| 会報第10号 第3回日中友好平和学習の旅 記録その1 | |||||||||||
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はじめに
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| 南京大虐殺紀念館での追悼式 | |||||||||||
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追悼式の後、私たちは幸存者から証言を聞いた。常志強さん、1928年生まれ、76歳の男性である。彼の話に私は冒頭から衝撃を受けた。彼は自分の南京大虐殺で受けた残虐な出来事は思い出したくもないし、人に説明するのもいやでずっと話さなかったそうだ。彼は、南京大虐殺で日本軍に家族をほとんど殺され、生き残っていた姉も死に、1人ぼっちになり、よく人から何故一人ぼっちになったか聞かれたそうだ。しかし、彼はいやなことを思い出すので、あまり詳しくは話さなかったそうだ。しかし、彼が話す気になったのは、いや、話さなければならないと思ったのは日本で「南京大虐殺はなかったのだ」ということを言う者がいると知ってからだった。歴史の真実を歪めようとする日本の動きは許せなかった。それ以来、証言するようになったと話された。一部の日本人とはいえ、歴史の真実を歪曲しようとする言動が南京大虐殺の幸存者をさらに苦しみのどん底に陥れていることを改めて知り大変申し分けないと思った。常志強さんの涙を流しながらの証言は、聞く私たちも涙なしには聞けなかった。証言の内容は別のところに記すのでぜひ、読んでいただきたい。証言を聞いた後、紀念館の中を参観した。大虐殺の現場に建てられた紀念館には掘り出された万人杭がそのまま保存されてあった。紀念館の広場の壁に刻まれた日本軍の残虐行為の様子の彫刻がその残酷さを私たちに伝えている。 私たちが訪れた時、紀念館の特別展として毒ガス展が開かれていた。4月に南京を訪れた人から、毒ガス展が開催されているとは聞いていたが、8月にはもう特別展は終わっているかと思ったが、丁度、間に合った。特別展の会場は広い会場にさまざまな毒ガス問題の情報が展示されていた。実物の毒ガス弾も展示され、大久野島の毒ガス工場の写真も展示してあった。毒ガス島歴史研究所が提供した資料も展示されていた。南京にも戦争中、毒ガスが運ばれていたことも解っており、近くで毒ガスも見つかっている。南京大虐殺と毒ガスが無関係でないことを物語っているともいえる。南京大虐殺と日本軍の毒ガス使用をもっと掘り下げて調べる必要がある。 |
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| 毒ガス展の会場にて | |||||||||||
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紀念館の内部の展示も6年前来たときとは展示方法が違っており、内容もより充実していた。何度、見ても日本軍による残酷な虐殺現場の写真は目を背けたくなるような残虐なものである。しかし、目を背けてはならない。歴史の真実を直視しなくてはと一生懸命見て回った。 紀念館を出て南京市内の虐殺現場を一ヶ所訪れ黙祷し学習した。南京市内にはあちこちに虐殺現場があり犠牲者を追悼する記念碑が建てられている。 その後、南京唯一の観光であった中華門を見学した。古代中国の合戦の歴史を残す有名な門だが、しかし、ここも南京大虐殺の時日本軍が侵攻し、大虐殺がおこなわれた場所でもあった。 17時55分発の飛行機で南京をはなれ北京へ向かった。19時50分無事、北京到着。北京では陳俊英教授が出迎えてくださった。6年前、毒ガス事件幸存者の李徳祥さんと一緒に三原で証言集会をした時、通訳で来られていた。陳俊英教授には会いしたことはあるが、話したことはなかった。私たちのことが解ればいいがと思っていたが、案ずることもなくすぐに陳教授と会うことができた。北京空港からすぐに車で河北省保定市へ向かった。保定市のホテルについた時は21時を回っていた。 |
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