聞き取り

『加害の日本「毒ガス島」大久野島』

岡田黎子

 こんにちは、岡田です。大久野島について加害の面から考えていただくことはとても意義深いことと思っております。私は太平洋戦争の末期に大久野島へ学徒として動員されました。私の学童期はずっと戦争中で、「軍国主義教育」を受け、戦争するための人間として育てられました。そして学校では、戦争は正しいことといって教えてもらい、お国の為に、天皇陛下のおんために戦争で戦って、殺したり殺されたりすることは日本国民としてもっとも名誉なことであるということを教えこまれました。そして、太平洋戦争も末期になってきますと、中学2年生以上の生徒は、軍需工場での労働が義務づけられました。わたしたちは個人の自由意志というものは抹殺されてしまって、大久野島で何がおこなわれているのか、戦争の実態はどうなっているのか、真実はまったく知らされないまま、何もよく分からないまま、無理やり命令で戦争へと巻き込まれていきました。

 わたしは当時、旧制高等女学校に在学していましたから、今でいうと中学2年生から3年生へかけて大久野島へ学徒動員され、そして中学3年生の夏、敗戦を迎えましてからは被爆後の広島へ救護活動に行かされました。そこで受けた衝撃、惨状と恐怖というものはわたしの生涯ぬぐい去ることのできないものとなりました。そして昭和天皇が亡くなった年にこの「大久野島・動員学徒の語り」という画集をつくりました。これからこのなかの絵を皆さんにスライドでみていただきますが、わたしたちのかかわった兵器によって亡くなられた対戦国の人々のお墓へこの画集を供えているスライドも出てきますので、ご覧いただきたいと思います。それではスライド御願いいたします。

「大久野島・動員学徒の語り」

岡田黎子著 ジーン・イングリス英訳

1500円(送料込)。希望者は事務局まで。

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 みなさんこんにちは。私は太平洋戦争の終わり頃、いまでいうと中学2年生から3年生へかけて大久野島へ動員された岡田という者です。戦争中は中学2年生以上の生徒は兵器をつくる工場へ働きに行かされました。

 


この写真の前列中央にいるのが当時のわたしです。「みいくさに立つも立たぬも大君の、醜の御楯と行かざらめやも、おみなわれも国に召さるるとひたすらに慎しみてゆけ誇らかに行け」という歌に送られて、正義の戦に参加するために勉強をやめさせられて、おそろしい殺人兵器をつくりに行かされたのです。戦争は兵隊さんだけがするのではなくて、すべての国民が巻き込まれるものなんです。


 


 これは大久野島です。竹原市忠海町の南、約3キロメートルの所にある小さな島ですが、戦争中は毒ガスの島として秘密にされ、地図からも消されていました。この島では国際法で禁止されているほど、恐ろしい猛毒ガスがつくられていたのです。

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この写真は赤筒というくしゃみの出るガスの入れ物です。涙の出るガスや、タダレを起こすガス、呼吸ができなくなるガスなどたくさんのガスがつくられました。


 


 これらの毒ガスは日中戦争で実際に使われました。これは中国の南京大虐殺記念館です。


 


 これはそのなかのお墓です。戦争中大久野島で働いていた人は5,000人以上もいましたが、みんな毒ガスによって体を悪くしました。


 

 この島では気球爆弾も作られました。209個、ほとんど私たち学徒がつくりました。気球爆弾は日本から9,300個アメリカヘ向けて打ち上げられ、オレゴン州のブライという所で、ピクニックに来ていた子どもたちを爆死させました。これはその人たちの慰霊碑と、遺族の人たちです。

 



 私たちはこんな恐ろしい人殺しの兵器をつくらされてしまいました。ごめんなさいという気持で一杯です。

 


 ここからは、私の描いた絵です。昔のことを思い出して、皆さんに見てもらいたいために、一生懸命描きました。敗戦の前の年から呉線の列車は大久野島がみえないように窓に鎧戸が下ろされました。兵器製造所はこのようにして秘密が守られたのです。

 


 敗戦の前の年の秋から、私たち中学2年生は何も知らされずに大久野島へ行かされました。防空ずきんと救急袋を肩にかけ、白ハチマキ、もんぺ、決戦服、下駄か藁ぞうりを履いて兵隊さんのすることと同じように挙手の礼をして、勇ましく忠海港から出発しているところです。

 入所式には、忠海の近くの中学2年生と3年生が約630人ほど、大きな部屋の中に整列して、所長さんの訓示を受けました。

 「@この島でつくっている兵器のことは秘密だから、家に帰っても言ってはいけない。A島のものを持ち出していけないので帰りには服装検査をする。B皆さんには風船をつくってもらう」といわれました。この絵は、帰りに服装検査をされているところです。

 

これは発煙筒の見学です。敵の戦力を弱めるための煙幕であるという説明で発射されると、見るまに煙が広がりました。本当は毒ガスが詰められていたのです。

 

 毎朝、軍人によって点呼をとられ、軍人勅諭を朗誦し、注意を受けてから班に別れて工員さんの下で発煙筒をつくる作業をしました。この絵は煙の出る穴をふさいでいるところです。

 

 終戦の年の春、火薬が爆発し、部屋は火の海になり、屋根は吹き飛んで大爆発となりました。みな窓から逃げたり、這って逃げたりしましたが、火薬と炎を吸い込んで食道や器官が焼け、顔や腕に火傷して重体になった人もいましたが、この極秘の島はお父さんやお母さんのお見舞いも許しませんでした。

 


 午後3時には大きなおにぎりが出ました。とてもおいしかったです。中には弟や妹にこっそり持って帰る人もいました。スピーカーからはいつも勇ましく日本が勝っていることを放送していました。

 


 「昼食後、MさんとOさんは松葉をとって、つまようじ代わりにしたところ、歯茎が腫れたり、頬が腫れあがりました。私たちが島から帰るとき、夕月を仰ぎ見ると、松が悲しそうに黒く枯れていました。島はそれほど毒ガスで汚れていたのです。

 






 これは毒ガスをつくる工員さんが毒ガスにやられないように、カラダ全体を防毒服で包んでいるため、息苦しいのでゆっくり歩いているところです。それでも死んだ人がいたし、傷ついた人もいました。

 



 動員に行き出してまもなく、日本は空襲されはじめました。大久野島に爆弾が落とされたら、私たちは毒ガスにやられるというので、工員さんたちの使い古した毒物のついた大きな防毒面が配られました。それを顔につけると、涙が出たり、顔がヒリヒリして痛みだし、急いで顔を洗いにいった人もありました。

 





  ここからは気球爆弾の製造で、11月から4ヵ月間この作業をしました。気球爆弾というのは、直径10メートル位の紙風船に水素ガスを入れて、これに爆弾を吊るして打ち上げ、上昇気流に乗せて飛ばし、アメリカの上空に行った頃に爆発する仕樹けになっているというもので、必ずアメリカまで行くとは限らないものですが、アメリカでは285の事故を起こし市民を爆死させました。

 




 これは気球になる原紙をつくっているところです。この紙はコンニャクマンナン積層紙というもので、蒸気を通したバルブを心棒として大きなトタンの箱をくるくる回しながら、和紙とコンニャクのりのサンドイッチになったものを作っているところです。

 



 出来上がった紙は電気で透かしてみて、弱いところに赤色えんぴつで印をつけました。

 



 赤色えんぴつで印をしたところに小さく切った原紙を張って強くしました。1月から2月にかけて、広い広い、寒い部屋で、中学2年生の女の子が手をかじかませてやりました。少ししかできない人は、みんなの前で叱られました。

 



 これは気球の組立です。絵の窓枠のところに描いている図の部分を張り合わせているところです。地球にたとえると、北極から赤道まで約8メートルの細長いかたちのものをつくっています。きっちり貼らないと弱いところから破裂するのでよく叱られました。

 




 細長くつながった紙をお茶碗のように半球にしているところです。半球を2つ赤道のところで合わせて、まん丸い球体にしました。

 



 球体ができると、爆弾を吊るすためのケンカカーテンを赤道のところに取りつけました。そして気球に空気を入れて膨らませ、中に入って、中から光を当てて、外側から透かしてみて、弱いところをさらに原紙を小さく切って貼り、補強しました。

 


 完成した球体には雨がかかっても大丈夫なようにラッカーを塗りました。大久野島ではここまでの作業をしました。爆弾の取りつけなどは外でおこなわれました。

 


 コンニャクマンナン積層紙は非常に丈夫なので、気球の断ちくずを使ってゾウリをつくり、島で作業するときに学徒たちが履きました。

 

 私たちは勉強しないまま3年生になり、髪もおかっぱからおさげになりました。初夏になると東京や大阪など、空襲が激しくなり、大久野島に爆弾が落とされるときのために、建物と建物の間に爆風よけの土塁というものをつくりました。とても肩が痛く、足もだるく、ヘトヘトになりました。上のほうにパイプが張りめぐらされていて、そのパイプから硫酸のしずくが落ちて、大火傷をした人がいました。


 

 これは忠海中学、男子の作業です。6月から中学2年生男子が新しく動員されてきました。そして毒ガス工場を壊す作業をしました。柱に縄をつけて、「えんやらやっ!」と建物を引き倒すと、毒物のついたホコリが舞い上がりましたが、何も知らされていなかったので、そのホコリをふんだんに吸い込みました。この人たちは肺がんにかかった人がとても多いのです。それから防空壕を堀ったり、土を運んだりしました。

 





土塁づくりをしていたある日、上官が見回りにきました。そのとき、いつもは閉じている毒ガス工場の戸が開いて、わたしは中を見て驚きました。この島では「大変なことが行なわれているんだなあ」と思いました。

 


 ここからは毒ガスの疎開ですが、わたくしたち学徒がもっとも苦しみ危険だった作業です。7月になると沖縄も陥落し、いよいよ本土決戦ということになってきそうでした。大久野島が爆撃されたら、広い地域の人々が毒ガスに冒されるので、毒ガスを対岸の大三島に疎開させることになりました。これはドラム缶に入った毒ガスを工員さんが運搬車に積んでくれているところです。

 


 保管庫から桟橋まで舵の取りにくい工場車と大八車にドラム缶を乗せて、暑い毎日を朝から晩まで走り通しで運びました。夕方になると、汗びっしょりのからだに、涙や鼻水やクシャミが出て、みな顔をくしゃくしゃにして走りました。漏れている毒ガスの恐ろしさを知らないので、みんな顔がおかしいと言ってケラケラ笑い合いました。

 


 3時のおやつ時になると、工員さんが氷を持ってきて割ってくれました。氷は冷たく口に溶け、炎天下の重労働のなかでいちばん楽しいひとときでした。薬で手を洗ったりしましたが、あのドラム缶の中にはいったい何が入っていたのでしょうか。

 


 大三島に船で運ばれたドラム缶を転がしてイモ畑に運びました。ドラム缶は重くて、思うように動いてくれませんでした。水疱ができたり、目がはっきり見えなくなった人がいました。敗戦後、これらのドラム缶は全部掘り出されて、太平洋に沈められました。

 


 1日中ドラム缶と戦って、疲れて帰る毎日のなかで、帰りに桃を2つずつもらったことがありました。食料難で桃のようなゼイタク品はめったに手に入らないので、みんな船の中で家族へのおみやげができて大喜びしました。

 
 

 毒ガスの運搬作業が終わって7月の末から8月の初めにかけて、工室のなかの後片付けをしました。わたしたちが窓枠を直していると、男子は配電線を切っておりましたが、それは危険な作業だったということでした。

 


 私たちは建物を取り壊したあとのゴミや工室のなかのゴミを大八車に山積みして焼却場に運んで焼きました。様々な色の炎や煙が出ました。Kさんは焼いているとき声が出なくなり、3日間声が出ませんでした。Oさんも鼻や喉が痛くなり、クシャミが出て目が真っ赤に腫れました。

 


 敗戦になる前に本土決戦で戦うために、竹槍訓練がありました。前へ、前へ、後ろへ、前へ突け!と大きな竹を持って一生懸命突く練習をしました。アメリカ兵が来たら、1歳になる私の弟はどうなるだろうかと、とても心配で暗い気持ちになりました。私たちの戦争とはまるで関係のない、青い、青い海と、夏の太陽の光をじっと見つめたものでした。

 


 敗戦の前には飛行機の燃料が日本にはもうなかったので、松の根から油をとるために、大久野島の山へ登って松の根を掘りました。もう日本はだめだ、日本人は負けたらひとり残らず自殺するんだと思っていたとき、原爆が落とされて終戦になりました。この絵は悔し泣きしながら歌を歌っているところです。中央の新元中尉が『荒城の月』を歌ってくださり、とても人間らしい気持ちになりました。

 


 これはアメリカのブライという所で、気球爆弾で爆死した少年のお墓です。毒ガスも核兵器と同じように反対運動をしなくてはなりません。そして、人類から、すべての人間から、すべての兵器が永久になくなるように祈ります。終わります。

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 ここから画集をつくったあとで4枚ほど学徒の状況についてわかりましたので書き足してありますので、ちょっと説明をいたします。

 学徒動員令というのが下る前、1943年(昭和18年)の春頃から私たちの学校の上級生は、大久野島の仕事を勤労奉仕というかたちで大久野島へは行かないで、忠海港の近くの工場で作業させられたときの状況です。

 




 発煙筒のドーナツ型火薬の袋をミシンで縫いました。窓の所に書いたマークは、ミシンにつけてあった徴用のマークです。

 

 縫い上がったドーナツ型火薬に、防水用のラッカーを塗りました。ラッカーの溶剤はシンナーで、風に当てると気泡ができるというので、閉め切った部屋のなかで朝から晩まで塗らされました。トイレへ行くにも、一人ひとりが行くとドアの開け閉めで風が入るので、トイレヘは全員一斉に外へ出されたということです。シンナーによってからだを壊した人が出ました。

 

 ジュウシマツが毒ガス製造工場の中に飼われていて、ジュウシマツが死んだらその部屋に毒ガスが漏れているということで、工員さんたちは急いでその部屋から出て、走って逃げたということでした。また、ウサギも毒ガスの生体実験用に飼われておりました。

 


 塩をつくるため塩田作業をしました。敗戦間際になると、物資がなくなってきました。塩も自由に買えなくなってきたので、学徒たちは大久野島へ行って、何人かはこの塩田作業をさせられました。ここで作業した人は、この場所で原爆雲を見たし、敗戦もここで迎えました。

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 これでスライドを終わり、引き続いてお話をさせていただきます。まず、スライドの補足説明をいたします。

 地図から消された島ということですが、現在の地図はこの様になっておりまして、ここに大久野島があります。

 ところが、戦争中はまったく同じ場所の地図ですが、このように消されておりました。このあたりに大久野島があったはずです。

 次に、気球爆弾についてですが、アメリカに行って285の事故を起こしました。アメリカがもっとも恐れたのはやがて毒ガスや病原菌を運んでくるんではないかということでした。気球爆弾は戦争終結へ向けて、トルーマン大統領が原爆投下に踏み切ったひとつの誘因になったかも知れないということが考えられます。原爆投下にはいろいろな理由があったわけですが、そのきっかけのひとつになったかも知れません。事実、長崎へ投下された原爆の本来の攻撃目標地は、北九州の小倉でした。小倉では気球爆弾を一貫作業で大量生産しておりましたので、そこへやってきた米軍機は、小倉の上空が雲に覆われていたため見定めて原爆を投下することができず、長崎へ投下して帰ったという事実があります(「女たちの風船爆弾」林えいだい著)。

 次に、私たちが運んだドラム缶の中には一体何が入っていたかということですが、画集をつくるときに調べました。大久野島では毒ガスに関しては軍部だけが確実なことを掌握していて、工員さんたちは私たち学徒全体を指揮した人でさえ、あのドラム缶の中に何が入っていたか、学徒に何を運ばせたかということについて知りませんでした。様々な工員さんに尋ねましたが、どの工員さんも口を揃えて、「学徒を毒ガスにかかわらせてはならない」という当時の原則を忠実に守り通したというふうに言いきっておりましたが、実際にはあの中には毒物、劇物といわれる毒ガスの原材料が入っておりました。これでスライドの補足説明を終わります。

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