| 会報 第11号 第4回日中友好平和学習の旅 証言 王雅珍 | ||||||||||
![]() |
||||||||||
|
王雅珍(遺棄毒ガス被害者 李国強の妻)
|
||||||||||
|
私と李国強は中学校時代の同級生でした。1974年12月24日、李国強がチチハルのフラルキ区に配転になって2年目に、私たちは結婚しました。李国強は部隊では医務兵を務めていて、フラルキ区の第一重型機械工場(現在のフラルキ中国第一重型機械集団公司)に来てからは職員病院で医者をしていました。彼は仕事に熱心だったので、まもなく職員病院の団総支書記を兼任することになりました。結婚後私も拝泉からフラルキ重型機械工場に転勤になり、工場の第三小学校の教師になりました。 一年後に長男と長女が相次いで生まれました。夫は医者で、私は教師、健康で活発な息子と娘、友達や周囲の同僚たちは私たちの家庭をとても羨ましがっていました。毎日、日が暮れると家族みんなが食卓を囲み、賑やかな笑い声が絶えませんでした。夕食が終わると、一家みんなで手をつないで散歩に出たり、或いは私は生徒たちの答案に目を通し、李国強はカルテを調べ、二人の子供たちは膝にまつわりついて遊んだりしました。暮らしに必要な燃料、食料、油、塩、味噌、酢、茶など家庭内のこまごましたことで私たち夫婦は忙しくなりましたが、心は温かさで満ちあふれていました。 毎日のように、夜遅く子供たちが寝入った後、私たち夫婦はお互いのなすべきことを果たし、夫婦間の性生活は十分になごやかなものでした。軍人出身の夫は体力があり、あの頃の私たちは毎週3、4回性生活を送っていました。次ぎの日に出勤するときも、疲れなど感じないで元気一杯でした。私たちの住んでいた家は3軒共同の台所を使っていましたが、改革開放が進むに連れて人々の生活水準が向上し、私たちはそう遠くない将来に広くて明るい新しい家に移ることを夢見ていました。 しかしこの平和な年代に、私たちの幸せな喜びに満ちた生活が突然失われてしまうなど、全く考えてもいませんでした。旧日本軍が遺棄したイペリットが私たち一家全員の生活を破壊してしまったのです。 1987年10月17日、他の人たちにとっては何もない平凡な一日だったでしょうが、私たち一家にとっては災難が降りかかってきた一日になりました。この日が、中国を侵略した日本軍が遺棄した化学兵器------(アメリカが毒ガスの王様と呼ぶ)イペリットが夫の李国強に襲いかかった日なのです。それは彼ひとりの被害ではなく、一家全員に、特に妻である私の身に更に深い打撃を与え、私の心には一生払い落とすことの出来ない傷跡を残してしまいました。 あの日から、私たちの円満な幸せな家庭は沈黙に覆われ、楽しい笑い声はなくなり、ひっそりとしてしまいました。ですから、私はこの日を思い起こす度に、日本の軍国主義に対する恨みがふつふつと沸き起こって来ます。あの憎たらしい侵略戦争は私たち中国人民にどれだけの災難と苦しみをもたらしたことでしょう。彼らによって殺された中国の何十万という同胞の死はどんなにか悲惨で、哀れなものだったことでしょう。中国を侵略した日本軍は、この中国という土地の至る所で家を焼き、人を殺し、物を奪い、到底許すことの出来ない犯罪行為を積み重ねて来ました。日本政府は敢然として歴史上の事実を認め、現実と向き合い、中国人民に謝罪し、被害者に謝りの言葉を述べるべきです。何故なら、過去を忘れることは過去を裏切ることであり、歴史を忘れることは平和から遠ざかることだからです。従って、世界中の平和を愛好する人々が日本の軍国主義が行ったあの残酷な侵略戦争を決して忘れてしまわないことを、私は強く望んでいます。そしてまた、多くの心の清い人々が私の話を聞いて私を支持し、救いの手を差し伸べ、慰め、激励してくれて、公正な裁きの言葉が私たちに下されるであろうと信じています。私のこの17年間受けて来た心の傷を少しでも慰め、落ち着かせて欲しいのです。 この後、夫の李国強が被害を受けた経過について述べることにします。 10月17日は暗い天気で、ときどき細かい雨が落ちていました。仕事の引ける時間になっても李国強はなかなか帰って来ませんでした。私はとても心配になって、眠ることが出来ず、ずっとせわしい思いで彼の帰りを待っていました。夜10時過ぎ、長い間待ってやっと門が開いて、彼がくたびれきった様子で入って来ました。私は迎えに出るなりすぐに、どうしてこんなに遅くなったのかと聞きました。彼は服を脱ぎながら申し訳なさそうに、おかしなことがあったのだと言いました。その日の午後、工事中のフラルキ区ガス公司の建築現場で、鉄の缶が出て来たのだそうです。その鉄の缶は高さは約90cm、直径は約50cm余り、重さは約100kgでした。鉄の缶の外壁はかなり錆びていましたが、表面の黄色い標識はかすかに読み取ることが出来ました。缶は二層の構造になっていて、缶の蓋にはいくつかの銅製のねじの頭が並んでいました。現場の人たちはそれが何なのか分からなかったので、区の公安分局に報告しました。公安の人たちはすぐにやって来ましたが、その人たちも分からなかったので、第一重型機械工場に、関係する技術員をよこして鑑定してくれと助けを求めました。当時、夫の李国強は職員病院の職業病科で主任医師をしていました。病院の責任者は彼を含む4人の職員に機器(Y放射線測定器とX、B放射線測定器)を持たせて、鑑定に行かせました。 仕事熱心な夫は急いで現場にかけつけ、2台の機器でその鉄の缶に対して放射線の検査を行いましたが、2時間あまり経っても放射線は何も検出されませんでした。その時、誰かが「缶の蓋を開けて測定してみたらどうか」と言い出しました。蓋を開けて見ると、内側には食用醤油のような液体が見えました。それと共に蓋の口からは白い煙が出て来ました。その場にいた人たちは鼻を突く臭いを感じ、呼吸が速くなりました。皆で色々と相談した後、気体検査管を使って見ましたが、やはり一体何なのか分かりませんでした。そこで、李国強等は缶の中の液体を約200ccほど取ってビンに入れ、仕事場に持って帰って更に詳しく測定しました。内部の液体が油状を呈していたので、科の主任の王維亜は私の夫に、工場の供給所の油化科に持って行って、彼らに油類かどうか調べさせるようにと言いました。その時、油化科の王暁峯が言いました「もし油なら、すぐくっつくさ」と言って一枚の新聞紙を取り出し、その液体をちょっとつけてみました。新聞紙は燃え上がり、青い煙を出し、何とも言えない変な臭いが立ち込めました。部屋にいた人は皆その臭いにむせました。夫はもう一度その臭いをかいでしまって、とてもこらえきれずに一階の窓から外に飛び出しました。この時、夫と一緒に供給所に来ていた孫月平と康翠琴はすぐに廊下に飛び出しました。後になってようやくそれは旧日本軍が遺棄したイペリットだと分かりました。わが国の職業病の毒は全部で9類99種ありますが、その中にはイペリットはありませんでした。戦争が終わって50年も経つのにまだ中国人に被害を及ぼすとは誰も思わなかったのでしょう。 夫は私に話している間、やはり何度も咳き込んでいましたが、私はその時はあまり気に留めていませんでした。私は彼のために食事を温めてあげましたが、彼は食欲がありませんでした。私は本能的に何かおかしいと感じましたが、何故なのか分かりませんでした。その晩、李国強はほとんど眠ることが出来ず、ずっと咳き込んでいました。2日後、李国強は咳だけでなく、呼吸も困難になり、体の局部に水ぶくれが出来、生殖器が肥大し、ただれ、更に高い熱が出たので、私は大急ぎで彼を病院に連れて行きました。医者が検査すると、彼の脈拍は毎分150回にも上り、熱は39度余りで、医者は直ちに彼を入院させました。 数日間、李国強の病状は一向に好転せず、私はとても不安になりました。李国強を病に陥れた液体はチチハルの防化部隊に送られ、彼らはその液体が日本軍が第二次大戦中に残した毒ガスのイペリットであると認定しました。この毒剤は細胞の組織を破壊し、皮膚に水泡を起こし、ただれさせることを主要な毒性とする毒剤で、また発生した蒸気を通して人の眼や呼吸器に被害を及ぼすのです。解放軍203野戦病院の専門家は、李国強はイペリットの被害に遭ったのだと診断しました。現場にいた他の人たちも6人が被害に遭い、その病状は眼が充血して赤くなる、涙が出る、まぶしく感じる、咳き込み、息が激しくなるなどですが、ただ李国強よりはいくらか程度が軽いものでした。 李国強の入院は33日間続き、その間私は毎日夫の病床に付き添いました。入院して3日目には病状は更に重くなり、呼吸が困難になり、動悸がして、酸素が不足し、39.8度の高熱が出ました。酸素を吸いながら1瓶また1瓶と点滴を行い、更に薬局に行って色々な種類の咳止め薬を買ってきて、大量に飲ませましたが、彼の咳を止めることは出来ず、夫の表情はとても苦しそうでした。彼を見ていると、私は心が落ち着かなくなり、とても不安にかられ、いつも心配ばかりして、夫の命が気になり、自分を抑えきれなくなり、涙で眼が曇ってしまいました。2人の子供もワーワーと泣き出し、自分たちを愛し、可愛がってくれた父親が亡くなるのではないかと、とても不安そうでした。私はこの時は本当にどうして良いか分からず、夫の熱を下げることも、咳を止めることも、痛みを和らげることも出来ず、この毒によって夫の命を奪い取られてなるものかと願うばかりでした。病院の院長さんやお医者さんたちがどんなに手を尽くして救護措置を施してくれてもなかなか良い効果は得られませんでした。 野戦病院の専門家が診察した結果、彼の方針に基づいて治療が行なわれ、病状はいくらか良くなりました。しかし何日かするとまた元に戻り、夫はまた昏睡状態に陥りました。この時私の同僚はとてもよく私の面倒を見てくれて、進んで私の手助けをしてくれました。私の代わりに子供の食事を作ってくれたり、送り迎えをしてくれるなど、私のために気をもんでくれましたし、本当によく助けてくれました。私は夫の生存に対して何の幻想も抱くことなく、冷静な心を保つことが出来ました。段々と温かさが戻り、涙が私の頬に滴り落ちて来ました。私は心から夫を見守り、絶えず夫の病状の変化を観察していました。彼の病状がだいぶ良くなった時に退院しましたが、それはなんの役にも立ちませんでした。退院して何日かすると3回の発作が起こり、またあわてて病院にかつぎ込まれたのです。この後彼には深刻な後遺症が現れました。一年中咳が止まらず、いつも風邪気味で熱があり、免疫力が低下し、動悸がして眠りつけず、きつい仕事は出来ず、とうとう階段の上り下りも困難になりました。毎日何種類もの薬に頼り続けました。李国強が33日入院すれば、私の顔にも涙が33日流れ続けました。 李国強が退院して半月ほど経ったある日の夜、その日は彼の病状はあまりひどくなくて、私たちの心も落ち着いていました。そこで私は彼の懐にもぐりこみ、彼を祝ってあげました。時間がたつにつれて彼はきっとよくなるでしょう。食料も豊かになり、幸せがまた戻って来て、全てが良くなるでしょう。その時は彼もとても嬉しそうだったので、私たちはひとつになって抱き合い---- しかし、どうやってみても、彼はベッドの上で夫が妻に対して行なうはずのことがうまく行かず、失敗してしまいました。3回続けて試みても全て失敗に終わりました。私は彼に、慌てないでいい、もうちょっと待って体がよくなれば大丈夫だから、と言って慰めました。 一日一日と日が過ぎて行きましたが、李国強の病状は良かったり悪かったりを繰り返し、体力を使う仕事は何も出来ませんでした。2人の子供はまだ小さく10歳と6歳で、家の内外の一切のきりもりを、わずか1m50そこそこのか弱い女である私がしなければなりませんでした。いつでしたか、私がくたびれているのを見て夫が野菜窯に野菜を取りに下りて来てくれたのですが、足腰が弱っていたためにつまづいて倒れてしまい、私が慌てて近所の人を呼びに行って、何人かで彼を担ぎ上げてもらうということもありました。 あの頃は私も夫も30歳過ぎで、人生で一番良い時期でした。生理の面でも夫婦生活の要求が最も高い時です。俗に「30歳は狼、40歳は虎」といいますが、私は正にその虎の年齢でした。しかし彼は何も出来ません、私の心は考えれば分かります。彼はわたしをよく理解していて、何とか夫の務めを果たそうとしてくれるのですが、1回また1回、いくらやってもうまく行きません。そのたびに彼は汗を一杯にかき、もうちょっと待ってくれといいますが、夫婦のことは待てと言われても----- 職場で、女の人が家の中のちょっとしたことについて話す時も、私は彼女たちをとても羨ましく思いました。いつだったか夫が失敗した時に、私は耐え切れなくなって怒ってしまい、夫に背中を向けてしまいました。私のこの態度は彼の自尊心を甚く傷つけてしまい、結果として私たちは大喧嘩をしてしまいました。私は興奮して「あなたって役立たずね」と言ってしまい、彼は争うように「俺だってがんばってるさ、しっかりやろうとしてるんだ」といいました。失望と絶望の中で私は座り込んでしまい、声を荒げて言いました。「李国強、もしあなたがイペリツトでやられてしまわなければ、今みたいな悲惨な目にはあっていなかったんじゃないの。私、あなたと別れたい」と叫んでしまいました。夫は呆然とし、私もどうしてこんな事を言ってしまったのだろうかとびっくりして、2人とも黙り込んでしまいました。しばらくして彼がやっと口を開きました。「俺が悪いんだ。別れたいなら別れよう、明日それぞれ職場に行って証明書を貰って来よう。」そう言いながら彼は涙を流しました。私は心を和らげ、すぐに彼をしっかりと抱きしめ、泣きながら言いました。「国強、分かって頂戴、分かって。私、私とても辛くて--------」しかし彼だって辛かったのではないでしょうか。よく男の人にとって最も大きな失敗はベッドの上の失敗なのだと言います。正に男盛りだった彼が体の健全な宦官に成り下がってしまうなんて、一体誰が悪いのでしょうか。これは全て旧日本軍の侵略戦争が私たち一家にもたらした傷跡であり、イペリットが作り出した傷害なのです。 当時、夫の給料は200元でしたが、彼は毎日薬を飲まなければなりません。公費でまかなってくれる以外に、毎月100元の薬代を捻出せねばならず、一家4人、私の給料だけでやっていく外はありませんでした。子供は毎日大きくなるし、色々な方面で金のいることばかりで、我が家の生活はどん底に落ちてしまいました。それまで家の中にあった笑い声や歓声は影を潜め、代わりに耳に入るのはただ、夫の絶えることのない咳きとあえぎ声だけでした。 更に私たちにとって耐え難かったのは、私たちの子供がこの事で不公平な扱いを受けたり、差別を受けることでした。夫が被害に遭ってまもないある日曜日に、兄が妹を連れて泣きながら外から帰って来て、「お父さんは一体どうしたの、何の病気なの」と私に訊ねました。近所の友達が「家族ごっこ」をして遊ぶ時、誰も私の2人の子供たちと一緒に遊んでくれないのです。彼らは「お前のお父さんは毒に当たったんだろう、伝染病だ、お前たちも移ってるかもしれないぞ、大人になっても子供が出来ないぞ、子供が生まれても病気持ちだ、誰もお前たちと遊ぶもんか-----」心を傷つけられた息子は私に向かってそう言いながら、泣いて声も出ないほど咽びました。物分りの良い娘は兄の様子を見ながら、泣くのは止めて兄の手を取り、「お兄ちゃん、皆が私たちと遊んでくれないのなら、私たち2人で遊ぼう。」と言いました。娘のまだ目に涙を浮かべた天真爛漫な顔を見て、私もまた自分を抑えきれなくなって2人の子をしっかりと胸に抱きしめて、声を殺して泣き出してしまいました。 次ぎの年、娘が学校に上がると、娘と隣り合わせになった男の子の親が学校に来て、息子が伝染病にかかったらいやだから席を替えてくれと要求しました。先生に説得されて席替えは行なわれませんでしたが、その男の子は娘をいじめだし、仕方なくこちらから席を離してくれと申し入れざるを得ませんでした。 李国強が被害にあって1年後に、私たちは別々に寝ることにしました。別かれる最初の日、私は息子の布団を彼のベッドにかけてやりました。自分の布団を抱えて出る時、夫のあの力のない目が私の心の悲しみを募らせ、私が「国強、本当にごめんなさいね。一緒にいるととても耐えられないの-----」と言うと、彼は手を振って、「もういいよ、分かってるよ。」と言いました。 夫が毒の被害をうけた後、彼に対する打撃は毒の被害だけに留まらず、その後の連鎖反応が彼の生きる意欲を失わせていきました。夫の母は長男が毒の被害に遭ってからというもの、ご飯も喉を通らず、2ヶ月後にわずか60歳で亡くなってしまいました。夫の父も体が丈夫だったのに自分の妻が亡くなった次の年の3月に亡くなりました。死ぬ前に夫の父は夫の手をとって言いました。「国強や、お前たち兄弟姉妹5人、わしは誰のことも心配することはなかった、ただお前だけは気がかりなままだ、お前の当たった毒でお前はいつ命を失うかも知れん、息子や、何としても正義を勝ち取るのだぞ、-------あんたもしっかりと、この病気を見てやって------」 被害に遭ってからの李国強は人が変わった様で、以前は白い奇麗な顔だったのに、今は鼻の右側に銅銭の大きさの黒い斑点が出来、すっかり駄目になってしまいました。奇麗好きだった彼が身なりに構わなくなり始め、やがてひどい時は半月も風呂に入らなくなったのです。病の痛みが李国強を特にいらだたせ、特に生殖系統の傷害は彼の性的能力を失わせ、深い劣等感に陥ってしまいました。しかしこの劣等感が、強くありたいと願う彼にとっては従順さではなくて、頑固さという形になって表れました。これは一種の天邪鬼の心理だったのですが、当時の私には分かりませんでした。 黒龍江省でイペリットの被害に遭った人は100人余り、全国で日本の遺棄毒ガス弾の被害にあった人は2000人余りになり、そのうち3分の1は離婚していますが、私は人民教師ですから、他人から後ろ指を指されるようなことは出来ません。いつも自分のイメージというものに注意せねばなりませんでした。 長い間の性的抑圧で、私はよく寝ている時に性愛を夢見るようになりました。夢の中で、現実には二度と有りえない歓楽を味わうようになったのです。ある日の夜、子供たちが寝た後、夫が私のベッドにやって来ました。私が「あなた来ては駄目でしょう」というと、彼は小声で私に、100元ほど出して人に頼んで外で2箱の薬を買ってもらって、2粒飲んだのだといいました。私も嬉しくなって彼の胸に飛び込みましたが、奇跡は起こりませんでした。自分のこの病気は、性薬を飲んでもまだ治らないのか。唯一の希望も打ち破られて、彼は小さな声で泣き出し、言いました。「雅珍、もし駄目なら俺たちは本当に別れよう。お前はまた別の奴を探せ。今別れれば、お前の後半生は幸せになれるだろう。何と言ってもお前はまだ40歳なんだから----」彼の言葉を聞いて私の心は刀でえぐられるような、油で煮られているような感じがしました。神様、私はまだ生き生きとした女なのでしょうか。夫婦生活の不具合、夫のいらだたしい性格、更に加えて彼の一晩中続く咳で、私は眠れなくなり、別れてしまおうという考え方も抱くようになっていました。しかし夫婦だったことを思い、彼が以前私に良くしていてくれたことを思い、もし離婚したら2人の子供が片親の家庭の子になってしまうと考えました。そしてもっと重要なことは彼の体は既に毒にやられていて、もし私が彼から離れて行ったなら、彼の心に再び傷をつけてしまうことになる、人間はそんなに強いものではない、彼の心はすぐにボロボロになって、その結末は悲惨なものになるに違いない、私は何と言っても彼を愛していた、私は不吉な知らせなんか聞きたくないと思いました。私はやむなく心の中で自分に言い聞かせました。歯を食いしばって、苦しみは自分の内に留めておこう、彼の限りある命のために喜びを与えてあげよう。 長期に渡る悲しみと憂い、悩みと苦しみ、それに加えて経済的負担の重さで、私は次第に神経衰弱症に陥り、いつも安定剤を飲まないと眠れなくなっていました。そして泣いてばかりいたために眼もおかしくなって、一年後には虹彩結状体炎と結晶体混濁を患ってしまいました。目の前に沢山の障害物が出て来て、この時は私の心は更にいらだちました。3年後、治す金が無かったので、左目は慢性の白内障になってしまい、今もぼんやりとしか光りを感じることが出来ません。左目が悪くなると、右目に負担がかかり、右目が疲れ目になって、視力は0.5まで落ちてしまいました。目は心の窓です。心の苛立ちに加えて視力が減退したことで、私は暗闇のどん底に突き落とされてしまいました。 私は教師でしたから、目を使う機会はとても多いので、あちこちと医者を訪ねまわりました。黒龍江省一大病院では、教授が私に手術を勧めてくれました。彼女の話では、手術をすればまたよく見えるようになると言うのですが、手術代が7000元余りでは、私たちにはとても払えません。ここ数年来、我が家の生活は私のささやかな収入によって維持されて来ましたが、親類や友達から借りた金もまだ返し切っていませんでしたので、私は治療をあきらめました。教師として目が見えないということはとても大きな障害なので、仕方なく私は1998年に45歳で早期退職することにしました。 私が心から愛していた職場から離れる日、私は自分の組の可愛い子供たちに最後に一目会って、しっかり勉強するようにと言おうとしましたが、一言も言い出せず、まだ教室に入らないうちから組の入り口の扉に寄りかかって、泣き出しました。同僚が助けてくれて、私は歯を食いしばって子供たちに言葉をかけました。「みんなしっかり勉強して、将来より良い、より強い祖国を作り上げるのよ。国が強くなりさえすれば、外からの勢力も私たちを侮ることはなくなり-----」子供たちも耐え切れなくなって、私と一緒になって皆で泣いてしまいました。 周囲の同僚、知人、友達、また私とそれほど年齢の違わない或いは時には私より若い人たちを見てみると、皆新しい家に住んでいました。私の家だけが、50年代に建てられた古い建物で、3軒共用の台所を使っていましたが、これは私たちの工場では外では全く見られないことでした。私たちはなけなしの給料を全部李国強の看病と薬代に使っていたために、家を買う金はありませんでした。 これらのことは全て日本の軍国主義が残したイペリットによってもたらされたもので、罪のない人を苦しめた者と、それに対して償いを求める者がいるのです。私たちは日本政府に対して正義を勝ち取りたいし、中国人民に対しては、旧日本軍が残した各種の有毒ガスの被害に遭わないようにと警告を発したいのです。 2003年8月4日、我が国のチチハル市でまた旧日本軍が遺棄した毒ガスが漏れ出す事件が発生し、40人が被害に遭い、1人が亡くなりました。またもや多くの家庭が、私たちと同じように毒ガスの被害の後遺症に苦しむことになりましたが、彼らを本当に理解してあげることが出来るのは私たちだけでしょう。 私は、旧日本軍の遺棄した毒ガスによる被害が二度と起こらないことを願っています。歴史は繰り返してはなりません。日本政府はこの歴史的事実をきちんと認め、被害者にそれなりの賠償を行なうべきです。日本の大久野島で毒ガスを製造していて被害にあった人たちは、みな既に賠償を受けています。ならば同じ障害に対しては、その扱いは同じであるべきです。ですから私たちは日本政府に対して、公正な判決を下すことを強く要求します。心と体の障害は経済的に賠償すべきで、これは至極当たり前のことであって、あなた方は逃れることの出来ない責任を負っています。身体の障害、心の傷は金であがないきれるものではありませんが、少なくとも私たち被害者としては多少なりとも精神が慰められ、心の安らぎを得ることが出来ます。私たちは日本政府に対してイペリットが夫にもたらした被害を賠償請求するだけでなく、私も彼らに対して、女性として妻としての性の権利を取り戻したいと考えています。 10数年来、ずっと私は涙を流しながら暮らし、安定剤で睡眠をとって来ました。長期に渡る安定剤の服用で、私は耳鳴りを覚え、両耳のそばでいつも音が鳴り続けています。目の病気は視力の減退をもたらし、更に性的不満に悩まされています。私は悲しみと憂い、悩みと苦しみの中で生活して来たといえます。誰が分かってくれるのでしょう。私たちは何と苦しい、何とくたびれる生活をして来たのでしょう。私は七色の色彩に満ちたこの世界が大好きですが、身体に傷を負った私たちは、このような生よりは死の方がましです。ただ私は法は公正なものであると心から信じていますので、本当に皆さんを信頼し、正義を主張する裁判官が公正な判決を下してくれることを信じています。そうあってこそ、私たちは生きる希望を見出すことが出来、私たちの残された命の輝きに何がしかの光が見出せるでしょう。そうでなければ私たちは絶望の淵に立たされてしまいます。 戦争は人民に傷跡を残し、災難と苦痛をもたらしました。従って全ての平和を愛する人々は決して日本の軍国主義の再復活を許してはなりません。私たちの国家のため、日中両国人民の世世代代の友好のため、アジアの明日のため、世界が愛に満たされるため、私たちは立ち上がり、世界平和に貢献しましょう。
|
||||||||||
![]() |
||||||||||
| 1998年、来日して大久野島毒ガス工場のあった竹原市内で遺棄毒ガス被害を証言する李国強さん(向かって左側)と王雅珍(右から2人目) | ||||||||||