今回の中国平和の旅は、前回の参加者3名と新たな参加者を含め11人の参加がありました。 この旅で、(1)遺棄毒ガス兵器による被害者との交流、(2)遺棄毒ガス兵器による被害現場を訪ねる、(3)日本の侵略時の毒ガス関係遺跡を訪ねる、(4)歩平先生との中国遺棄毒ガス問題の学習会を行いました。しかし、現在中国で掘り出されている遺棄毒ガス弾はチチハル市に集められているとのことでしたが、解放軍の弾薬庫に保管されているため見る許可がおりないとのことで見学することは出来ませんでした。
それらの中で、私にとって遺棄毒ガス兵器による被害者と家族のその後は大きな衝撃を受けると同時に、遺棄毒ガス兵器による被害者への救済と補償が一刻も猶予できないものであることを再認識しました。被害者とその家族は病気や周囲の偏見と闘い、精神的にも肉体的にも苦しみの中で日々の生活を生き抜いている現実に、今更ながら胸が締め付けられる思いがしました。
現実を知った日本人の私たちができることは何かを考える日々です。交流を続けること、日本で中国の遺棄毒ガス弾による被害状況を広めること、日本政府に一刻も早い医療救済と補償を実現させること、などなど私たちの役割は大変重いものがあります。それらのどれだけのものができるかを考えると微力な私たちには気が重たくなるようなことですが、私たちのできることを精一杯していきたいと考えています。
私にとって遺棄毒ガス兵器による被害者との出会いは3度目となります。1度目は97年夏に中国への遺棄毒ガス問題を検証する旅で、2度目は98年夏に李国強さん、王雅珍(李国強の妻)さん、張百忠さんを日本に招いたとき、そして今回です。

みなさん、私の健康状態を非常に心配して、関心を寄せてくれてます。これから、いろいろ御報告します。3年前、日本を訪れてから、正常に働けなくなって、健康の問題で、早く退職しました。前の50%の給料をもらっています。今の健康状態は、チチハルの厳しい気候に合わないから、こういう方法を採用しています。夏の間チチハルにいますけど、冬の間、南方で過ごします。そういう方法で、症状が緩和されます。夏の間は大丈夫です。心配しないでください。体は非常に元気です。でも、秋と冬ですよね、毎日薬飲まなきゃいけないです。だいたいそういう健康状態です。夏の間は、薬飲まなくてもいいので、経済的にも非常に楽です。なぜかといいますと、今の給料わずか300元だからです。ぜん息は、冬の間非常に苦しみを感じます。夏も時々咳もしますけど、それほどひどくありません。
当時、一緒に被毒した人たちは、もう3人死亡したそうです。被害者の死亡した原因は、肺ガン、それから肝臓のガン、肝臓の病気でなくなったです。奥さんと話ししたんですが、私が死んだら、遺棄毒ガス弾の医療研究に寄贈するつもりです。今の私の顔つき、ちょっと見ると60才ぐらいに見えます。でも、まだ53才です。衰えが、非常にひどいです。
日本から帰って来て、こちらは特別効く薬はありませんから、旦那さんは、やはりいつもの通り咳をします。よく咳をしますから、私もよく眠れません。だからいつも睡眠不足で、仕方なく、学校の仕事も8年早く辞めました。夏の頃、うちの旦那さんは、咳が冬ほどひどくないですけれど、毎日何回も咳をするので、眠れません。二人、一緒に眠れないから、今分かれて寝てます。 被毒したことで、家庭生活にも、健康にも影響があるんです。前は楽しいことばっかりでしたが、それが壊されたんですよ。楽しみは一切ありません。
みなさん、何回も毒ガス被害のこと調べるために、お出でになって、関心をもたれてることに感謝いたします。もう戦争が終わったといっても、戦争したことで災害が、まだ残っています。帰国してからも是非広く日本のみなさんに、今回調べた事実や戦争のことを知らせ、正しく歴史を認識し、再び戦争しないことを願っております。みなさんの御関心に対して改めて感謝いたします。
李国強さんは現在、体調が悪く仕事を続けられなくなり仕事を辞め、秋から冬の4ヶ月間は南方の親戚の家で、それ以外はチチハルで療養生活を送られているとのことでした。暖かい夏はまだ体調がいいですと言いながらも、交流中も咳が止まず慢性気管支炎で苦しむ姿がありました。王雅珍さんも体調が悪くなり教職の仕事を辞して、家庭生活を送られているとのことでした。そんな中で、私たちと会えたことを大変喜び、来日時の感謝と思い出を述べられ、暖かく私たちを向けえていただきました。お二人の精一杯のおもてなしと心遣いに感謝すると同時に、被害を引き起こした日本人の一人としての責任を痛感しました。話の中で、李国強さんの「日本から帰っても良くきく薬がないからそれまでと変わらない」、王雅珍さんの「今は楽しみがいっさいない」との言葉に胸がつまりました。また、前回お会いできた王岩松さんも仕事を辞め、上海で療養生活をされ、余命少ないとの話を聞き一層心を痛めました。

李臣さん、呉鳳琴(李臣の妻)さん、劉振起さんとの交流でも、現在も続く後遺症に愕然とする思いでした。李臣さんは、今でも腿にびらんが出てきてしばらくすると快復するが、年に何度もそれを繰り返している。また、よく眠れないで、寝ても悪い夢をいつも見ると叫んだり、暴れたりするため、妻とは別の部屋で寝ている、等々。劉振起さんも同じような症状ですと、現在も続く日々の生活の苦しさを訴えていました。呉鳳琴さんはため息をつきながら、「私たちはこの長い歳月ひどい眼にあいました。我慢するしか仕方がないという気持ちです」と思いを話されました。
李臣さんたちは、話したら何日も眠られない日が続くが、これからの中日友好のために話したいと語ってくれた。また、日本政府に対して、?中国に遺棄した毒ガス弾をきちんと処分して、これ以上私たちのような被害がおこらないように強く要求する、?日本政府は遺棄毒ガス弾について正しく認識し、両国政府および人民が子々孫々まで友好に発展することを期待している、?私と私の家族は遺棄毒ガス弾の被害によって肉体的・精神的・経済的に多くの損害を受けたことに対して救済・保障を強く求めたい、と3つの要求をされました。4年前から全く進展していない日本政府の対応に、私たちはどうすればこれらの被害者に具体的なものが返せるのかと力のなさを痛感しました。

李国強さんたちに被害をもたらした毒ガス缶の堀り出された場所に行きました。今は会社のビルが建っていました。ここでガス管の配管工事中に毒ガス缶(重さ100?もの鉄の缶)が掘り出されたとのことです。曹志勃先生より事故の状況を聞いているとき、会社から大勢の人が出てきて一緒に聞いていました。後で、事故を知っている人も知らなかったと言う人もいました。事故は1987年10月、14年の歳月を感じました。
続いて、李国強さんたちが被毒した中国第一重型機械集団公司供応処の事務所を見学しました。

二階建ての事務所には20〜30ぐらいの部屋があります。訪ねた部屋は、掘り出された鉄缶の内容物の検査をし、その液体を新聞につけて燃やしたため毒ガスが発生し、部屋や建物にいた人が被毒した場所でした。私たちが事務所に入ると大勢の人が集まってきました。そこに被毒した人がいて、当時の状況を話してくれました。その人も後遺症があり、今でも薬を飲んでいると言って薬を見せてくれました。事故当時、事務所内にいた200人余りの人がここで被毒したとのことです。
4年前は、日本から事故の状況を聞きにきたことが従業員にわかると、関係者が多くいるので大変なことのなるとのことでした。そのため、仕事中職場を抜け出して、李国強さんたちは私たちのために応接室にきて話をしてくれました。このたびは3年前、日本に招待したこともあり、会社を挙げて歓迎の宴を催してくれるほどの歓待をしていただき大変ありがたいと思いました。しかし、遺棄毒ガス弾による被害現場はどちらの建物も今は何事も無かったかのように大勢の人が働き、どこにでもある会社と変わらない。そこで働く人も当時の状況を知らない人もいる。しかし、日本軍の遺棄毒ガス弾による被毒によって、人生が変わった人のいたことは風化させてはいけないと強く感じました。

日本軍の第516部隊は、秘密裡に化学戦に関する研究・実験や気象研究などを行っていた部隊です。細菌兵器などを研究していた第731部隊とは悪魔の兄弟とも言えます。
敗戦まぎわに証拠隠滅のため軍事施設はほとんど破壊されています。現在では、住居用に使っている煉瓦作りの建物(地下道も残っている)と兵舎跡、ボイラーの煙突が残っているだけです。4年前と変わりはないように思いました。

第526部隊は静かな農村地帯で草地と林の中にあり、中国東北部のどこにでもある農村風景でした。部隊の正門跡だというコンクリートの残骸があるだけでそれ以外の遺跡は残っていませんでした。中国では建物に煉瓦を使います。戦後、近くの住民が日本軍の建物に使われていた煉瓦を取り外し利用したとのことで、今では全く残ってはいません。その場所は石が多く、農作に適していないために利用されていないと言っていました。曹志勃先生は数年前、金属探知器で遺棄毒ガス弾が地中に残っていないか調べたが反応はなかったとのことだ、少し安心しました。
第516部隊跡・第526部隊跡は、毒ガスの研究・実験や毒ガス戦の訓練が行われた場所です。今は遺棄毒ガス兵器の処理が問題になっているが、今後このような部隊跡の土壌汚染の問題が取り上げられるのではないかと考えます。日本軍の残した負の遺産はいたる所に存在します。これらは戦争遺跡としてきちんと位置づけをして残してほしいと考えます。

チチハル市を流れる松花江に架かる嫩江大橋を訪ねました。そこは遠くにチチハルの街が見え、草原が広がるとても景色の良いところでした。4年前、嫩江大橋は工事中で、橋の下の川辺の砂浜に降りて曹志勃先生より説明を聞きましたが、このたびは橋の上から遺棄した場所を見ることができました。この橋の上から多数の毒ガス弾を捨てたという日本軍の元隊員の証言があり、それをもとに中国の人が潜水具をつけて調査したところ、多くの遺棄毒ガス弾が砂に埋もれているのが見つかった。長い年月で、下流に流されたものもあり遺棄毒ガス弾はかなり拡散して埋もれているとのことだ。ここの遺棄毒ガス弾も日本が処理しなくてはならない。それまで被害がでないようにと願う。
罪証陳列館では金成民先生が待ち受けてくれていた。4年前、731部隊本部跡は中学校として使われていたが、今は新しく内装をして「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」としてオープンしていました。陳列館内は第731部隊のつくられた歴史的経過、犯した罪証、生体実験の模型、使用した器具などがわりかりやすく整理展示されていました。

毒ガス発生室
館内で学習した後、第731部隊の遺跡を見学しました。外も整えられていて、4年前と見違えるほどで驚きました。特別監獄(ロ号棟)跡は角の部分が遺跡として掘り出されていました(4年前は見られなかった)。次に、吉村班の冷凍実験室跡、小動物地下飼育室出入り口跡、イタチ飼育室、ボイラー室跡へと案内してもらいました。売店で買った「侵華日軍第731部隊罪証遺跡」という本に、毒ガス発生室が載っていました。案内の人に尋ねると残っているという、無理を言って見て回ったが、工場内にあり見ることが出来なくて残念でした。次回は、地下毒ガス発生室とともに是非見てみたいと思いました。
以上、毒ガス関係遺跡を見て周り、本で見るのと違う現実の迫力を感じました。と同時に、現在の状況と余りにも異なる風景に戦争中の出来事が思い起こされ、改めて日本の犯した罪の大きさを認識させられました。
黒竜江省社会科学院の歩平先生からは、中国での毒ガス問題及び中日関係と歴史認識についての講義を受けました。歩平先生は、東北アジア国際関係史が専門である自分が日本軍の毒ガス問題を取り組むようになった経緯(92年戦争時代の日本軍戦争遺跡の実地調査に黒竜江省の国境地帯に行った時、山の中で日本軍の毒ガス遺棄弾を見つけたことから研究するようになった)と大久野島との関わり(94年村上初一毒ガス資料館館長との交流)から話してくれました。

歩平先生
そして、毒ガス問題の問題点を3点上げ、?国際条約に違反して毒ガス兵器を使用した問題、?戦争中の毒ガス兵器使用による中国人被害者の問題、?戦後の遺棄毒ガス問題について、それぞれこれまでの研究と現地調査、聞き取りをふまえ、具体的な例を出しながら丁寧な説明を受けました。それに加え、中国で行われている遺棄毒ガス兵器の処理状況の説明も受けました。現在、掘り出された遺棄毒ガス弾は軍用倉庫に厳重に保管され、いくらかは日本に遺棄毒ガス弾を持ち帰り、処理技術を研究中であるとのことでした。
次に、中国・日本の歴史認識の問題では、歩平先生が日本人を理解した体験を語られ、相互理解の重要性を述べられました。人間的な立場で交流したら、互いの立場が理解できるようになるとの信念を持っておられる。
中日の歴史認識、戦争の被害と加害、現在の歴史教科書や靖国神社参拝などの問題と毒ガス問題はすべて繋がっている。したがって、先生は毒ガス問題を通してこれらの問題を考え、相互理解して行くと両国の戦争責任認識がより深く理解できる。皆さんは中日の相互理解のために中国に来て、いろんな人と交流していることはいいことだと考える。先生もいろんな日本人と交流して日本人の考え方・立場を理解した。互いに、相互理解のもとに歴史の共同像を建設しなければならないと考えます、と締めくくられた。