会報第10号 父が語ってくれたこと
今田 文子(七宝茂の娘)

2003年12月1日。私と母は、戦後の毒ガス処理作業体験を証言するために、大久野島へ向かう父に同行しました。当時父は、74歳。冬になると、風邪をこじらせて、微熱が下がらず、入退院を繰り返すようになっていたので、心配の余り同行したのでした。そんな体調の父が、曲がった腰で、杖をつきながら、真冬に大久野島を訪れて、実際の現場まで行って話をすることを引き受けたのには、証言を頼んだ私が一番驚きました。

 私は、小さいころから、晩ご飯を食べながら大久野島のことを聞いて育ちました。「わしらは、どうせ20歳まで生きられんと思よった。」「大久野島ではカナリアを飼っとって、毒ガスがもれたら、かごの中でばたばたあばれたり、死んだりするから、そしたら人間も危ないといって逃げよった。」「毒ガスを船に積みこみょうたら、嵐が来て、パイプがこわれた。毒は海水に溶けずに、丸い玉のようになって沈み、波に打ち上げられるたびに、だんだん小さな玉に分かれていった。」こんな話を当たり前のように聞きました。「イペリット」や「ルイサイト」、「黄1」赤1」のような専門用語もいつの間にか覚えました。

私が、小学校低学年のころ、地域の子ども会で、大久野島に海水浴に行くことになったとき、父は言いました。「あの島には、行かない方がいい。今でも毒ガスの臭いがする。」楽しそうに海水浴や釣りを楽しむ島が、その時すでに、戦後20余年を経過していたのにもかかわらず、恐ろしいままの島だったのです。後から聞いた話ですが、実は、父はこの時初めて毒ガス処理に行っていたことを母に話したのだそうです。母は、父と一緒に大久野島へ海水浴の下見に行ったそうです。すると、島の中には、毒ガスを貯蔵していた倉庫の跡が不気味に残り、くさいガスの臭いがまだ残っていたそうです。

それは、ある小学校の学習発表会での出来事でした。私の目からは、ただただ涙があふれて止まりませんでした。4年生の子どもたちが、「おじいさんから聞いた話 おばあさんから聞いた話・・・」と、「大久野島の歌」を合唱していたのです。その心にしみるメロディーと、歌詞の中身が父から聞いた話とぴったり重なって我が子が歌っているわけでもないのに、涙が止まりませんでした。

その後、私は、運命的な出会いをします。この、「大久野島の歌」を作られた中村京子先生と1年間同じ職場で勤めることができたのです。中村先生との出会いの中で、「毒ガス島歴史研究所」の会員にもなりました。そして、父のことを話すうちに、今回の証言をするに至ったのです。

証言をしている時の父は、一つでも多くのことをできるだけ正確に伝えようと、たくさん話 してくれました。家で聞くのとは違い、実際の場で話してもらったので、もっと聞きたくなり、私の方から質問したりもしました。父の取材を一生懸命してくださる研究所の山内先生ご夫妻をはじめ、同行してくださった会員の方々にもありがたい気持ちでいっぱいになりました。戦後60年。父や父のような体験をされた方の貴重な証言が、本当に大切にされ、多くの方々に知って頂きたいという強い願いも前より強くいだくようになりました。

戦争のことや、毒ガス処理作業のことは、必ずしも語りたいことではなかったと思います。思い出したくもなかったり、知られたくもなかったりすることだったのではないでしょうか。事情をよく知らない私は、父のとまらない咳をうるさいと感じたこともありました。少し歩いただけで息が切れてしんどくなる、そんな父の後ろ姿を見ながら、父が語ってくれたことを娘である私がまず大切にしていこうと、私の中の大久野島が言うようになりました。