大久野島の歴史をたどる写真展


8月4日と5日私たち毒ガス島歴史研究所は大久野島において「おおくのしまの歴史をたどる写真展」を行った。今年は、地球温暖化現象にともない例年にない暑い夏であったが、両日ともことさらあつく感じる日であった。

しかし、来場者は予想をはるかに越えていた。正確に人数を把握したわけではないが、スタッフが、てんてこ舞いの状況になったことは確かである。うれしい悲鳴とはこのことか。

 

一つの願い

かねてから、私たち毒ガス島歴史研究所には一つの願いがあった。それは長年毒ガス資料館の館長をしてこられ、退職後は毒ガス島歴史研究所を設立し代表を務めてこられた村上初一さんは毒ガス製造の証言者としての第一人者であると同時にプロ級のカメラマンでもある。様々な写真展に応募し入賞されているが、大久野島の写真も当時から多く撮りためてきておられ、その写真を広く人々に見てもらい大久野島についてさらに事実を学んでもらいたいということであった。村上さんだから取り得た秘蔵の写真を眠ったままにして置くには忍びなかった。しかも、その場所は中部砲台跡で・・・そんな夢のような話を村上さんと交わしたのは、村上さんがまだ資料館の館長をしておられた頃だからかれこれ10年以上にはなる。

「大久野島は戦争と平和の島。世界の戦争と平和について学べる場所があったらいいのに。

中部砲台跡は100年以上経つてもびくともしない堅牢な建物。訪れる人も少なくもったいない限り。この遺跡を広く人々に見て知ってもらえば、おおくのしまの活性化にも一役買えるのではないか。」       

村上さんと私たちの気持ちは同じだった。

 

とりくみ

何はともあれ環境省に中部砲台の使用をお願いしたところ、環境省は中部砲台兵士仮眠舎跡は扉もなく夜の間に研究所の貴重な資料が紛失しないか、村上さんの写真に傷がつきはしないかということを心配していたが、そのことについては研究所で責任を持つということで快諾してくれた。研究所としても貴重な遺跡を傷つけないように細心の配慮をすることを条件とした。

今年、村上さんは証言活動に専念したいとの意向から毒ガス島歴史研究所の顧問として位置付いていただいており多忙な毎日ではあるが、これまでに取りためてこられた写真の中から何枚かを選び拡大し、コメントをつけていただくことになった。

写真に見入る参観者

資料としては、「オーストラリア戦争記念館」というホームページからインターネットで入手した戦後処理の写真を始め、大久野島の模型などこれまでに集めた物がたくさんある。

そんな折り、まるで呼応するかのように、中国の黒竜江省ハルピン市から、日中友好と国際平和を願って、日本と中国の子どもたちの絵画と書道の文化交流をしたいという申し込みが舞い込んだ。写真展と同時に開催すればより多くの方に見ていただくことができる。中部砲台は広いし可能である。中国へ「Ok」の返事を出したところ大作がなんと30枚も送られてきた。竹原市内の子どもたちの絵を集める作業は美術関係の教職員にお願いしたところこれまた快く引き受けてくださった。話はトントン拍子に進んだ。

開催日は8月4日(土)5日(日)と決定。夏休み中の土日で大久野島に来る人も多いであろうと予測した。また原水禁広島大会のさなかであり全国からも人が集まる絶好のチャンスである。そんな時、なんと韓国はテグ市の教職員集団22名が4日に大久野島学習に来るという連絡が入った。教科書問題についても交流会をしたいとのこと。

開催日の迫る中、それぞれが仕事の分担をし、準備を急いだ。

呼びかけのパンフレットも作成、民主団体を通じて配布した。ポスターも作成し、最寄りの駅や、くのしま荘のなかのエレベーターに掲示させてもらった。新聞社も数社が報道してくれた。あらゆる手を尽くして、PRに努めた。

プレ写真展

何しろ、初めてのこと、果たして本当に写真展ができるのだろうか。運営委員は皆不安でいっぱいであった。事務局長の「プレ写真展をしてみないと。」その一言でみんな動き始めた。7月8日。写真が見えるだけの明るさはどうか。電源は、確保できるか。パネルは足りるか・・・。机は・・・。椅子は・・・。暑さ対策は・・・。

とまどうことの多い中、環境省とくのしま荘は電源、机、椅子、看板の設置など全面的な支援をしてくれた。当日は広場の草もきれいに刈り取ってくださっていた。

前日準備8月3日第1便8名は10時のフェリーにてパネルなどを車で中部砲台まではこび、準備作業開始。仕事の都合で午後からしか参加できない会員が多く、午前中の作業は大変だったことだろう。午後は人手も増えた。暑くて無風状態の中、作業は続いた。午後5時作業終了。明日は果たしてどれだけのお客さんがこられるのか。

いよいよ開催

朝9時。早速、忠海町のウオーキングの会の方が7〜8名、元気よく中部砲台にあがってこられる。顔なじみの方もおられ「いつもは忠海町内を回っているんだけど今日はこの写真展があるというので大久野島にしたんよ。きてみたらいいねえ。」と言われた。

大久野島写真展に来た大勢の参観者

ひき続いて町内のある小学校が平和学習に地域の方も一緒に見学学習にきてくれた。テントの中で熱心に村上さんの話を聞き、展示を見て回り、一人一羽ずつの折り鶴をつくり、感想を書いて島内のフィールドワークに出発していった。

私たちにはうれしいお客様でありこれはさい先よいとほっと胸をなで下ろした。その後も見学者が次々とあがってこられる。二組もの大学生のグループが、私たちのとり組みを3日間に渡って取材していた。卒業制作にするという。毒ガス島歴史研究所の遠方の会員も姿を見せてくださる。うれしい限り。ひさしぶりの交流をし遠く離れていても心はつながっていることを実感する事ができた。暑い中、「ふうふう」と息を切らせ汗を流して。会員の用意した冷たいお茶がどれだけ気持ちを和ませたことだろう。


証言をする村上初一毒ガス島歴史研究所顧問

テグ市教職員集団との交流

やがて11時。テグ市の教職員一行をくのしま荘で出迎えるため、歓迎団18名は下山した。これだけたくさんの人数で歓迎ができたことは、これからの交流も強く太くつながっていけるだろうと頼もしく思えた。

11時30分、大韓民国全国教職員労働組合テグ支部(以下全教組テグ支部)の金(キム)支部長をはじめとする小学生2名を含む22名の一行がくのしま荘到着。広間で昼食交流会。おみやげにお面の壁飾りとペンダントをいただく。言葉は通じないが和やかな昼食会。私たちはおみやげのお返しに作詞作曲の中村京子さんの指揮で「大久野島の歌」を歌った。この歌はぜひハングルに翻訳して両国の歌声を響かせたいものだと願っていたのでツアーコンダクターとしてこられていた李昇勲さんに翻訳をお願いする事になった。李さんは、「関釜裁判を支援する会」の「福山ワッタカッタの会」を通じてこれまでに2回大久野島を訪れている。今回のテグ市の教職員集団もぜひ大久野島につれていきたいという強い希望から忙しいスケジュールの合間を縫って、おいでいただいた。このような方のおかげで大久野島がより多くの人に伝えられていくのだ。彼は「従軍慰安婦を支える会」にも関わっている。彼は目を輝かせて私にこう 言った。「脚は大地の現実を。目は高く理想を。胸は熱く希望を。」日韓友好の架け橋として活躍している青年だ。

あわただしく昼食会を終えて、資料館を見学してもらい、車にて中部砲台に案内した。村上さんの証言の後、展示を見てもらったが、やはり一番の関心事は朝鮮戦争中の時この島が弾薬庫として使用されていたことであった。たとえアメリカ軍が接収していたとはいえこの島から朝鮮に向けておびただしい弾薬が運び出され使用されたことは確かである。

テグ市の教職員一行は教科書問題にも危機感を持って訪れてこられていた。「新しい教科書をつくる会」が作った教科書を使って授業をしなければならなくなったときにはまさに日本の子どもたちにとって不幸なことである。私たち日本の大人の責任としてとりくんでいかなければならないことなのに、恥ずかしい話である。このようにして民主主義教育、解放教育、人権教育について同じ目的に向かって民間交流ができるということはこれからの教育に大きな期待が寄せられる。

 後で聞いた話であるが、8月7日に「全教組テグ支部」と「日本国広島県教職員組合」において「両国の教育現場において平和教育と人権教育を推進するために連帯し、交流協力する」ことを目的として議定書がかわされ、両国共通の歴史副教材を作ろうという話まで進んだということはうれしいかぎりである。

14:00 またの再会を約束して港にていつまでも手を振ってお別れをした。


写真が展示された兵舎内部


たくさんの参観者が村上さんの証言を聞いた

おおくのしまの発信

被曝56周年原水禁広島大会「ヒロシマと戦争」バスツアーで「例年のように200名の参加があるのでガイドをお願いする」との連絡を受けていたので会員の中から8名の方にガイドをお願いして待っていた。うち1名は早朝広島まで迎えに行きバスに同乗してビデオをみてもらったり説明をしたりしながら案内してきた。バスは4台なのでビデオも4本用意してそれぞれのバスで広島から忠海の間 2時間近くの間に学習してもらった。それぞれのバスに案内者がつけば良かったのだが、島の方も準備で忙しい状態であった。

やがて10:42分着の船で200名もの来島者が降り立ったのは壮観であった。4グループに分かれそれぞれにガイドがついてフィールドワークをしながら中部砲台に来ていただいた。

村上さんは中部砲台で立て続けに4回も証言をされ、さぞお疲れだったことだろうが、またそれぞれの質問に快く応じておられた。11時から13時までは、受付、書籍販売、証言、展示説明、お茶のサービス…お昼ご飯も食べるのを忘れ(暇がなかった)ての、まさにごった返すといった状況であった。やっと一息ついたのは14時頃であった。しかし、心地よい疲れであった。

市内の子どもたちの絵も展示していたので中学生たちが数人やって来てくれた。中にはおばあちゃんと一緒に来たという中学生もいた。「家族でキャンプに来ているのだけれど看板を見て上がってきた。」という小学生もいた。つい話が弾んで、「資料などもあげるから周りの人たちに大久野島のことを教えてあげてね。」と熱が入ってしまう。ある大学生は「ここで働いていた自分のおじいさんの証言を聞きながら回っている。」ということであった。また「5年前、大久野島バスツアーに来たときあなたに案内していただきましたよ。」と声をかけてくださる方があった。また、「このツアーに息子と来たことがあります。当時目標を失ってあれていた息子が村上さんの話に感銘を受けて、今、沖縄伊江島の阿波根さんのところにボランティアでいって勉強しています。」というお母さんが村上さんに涙ながらに感謝の言葉を述べられていた。

また、この取り組みに多くの方から協力をいただいた。広教組竹原支区平和部会と青年部は準備から撤去まで積極的に関わってくれた。二組の大学生のグループは、3日間わたしたちのとり組みを取材した。卒業制作にするという。また、毒ガス島歴史研究所の遠方の会員も駆けつけてくれた。久しぶりの交流。心のつながりを実感しうれしい限り。新聞報道で知ってきてみたという人も多く、新会員になってくれたひともいる。


同時に展示された中国の子どもたちの絵

私たちの「おおくのしま」の取り組みは派手ではないけれども確実に広がり生きている。

この大久野島から平和と人権の尊重を発信していることを実感した2日間の取り組みであった。


日本の子どもたちの絵も多数展示された


大久野島写真展も成功に終わった。片付け風景


中国黒龍江省ハルピン市での 中日友好文化交流絵画展



おおくの島写真展を終えて


毒ガス島歴史研究所 顧問  村上初一


毒ガス島歴史研究所は今夏の猛暑にもめげず、大久野島の中部砲台兵舎(切り石とレンガ積み)を利用して。「おおくのしまあの歴史をたどる写真展」を開いて好評を得ました。

 その会場は標高100メートル、島内最高地で人の気配のないところです。(近日展望園地完成)しかし、ここはかつて日露戦争時に計画した芸予要塞の地でありました。瀬戸内海中央にある芸予諸島の、その中央に位置を占める大三島を取り囲む形で築かれたもので大三島の北岸に接する、忠海沖に築かれた「大久野島要塞」と大三島南岸に近い愛媛県来島海峡に浮かぶ小島に設けられた「小島要塞の組み合わせから「芸予要塞」とされ、当時は28糎榴弾砲が6門設置され呉の軍港の東の守りとした。しかし、日露の戦いが終わって、軍縮の時代が到来し、要塞法解除となり、その後島は毒ガス製造の島に変わりました。 その毒ガス島が国民休暇村に変貌した。

 昔、わが国は国民に戦争の悲惨さをあまり知らせないまま、他国を侵略していた。そして、戦争状態は深まり1944年(昭和19)年頃から本土空襲を受ける戦争の恐怖を知るようになり、戦況も攻撃から、防備に交代し、ついには本土決戦をせまられるようになり、終には、人類初の核爆発を受けてしまいました。この被害は史上稀である。あれから半世紀、グローバルな平和は程遠く、同時多発テロによる甚大な被害を受けるという人類最大の恐怖を想像せずにはいられない時代が到来した。今回私たちが開催した「歴史をたどる写真展」は、かつての毒ガス製造の実態(オーストラリア戦争博物館所蔵)日中友好書画展、国民休暇村に変貌した毒ガス島、のかずかずを展示したものですが、戦争の悲惨さ平和の尊さを訴えたものです。8月3日から5日の日程で連日猛暑の中、延べ60人が3日間手弁当で展示会運営にあたり、特に避暑対策に冷水を確保しながら、やっと熱中症から免れたのはなにより幸運でした。

 開会中約500人余の来館者に最敬礼です。まずは電灯の設備もなくはるか200メートル先の工事現場から延長コードを継ぎ足して証明としましたが自然光が有効に利用できましたので喝采でした。けれども薮蚊やアブなどの害虫には恐怖を抱き、ささやかな蚊取り線香で撃退したりして、やっと展示会が終わったことに大感激でした。また、あの中部の坂道を猛暑の中、徒歩により展示会場においでいただきました皆様に心からお礼申し上げ報告といたします。




取り組みを終えて

                    毒ガス島歴史研究所 代表  山内静代


私たちの夢が、皆さんのご尽力により実現し成功裏に終えたことに深く感謝申し上げます。

とりわけ、毒ガス島の生き字引という存在である村上初一さんがまるでドキュメンタリーのように写真を撮りためておられたのには驚きました。膨大な写真の中から、適切な写真を選び出し、拡大し、コメントをつけていただくという根気の要る作業を引き受けてくださった村上さんの熱意に深く感謝申し上げます。

また「日中友好絵画書道展」も同時開催でき、これからの子どもたちが平和について世界の人々とともに歩むきっかけとなるひとつの種を蒔くこともできました。ご協力いただいた皆様に感謝します。大久野島に残っている戦争遺跡のひとつである中部砲台兵士仮眠舎も多くの方に知っていただくことができました。遺跡を保存する運動の一助になったのではないかと思います。これからも戦争遺跡の保存に向けて取り組みを続けていきましょう。

この取り組みを通じてともにあせを流した方々、そして、熱中症が心配される猛暑の中、中部砲台までお越しいただいた方々の熱い思いをひしひしと感じたこのたびの取り組みでした。この取り組みはさらに大きく広がっていくことでしょう。

本当に有難うございました。今後とも毒ガス島歴史研究所の活動に対しまして、ご支援ご協力くださいますようお願いいたします。