| 会報第10号 第3回日中友好平和学習の旅 証言常志強 その1 | ||||||||
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南京大虐殺とは 1937年12月13日日本侵略軍は南京を占領し、南京の人民に対して六週間におよぶ悲惨な大虐殺をおこなった。虐殺された中国人民は日本の東京極東国際軍事法廷と南京の中国軍事法廷の調査によれば30万人を上回る。日本侵略軍は南京入城後、殺戮、強姦、略奪、焼き討ちを繰り返し行った。虐殺した死体の多くは揚子江に投げ込まれ、広大な揚子江が血で染まった。 |
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| 涙を浮かべながら証言する常志強さん | ||||||||
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私は、南京大虐殺の生き残りの1人だ。今日は、家族が急に体調を崩してキャンセルすることも考えたが、日本の方々に正しい歴史を知っていただくためにやって来た。日本に対しては、複雑な感情を持っている。ただ、皆さんは広島から来られた。私は、広島の市民も同じく戦争の被害者だと思っている。 1937年の秋、私はまだ9歳。家族は、母、父、姉、4人の弟、おばあさん2人の10人だった。その年の秋ごろ、日本軍の空襲があった。南京市内や外でたくさんの遺体を見た。赤ちゃんや婦人もいた。ものすごく怖かった。空襲が日増しに激しくなり、引っ越しをすることになった。財産のある人たちはみな逃げてしまった。 父親は小さな店を営んでいた。生活はとても苦しかった。2人のおばあさんを家に残して、私たち一家は南京市の国際安全区・難民収容所に非難することになった。涙を流しながら2人の祖母と別れたのを覚えている。 途中で行く手を遮られた。南京市を守っている味方の軍が、通行を規制していたのだ。幼い子どもを抱え、凍えるほど寒かった。1歳の弟もいて、一生懸命に通してほしいと頼んだが、どうしでもだめで別の場所に逃げた。だが、寝る場所もなかった。 翌朝、早く起きて安全区に逃げようとした。そのとき、日本軍の大砲の大きな音が聞こえた。中華門、光華門への攻撃だったようだ。幼い弟は防空壕に隠れた。私は病気で弱っていて、両親と一緒に最後に防空壕に入った。 数日後、砲撃の音が聞こえなくなり、みんなで防空壕から出てみた。辺りからは、泣き声や叫び声が聞こえた。最初は、状況がつかめなかった。こちらに向いて、日本軍の兵隊数人が銃剣を手にやってきた。急に発砲し、前の方の人が倒れた。後ろにいた人たちは驚き、後ずさりした。日本軍は人々を銃剣で刺し始めた。若い男性は、日本の兵隊の銃剣を奪ったが、背中から刺された。混乱して私たちは、母に寄り添った。母のそばにいた姉が、銃剣で刺された。姉の泣き声だけが聞こえた。続いて、母が胸を刺された。弟を抱えたまま倒れ込み、立ち上がったところを再び刺された。その弾みで弟は地面に放り出され、大きな声で泣き始めた。兵隊はまだ赤ん坊弟の尻を刺し、放り投げた。 その様子を見ていた弟3人が、母親のそばに寄り、「日本軍は悪い」と叫んだ。すると3人とも次々に銃剣で刺された。惨劇の中で、私は意識を失ったようになった。一番下の弟がどこにいるのかさえ分からなかった。3人の弟は息を引き取る間際まで、「日本軍は悪い」と言い続けた。姉が意識を取り戻し、「お母さんを見てほしい」と気遣った。私は、母のそばに寄った。母は涙を流して見つめ返すだけで、何もできなかった。服を開き、傷口を押さえた。母は声が出なかった。瞳はある方向を見つめていた。その先に、幼いわが子を捜していることが分かった。辺りは血の海。その中を、一番下の弟がはいはいしているのが見えた。尻は血だらけ。両手は寒さに切れていた。抱き上げて母のもとへ連れて行った。母は、わが子に乳を与えた。弟は、一生懸命に飲んでいた。よほどお腹がすいていたのだろう。母は声も出せず、涙を流しながらかがむようにして息を引き取った。私は、泣いた。どうすることもできず、父親を捜し始めた。少し離れた場所で、父親はひざまづいたままだった。背中に傷があり、顔も背中も血だらけ。指で背中を触ってみると、撃たれていることが分かった。父、母、弟4人がすべて日本軍によって殺された。 姉は5カ所に銃剣による傷を負い、自分で立ち上がることができなかった。「日本軍がまた来たぞ」という声を聞いた。2歳年上の姉は、そのままでは死んでしまう。近くの建物の部屋のベッドの下まで姉の体を引っ張っていって隠した。外をうかがうと、兵隊たちが、亡くなった人たちの服のポケットの中の小物や指輪、イヤリングなどを盗っていた。その夜は一晩中、姉と一緒に泣き続けた。 あくる朝、子どもを連れた女性の声を聞いた。太っている女性で、私は「助けてください」と頼んだ。女性は、姉と私を見て驚き、何があったのかを尋ねてきた。両親や弟たちが殺されたことを話した。すると、女性は同情してくれて、「一緒に来なさい」と言ってくれた。傷ついた姉をどうにか抱え、女性について行った。 女性の家は近くだった。部屋の中には、京劇関係のものが飾ってあった。私と姉は2日間、何も食べていなかった。女性は「ご飯を作って食べよう」と言ってくれた。理由は分からないが、姉が外に出ていった。そのとき、再び日本軍がやって来た。兵隊は女性と傷ついた姉を縛り、近くに連れて行った。姉の泣き声だけが響いてきた。わずか11歳でしかも重傷の姉を強姦したのだ。心の中で、我慢ができないほどの痛みを味わった。そのとき私は、「今この手に剣があれば、日本の兵隊を殺してやりたい」という気持ちで、本当に辛く、悔しかった。しばらくして女性と姉が手をつないで戻ってきた。ここは危ないので逃げよう、ということになった。女性は自分の子どもを、私は姉を抱えて4人で一緒に国際安全区に向かった。 その途中、多くの難民を見た。小さい子どもの姿に、幼い弟たちの姿が重なった。捜したいと女性に言ってみたが、「ここにいれば殺される」と諭され、弟を捜すことをあきらめてついて行った。姉はほとんど歩けなくなった。食べ物もなかった。女性は辛抱強く待ってくれて、私と姉を連れて南京市の中心地までたどり着いた。 国際安全区にアメリカの旗を掲げた女子大があった。門は閉められ、難民は外で開くのを待っていた。開いた時、人々は混乱して中に入った。建物の中に隠れていると、別の女性から「どうしてここにいるの。両親は」と聞かれた。事情を話すと、女性は優しくしてくれて、2階の部屋に連れていってくれた。 しばらくして日本軍がきた。男性と女性を別々に並べた。親類とか、姉とか弟とか、お互いの関係がはっきりしている人はよかった。身寄りのない人たちはどこかへ連れて行かれた。人々は混乱していた。聞いた話では、そうした人たちは揚子江(長江)のそばで射殺されたという。捕虜も殺され、揚子江(長江)の水は赤く染まった。ほとんどが罪のない一般市民だった。 国際安全区にいたとき、隣りに住んでいた人と再会した。家族のことを話した。彼女は、連れて帰りたいと言ってくれた。そうして、私と姉は2人のおばあさんに再会することができた。おばあさんは泣き崩れた。 ある日、私と姉は、母と弟が殺された場所に行ってみた。だが、もう遺体はなかった。小さな一つの靴だけを見つけた。「だれかに助けられていればいいのに」とどれほど願ったことか。通り掛かりの赤十字の人が「赤ちゃんと母親を見た」と話してくれた。寒くて、寒くて鼻水が凍っていた、とも。「それは私の弟だ」と言った。私と姉は孤児になった。 家族は2人のおばあさんと姉だけになった。私は、いろいろな仕事をした。戦争が終わる前日、南京にはコレラなどの伝染病が流行した。姉はコレラにかかり、治療する薬もないまま死んでいった。コレラなどの細菌は日本軍が飛行機からまいたのではないか、という話を聞いた。おばあさん2人も相次いで亡くなった。私は本当の孤児になった。家族の死は一生、心の中から消えることのない痛みだ。日本をとても恨んでいる。 私はその後、工場に入り、労働者になった。だれにも家族の話はしなかった。周りは私が孤児だということを知っていたが、理由を話したくはなかった。侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館ができた後、何度もこの辺りにきた。ただ、中には入らなかった。なぜなら、あの時のことを思い出してしまうからだ。80年代は入ったことがなかった。90年代になって、テレビで日本の右翼が「南京大虐殺はなかった」と主張しているのが報じられた。私は意を決して、紀念館の門をくぐり、南京大虐殺は「鉄の事実」だということを、家族の死のことを話すことを紀念館の職員に伝えた。 以前は日本人をものすごく恨んでいた。しかし、何度も日本からの団体の前で証言をしてきた。話を聞いた人たちは、「感動し、勉強になった」という感想を言ってくれた。そのうち、日本人に対する考え方が少し変わった。私自身も、戦争に対する見方を高めることができた。広島、長崎も原爆を落とされ、何十万人の命が奪われた。戦争を起こしたのは権力を握る一部の人たちだ。日本にしても中国にしても市民は戦争に反対するはず。少数の人のために、多くの人が被害を受ける。その立場は同じだ。 自分の目で見て、証言を聞けば、「南京大虐殺はなかった」との主張はできないはずだ。事実を覆い隠すことはできない。もしこれからまだ戦争があったら、私の家族の悲劇は皆さんの家族の悲劇になる。次の世代の若者たちを正しく教育しないと、戦争を繰り返す可能性がないとはいえない。平和を守ること、その大切さを深めることが重要だ。 証言をするのは苦しい。でも、日本の友人が遠くから来てくれる。できるだけ多くの人に伝えていきたい。私は、すべての戦争に反対する。いつの時代も平和を心から願う。同じく平和を愛する日本の人たちも、その思いをいつまでも大切にしてほしい |
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| 紀念館の一室で証言を聞かせていただいた。 | ||||||||