによる中毒ということでした。
緊急手当で33日も入院して、私の命は救われましたが、今でもそういう症状がなかなか治らないです。咳もあるし、呼吸しにくいし、動悸もあるし、時々熱がでます。よく眠れないし、髪の毛も抜けました。十数年来、私は毎日薬を飲まないといけなくなりました。自分に対する一生の苦しみだけでなく、家庭に対してもいろいろな悩みと経済的な損失、精神的な負担も与えました。
今日、ここにいらっしゃった新中正晴先生、山内正之先生、山内静代先生、角田拓先生を含めて多くの日本人の友達が、私が毒ガスにより被害を受けたことを聞いて、遠くから中国まで私を訪ねてきました。私のことを関心を持って、同情と理解をして下さって、そこから大部分の日本人の皆様は戦争に反対して、平和を愛し、正義感と同情心を持っていることがわかりました。こうすれば、中日両国人民は必ず世代に友好を続けていきます。
ここで、毒ガス被害者である私が言いたいのは、日本の軍国主義者は化学兵器を利用して数万以上の無辜な中国人を殺して、また、このように毒ガスを中国に置いたままにし、引き続き中国人民に加害しています。これは人道ではなく、国際法も違反です。日本政府には侵略戦争とその行為に対して謝罪すべきです。中国の遺棄毒ガス弾被害者への医療救済と補償を求めます。
もう1度、今日ここにいらっしゃった皆様、および私のめ募金してくださった友達に感謝の意を申しあげます。ありがとうございました。
(2)王雅珍先生の証言

尊敬する日本の友達の皆さん、こんにちは。私は、李国強の妻で王雅珍と申します。私は日本に来て、今日の集会で証言できるのは、ここにいらっしゃる皆様のおかげです。皆様の私たちに対する関心・支持・努力がないと我々は何も出来ません。私は心から感謝いたします。
皆様の行動から、あなたたちは平和を愛し、正義感を持って、しかも、歴史の真実をはっきりさせたい勇気もあるということが分かりました。あなたたちは自らの独特の認識・判断で、数多くの日本人に過去の戦争に対してはっきり認識させ、本当の中日友好を迎えることが出来るでしょう。あなたたちは中日友好の架け橋となって、中日両国の明るい将来が見えるでしょう。今回日本に来て、毒ガス被害された主人は、ここで専門家の診察を受けて健康が回復できればとても嬉しいです。この十数年来、夫は中毒の後遺症に苦しめられています。私たちの傷つけられた精神を慰めるために、日本政府は被害者に対して早めに医療救済と補償するべきです。
これから夫(李国強)が中毒した時のことを、お話したいと思います。1987年10月16日、ふだん夫は(午後)5時ぐらいに家に帰ってくるはずなのに、なぜまだ帰って来ていないのですか。その時、電話もないし、連絡は取れません。二人の子供は幼かったんです。私はいらいらして夫の帰るのを待っていました。
深夜になった時、子どもたちが熟睡に入り、夫はやっと帰って来ました。何故こんなに遅いのか聞きました。「缶が発見されて、放射物があるかどうか測るために調べていた。」という話をしている内に咳が出ました。私はぱっと分かったんです。「もうダメだ、中毒が起こった。」私は大声で言いました。私は日本軍の捨てた毒物だと思ったんです。「家にいてはいけない。早く病院に行って下さい。」とすすめました。子どもたちも眼がさめて、「お父さん、早く病院に行きましょう。」と言いました。でも、彼は「薬を飲めば大丈夫でしょう」と言いました。私は抗生物質と咳止め薬を持ってきて飲ませました。もう12時になったから休みたいですが、絶え間なく咳が出て、私は全然眠れなかったんです.もし、病気がひどくなったらどうしましょう。心から痛みを感じて、どうしてそんなバカなことをしたのか、夫に文句を言いました。
次の日、彼は疲れた顔で仕事に出ました。いつもの通りそれを持ってあちこち実験したり、選別してもらったりしていました。私はそのことに対して非常に怒ったんです。毒があると注意したのに、どうしてそんなことをまだ続けるのですか。
3日目に病状がひどくなりました。呼吸困難、心臓の動悸、ひどい咳、酸素不足、高熱でした。すぐ入院して、緊急手当を受けました。私は子どもたちを連れて病院に行きました。1分間の脈拍は150回で、39.8度の高熱だと聞きました。点滴したり、薬を飲んだりしました。いくら飲んでも咳が止められないです。その苦しさを見て、私は目から涙が出てきて、子どもたちも泣き出しました。一番怖いのは、自分を愛するお父さんが亡くなることです。その時、私はどうしょうもないです。それに愛した人なのに治療方法がどうしても見つからなくてがっかりしました。

私はいろいろ考えました。もし夫が死んだら、日本軍国主義を非常に恨みます。軍国主義者は土地を侵略するばかりでなく、百姓も殺したり、いじめたりしました。しかも、このように毒ガスを中国に置いたままにしたのです。平和の時代でも、また続いて戦争時の遺棄毒ガス弾に被害されるのですか。病院の院長から医者や看護婦さんたちまで、一生懸命に夫の命を救うため、どんな薬を使えばよく効くのか検討してくれました。細胞色素Cなどのいい薬を加えても症状はよくなったり、悪くなったりを繰り返しました。入院時、2回も危篤状態になりました。周りの人たちも心配してくれて、積極的に食事を作ったりして、子供の世話をしたりしてくれました。当時、上の子どもは12才、下の子どもは8才でした。私は夫の命が助かるようにと念じて毎日病院に行かなければならないから、小さい2人の子どもの面倒をみれなかったんです。大変だったんです。
北京に赤十字会(病院)があるけれども、そちらには多分治療方法があると思ったんですが、子どもが小さく家を離れられないし、北京にも遠いいし、経済的にも耐えられないから、近くの病院に入院しました。入院して一時はよくなったので、私は北京に行くことをあきらめました。
もともと夫は、とても元気で病気にかかったことはありませんでした。子どもは2人で1人は女の子、1人は男の子で、活発な可愛い子たちです。私は小学校の先生です。とっても幸せな家庭生活だったのに、私たちは平和の時代でも、また遺棄毒ガスによる被害を受けて、家庭に大きな不幸をもたらしました。夫はもちろん、家族全員が肉体的にも精神的にも大変苦しめられたです。
夫の33日の入院中、私はずっと夫の側にいました。彼の咳で、私は眠れない。最後は、安定剤を飲まないと眠れない状態になりました。彼は中毒後遺症のため、今まで薬を飲み続けています。彼の給料はほとんで薬に使ってしまいました。夫の命をもっと延ばしたいから、薬だけでなく栄養物も必要です。経済的に苦しく、友人・親戚に金を借りるが返せません。周りの人たちはほとんど3DKの新しいアパートに引っ越しましたが、私たちは何十年も前に建てられた共同台所の古いアパートに住んでいます。夫がもし中毒されなければ、我が家の経済状態もよくて、きっと他の人と同じように広くて明るい新しいアパートに住んでいるでしょう。
追求すれば、あらゆる災難と苦しみのもとは戦争でした。平和を愛する人たちは、絶対戦争は二度と起こることを許さずに中日世代友好のため、アジアと世界の平和のため、努力することを誓います。
もう1度、私たちに関心と同情をしてくださった皆様に感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。

原爆ドーム 平和資料館見学
1998年10月22日
内閣総理大臣
小 渕 恵 三
様
広島県竹原市忠海町
中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会
代 表 村 上 初 一
日本は中国への侵略戦争において、国際法に違反して2千回以上にわたり化学兵器を使用し、中国側に9万人以上もの死傷者をもたらし、2百万発もの化学兵器を中国に遺棄してきたと言われています。なかでも遺棄毒ガス弾は戦後も中国の人々に多大な被害をもたらし続けています。中国側の統計によると遺棄毒ガス弾による被害者は2千人以上にのぼっています。死んだ人も多く、また毒ガス被害による後遺症に苦しめられている惨状が次々と明らかになっています。どこに遺棄したのか、遺棄した化学兵器の実態が完全に解明されていないため、新たな被害者が出る恐れがあります。
また戦後53年も経過した今、遺棄された化学兵器が腐食し、地中などに毒物が漏れだして、中国の国土の環境汚染を引き起こしていると考えられます。日本軍の残虐行為の爪痕である化学兵器は現在でも中国の人々にとって脅威と恐怖の元凶となっているのです。
1997年4月「化学兵器禁止条約」が発効し、日本は中国に遺棄してきた化学兵器の処理をおこなう義務を負っていることは日本政府も認めているところです。しかしその課題に取り組む政府の姿勢はすこぶる緩慢だと言わざるを得ません。中国の人々は日々、化学兵器による被害を受ける危険の中で生活しているのです。わが国が日中両国の友好を促進し、真の平和を実現するためには、中国に遺棄してきた化学兵器を一日も早く中国国内から撤去し、安全な国土を中国の人々に保障しなくてはなりません。そのためには、日本政府の責任において、日本およびアメリカにある日本軍の化学兵器の配備・使用・遺棄に関するすべての資料を明らかにする必要があります。そして、日本軍関係者の証言や中国側の情報と照らし合わせ、正確な情報を把握し、速やかに化学兵器を撤去し廃棄処理しなくてはなりません。
昨年の夏、毒ガス島歴史研究所会員4名が中国遺棄毒ガス問題を検証する旅を行いました。日本が中国でおこなった侵略の歴史と遺棄毒ガス問題を検証することを通して、化学兵器による日本の加害責任を明らかにし、真の日中友好を促進していきたいと願ったからです。その旅の中で10人の遺棄毒ガス弾による被害者及びその家族と交流しました。遺棄毒ガス弾被害者とその家族の状況は会員たちに大きな衝撃を与え、戦争はまだ終わっていないという現実を突きつけました。「私たち家族の幸せな生活は遺棄毒ガス弾による被害で壊わされてしまいました。」「侵略戦争中は日本軍に苦しめられ、戦争が終わってもまだ遺棄毒ガス弾によって苦しめられることに怒りを覚えます。」といった切実で、もっともな訴えに会員たちは返す言葉もありませんでした。
交流の中でどの被害者もが訴えた共通な願いは「日本政府に早急に化学兵器を処理して2度と化学兵器による被害が起こらないようにして欲しい。」「私たち被害者に対し日本政府は謝罪と医療救済、補償をして欲しい。」「中日両国の国民と政府の友好が子々孫々未来永劫続いて欲しい。」ということでした。
化学兵器は国際条約で禁止されていたにもかかかわらず、日本軍が侵略戦争において使用し、敗戦時、中国に遺棄してきたものであり、戦争が終結して後も、なお中国の人々に被害を与えて来ました。1972年中国は「中日両国人民の友好のために、日本政府に対する戦争賠償要求を放棄する」ことを明らかにしました。しかし、これは、日本が中国に侵略し中国の人々に与えた損害賠償まで放棄したものではありません。ナチスドイツが犯した数えきれない罪業に対し西ドイツ政府がユダヤ人に賠償したように、日本政府は2000人を越えると言われる遺棄した化学兵器による被害者に対する謝罪と医療救済と補償をおこなう義務があります。そして、遺棄した化学兵器による傷害および治療に関する情報を被害者に提供し、同時に日中両国の医療機関の連携を取り、被害者への治療救済の対策を早急に取らなければなりません。
この夏、毒ガス島歴史研究所が中心となって、「中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会」を結成し、昨年、交流した中国遺棄毒ガス弾被害者のうち李国強さん及びその家族を招き、被害の証言集会を開きました。昨年の交流において被害者の方たちが「私たちのことを、日本の多くの人々に伝えて欲しい。」と訴えられた願いを実現し、中国遺棄毒ガス弾被害者とその家族の問題を日本の人に広く訴えるためでした。微力なわれわれの力で、できることからやっていこうと取り組みました。証言集会では、多くの日本の人たちに遺棄毒ガス弾による被害の現実を知ってもらうことができました。
日本が中国に残した化学兵器は、今なお、中国の人々の日常生活にさまざまな問題を生じさせております。日本政府として早急に化学兵器による被害者の医療救済と補償を行っていくとともに二度と被害者が出ないようにする義務があると考えます。日本政府がその義務を果たすことによって初めて真の日中友好が築かれ、諸外国からも信頼されうる日本となれるのです。「中国遺棄毒ガス弾被害者と交流をすすめる会」は日本政府に対して次のことをことを要請します。
1.中国に遺棄されている化学兵器は国際条約に違反し日本軍が侵略戦争で使用し、敗戦 時、中国に遺棄したものであり、現在その所在さえ確定できないものが多くあり、これからも中国の人々に被害が出る危険性がきわめて高い状況にあります。日本政府はそうした危険性を除去するためにも日本及びアメリカにある日本軍の化学兵器の配備・使用・遺棄に関するすべての資料を収集し、全面的に公開する必要があります。また日本軍関係者の証言を掘り起こし、中国の情報と照らし合わせ遺棄した化学兵器に関する正確な情報を把握し、早急に中国から化学兵器を撤去し廃棄処理する対策を取られるよう要請します。
2.遺棄された化学兵器は保存状態が悪いため敗戦後53年が経過した今、砒素など、毒物が流出し環境汚染を引き起こしていると考えられます。化学兵器の危険性及び環境汚染をもたらす危険性などの情報を中国政府及び国民に正しく伝え、今後、中国の人々の生活に環境汚染などによる被害がでないようすることを要請します。
3.日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は身体的、精神的苦痛のみならず、経済的にも大きな損害を受けています。またその影響は被害者の家族にまで及んでいます。日本政府として早急に謝罪、医療救済と補償を行っていく義務があります。化学兵器による被害者およびその家族の救済はこれからの日中関係の中で解決が急がれる重要な課題であり、日本政府として責任を持ってこの課題に早急に取り組まれるよう要請します。