聞き取り

『加害の日本「毒ガス島」大久野島』 <続き>

岡田黎子


 これから3つのことをお話いたします。ひとつは、毒ガスについて。もうひとつは大久野島の戦後について。最後に、私が現在していることについてお話します。

T.毒ガスについて

 まず毒ガスについてですが、別名化学兵器といわれ、約70年前に国際法で禁止されておりましたが、大久野島ではだいたい5種類の毒ガスが総生産量6,616トンつくられました。最も大量につくられたのはイペリットという致死性のビラン性ガスです。

 これは障害としては被毒したときに肌につくとタダレが起きて、水膨れができ、なかなか治らなくてだんだん広がっていき内部へも浸透していくというもので、吸い込んだら死んでしまいます。後遺症としましては、当時大久野島へ行った人たちは、みな毒ガスの被害者で、この毒ガス障害を一生もちつづけることになりました。症状としましては呼吸器障害と、癌にかかる比率が非常に高い。学徒の場合、1986年の段階で調べたところ死亡者のうちの、癌で死んだ人が89パーセント、10人死んでいれば9人弱の人は癌で死んでいっておりました。広島大学の医学部が研究発表したところによりますと、従業員の癌死亡者数は全国平均の2倍、呼吸器癌は5倍、染色体の異常発生の割合は、広島の原爆で爆心地から1.1qの所で被爆した人とほぼ同じということになっております。

 威力については皆さん、オウムのサリン事件でよく御存じのとおり、生物の死滅につながる威力をもっております。

 使用状況ですが、安上がりで、製造が簡単なために、核兵器を持たない国の核兵器「貧者の核兵器」と呼ばれて戦後もずっと使われ続けてきました。湾岸戦争のときにも使われるかもしれないということで、イスラエルの一般の人たちが慌てて、怯えながらガスマスクをつけているのを私はテレビで見た時、「しまった、なぜ私たちは毒ガスの恐ろしさを今まで訴えてこなかったのだろうか」、広島の人達が原爆の恐ろしさを訴えたように、私たちも訴えるべきだったのに、なぜそのことに気が付かなかったのだろうか。もし、この戦争で毒ガスが使われたら私たちの責任ではないか。「どうぞこの湾岸戦争で毒ガスが使われませんように、これから反毒ガス運動をするから」と、居ても立ってもいられない気持ちで、祈るような思いでした。

 湾岸戦争が終わってから、この毒ガスの恐ろしさが再確認されまして、1993年1月に化学兵器禁止条約がパリで締結され、日本もこれに調印しました。これをうけて広島でも毒ガスについて初めての全国シンポジウムが開かれました。そして、「核兵器同様の大量殺戮兵器である、生物化学兵器全廃へ向けて」という広島アピールが採択されて、政府や国連へ出されました。NHKは衛星放送で世界へ向けて報道をしました。戦後48年もたって、ようやくこの毒ガスが人類の課題になったわけですが、なぜこのように遅れてしまったのだろうか。私は、大久野島が戦後たどった道が間違っていたのではなかろうかと思います。

 これで毒ガスについて終わります。

U.大久野島の戦後

 次に、大久野島が戦後たどった道の問題点についてお話しします。

 早くいえば、覆い隠して責任逃れをしてきたということにつきると思います。被害は訴えるエネルギーが強いのですが、加害はもう隠したいばっかりなんです。大久野島の場合、被毒者としての救済活動は早くからしましたが、加害者としての自覚は今だに出来ない状態です。広島は被害を受けた町として早くから核の恐ろしさを世界に向けて訴え、核兵器の使用をとにもかくにもいままで食い止めてきましたが、これに対して大久野島は加害の島ですから、ひた隠しに隠しました。その結果、昨年のサリン事件までは広島県の人でさえ、大久野島についてはっきり知らない人が多かったという状態で、反毒ガス運動はもちろんしてきませんでした。このように、被害と加害は戦後正反対の道をたどってきました。

 毒ガス製造に関しましては、大久野島が日本では主な兵器製造所でした。今は、昔そんな恐ろしいことをした所だということは分からないくらい、すっかり平和な楽園の島に塗りかえられております。それは加害の事実を暴かれたくない、非人道的な加害の歴史を消してしまって、責任逃れをしたいという政府の意向じゃなかろうかと思います。

 それでは大久野島の現在に至る経緯はどうであったか、毒ガス島はどのようにして消されてきたかということですが、先ず戦後の日本の国家犯罪に対しての東京裁判、極東裁判での免責問題があげられます。太平洋戦争が終わって、戦争裁判がおこなわれ、東条英樹などは戦犯として処刑されたわけですが、毒ガスなどにかかわった731部隊の上層部も当然戦犯として裁かれるべきところ、アメリカとの取引をすることによって戦犯を免れました。どのような取引をしたかというと、731部隊のおこなった人体実験のデータや重要書類のいっさいをアメリカへ引き渡し、アメリカが兵器開発をするにあたっては、全面協力をするという約束をして免責されました。そしてその結果、戦後大久野島については日本もアメリカも口を閉ざし続けることになりまして、無言の大久野島になってしまったわけです。これがひとつ。

 もうひとつ、大久野島の戦後処理も歴史を消していきました。あの島には工場が80もあったし、毒ガスも3,600トン残されていましたが、戦後アメリカなどから進駐軍がやってきて、工場群は焼き払われ、毒液は日本の周囲の八海域に海中投棄され、毒済は18箇所に埋められたりして、不完全な措置がとられたために、いまだにいろいろ問題が起きています。が、とにもかくにもその時点では大久野島から毒ガスの記録はなくなり、戦争遺跡として残すべきものをみな失ってしまい、今のような島になったわけですが、加えて政府はあの島を国民休暇村としてリゾート地にして昔の歴史を見えなくしてしまいました。今から8年前(1988年)に、大久野島に毒ガス資料館ができました。そのときには、ほとんど資料はなかったんです。何もないところに資料館ができたんで、戦争中、大久野島に働きに行っていた工員さんの洋服とかガスマスク、それから戦後処理のとき工場を焼き払った情景などのスナップ写真がひっそりと小さな部屋に飾ってあるだけでした。現在はこの加害の島の歴史を消してはならないという心ある人々の歴史の堀り起こしによって、資料がつくられてきました。原爆資料館には膨大な資料がありますが、大久野島には本当に少ない資料です。けれども、無からの出発で大変な努力によって現在の資料が作られたのです。

 それから大久野島の戦後のもうひとつ大きな問題としましては、中国で戦争中実際に使われたし、そしてまた中国へたくさんの遺棄弾を残し未処理のままに終わっているという問題があります。中国で実際に使われたということについては、1992年に中国の軍部や科学者がまとめたものによりますと、日本軍には毒ガス部隊というのが置かれていて、広範囲にわたって2,000回以上毒ガスが使われ、一般人を含む8〜10万人以上が毒ガスによって殺害され、人体実験が39回おこなわれたということを究明しています。人体実験については中国側で捕まえられた日本兵の供述や、またその当時の兵隊さんの証言によってどのようにして実際に実戦で使ったか、また人体実験をどのようにおこなったかということがはっきりとしております。

 中国東北部にハルビンという所があり、その郊外に平方という所がありますが、そこが731部隊の拠点で、主にそこで行われました。被実験者は捕虜の他に抗日活動家や中国愛国者等でマルタと呼び1本、2本といって数え、ガラスチャンバといってガラスの室内にマルタ4〜5本と小動物を閉じこめ、毒ガスの薄いのを始めは吹き込み、徐々に濃いのを吹き込んで行き、外からストップウォッチを持って、何秒でどうなるか、悶え苦しむ状態を冷徹に実験したということです。中には、子どもを抱いたお母さんも実験されたそうです。被実験者は3,000人といわれ、

生き証人を残さないため敗戦前に全員殺害しました。

 それから戦後、日本軍が中国各地に毒ガス弾を置いたままにしておりますが、これは毒ガス弾200万発、毒ガス100トンはほとんど放置されたままですが、これらによって中国の人たちはこれまでに2,000〜3,000人が死傷しております。一命をとりとめた人も呼吸器障害、消化器障害、視覚障害で、肉体的な苦痛だけにとどまらず、働くことも出来なくて貧困におちいいり、離婚によって家庭崩壊がおこり、生活が破壊されております。また、現在土壌汚染が進み、飲料水に影響が出ているという危機的な状況にあります。

 黒龍江省の歩平先生の手紙を読ませていただきます。

 先月(1995年8月)17日、ハルビン市郊外の小さい村に古い日本軍の爆弾が爆発したから、二人が亡くなった。一昨日、私はそこに調査しまして、驚きました。その村はもともと日本軍の火倉庫のすぐ隣ですから、大部分の家庭は爆弾を持って、毒ガス爆弾もあります。みんな習慣になりましたから、危険性をあんまり重視しなかった。私は宣伝の問題ですと思いますが、中国にそのような村がまだたくさんありますと考えて、今後の任務も重いです。

 日本はやっと重い腰を上げて、中国を調査しまして、ごく一部を密封処理して、応急処置をとったという段階で、イペリット、ルイサイトなど致死性ガスの使用を認めていません。政府が前向きに早く完全廃棄措置をし、被害者の救済と補償を行うように働きかけをしなくてはなりません。どうぞ皆さんのお力をお貸しいただきたいと思います。

 以上で大久野島の戦後を終わります。

V.現在、私がしていること

 最後に、私が現在していることについてお話します。ひとつは加害の自覚をもって、中国の人たちとおつきあいをしております。私ははっきりいって大人になるまで、日本軍の罪業を知りませんでした。ナチスがユダヤ人を大虐殺したことについては早くから知っておりましたが、日本は悪いことをしなかったものと思い込んでおりましたので、大人になって、日本軍が中国やアジア諸国で大犯罪を犯していたということを知ったときにはびっくりしました。戦争ではどこの国の人もむごいことをしてしまう、ごく普通のやさしいお父さんたちが、人間性を失い、人格が破壊されて残虐なことをしてしまう。改めて戦争の恐ろしさと日本の加害性を認識しました。それはわたしが35歳のときでした。

 それから時がたちまして、昭和天皇が死の床について輸血だ下血だと騒いでいたときに、加害を私自身の課題として受けとめました。この昭和という時代に日本が犯した大罪に、わたしもまた大久野島へ行かされて加担してしまったということをしみじみと省みまして、お詫びをしたいと思いました。日本に生まれた者のひとりとして、ひとりの人間として、国家とか政治にはかかわりなく平和と友好を願って、この画集に謝罪のメッセージをつけて、中国その他へ大量に贈りました。怒っておられるだろうから、受け入れられないかも知れないと思っておりましたところ、たくさん返事をいただくことができましたので、三つほど紹介したいと思います。

 上海に周さんといって、ちょうどわたしと同年配の女のお医者さんがおられまして、病院長さんですけれども、その人からの手紙には、「当時はまだ少女で、南京という所で一家8人が幸せに暮していたが、日本軍が侵略してきたので、兄弟5人は4ヵ月間歩いて、湖南省、四川省と逃げ回った。その間にお姉さんは病気になったが、治療を受けることも出来ず亡くなってしまった。その後、日本軍の爆撃によって持っていた荷物は爆破され全部なくしてしまった。その後、一家はバラバラになってしまって、いまだに分居のままで、一家団欒も実現していない。中日戦争は苦痛の思い出を残した。あなたからの手紙は戦争によって隔てられていた二つの心をひとつに集め合わせた。あなたもわたしも世界和平への同一の願望をもっている。共に頑張っていきましょう」というのが最初の手紙で、もう7年間もお付き合いをしています。周さんからは色々な物が送られてきました。2つほど周さんのものを持ってきておりますが、ひとつはこれです。全部広げるとスカーフのようなものでしょうか、とてもきれいな絹の染物です。それから、もうひとつは秦の始皇帝の陵墓から出てきたという兵馬俑というものがありますが、この模型のようなものがぐじゃぐじゃにつぶれてわたしのところへ届きました。長くかかって、のりづけして治したものをここへ持ってきておりますので、お帰りの際ここへ並べておきますのでご覧下さい。

 それからまた、南京では30万人も虐殺しておりますが、川原で殺された中国の人たちの血に染まった石であるということでこの石が届いたんですが、見るととてもきれいで、血にも染まってないんですけれども、雨花石というんで、雨花石というのはそういう石なんだということでした。これも置いておきますのでご覧ください。

 南京からは「新華日報」も届きました。それには、私のささやかな平和への努力が意味するものとして、「雪片的分量」というタイトルで、画集と謝罪文が紹介され、ことわざが掲載されていました。ことわざの内容は、二羽の小鳥の会話です。

 「素晴らしい話をしてあげよう・・・。ある日私は、静かにもみの木に降りかかる雪片を数えていた。3,741,953番目の『軽いことこの上なく軽い雪の一片』が枝に落ちると、なんとその枝は折れてしまった。」そう話し終えると山雀は飛び去って行った。後に残った山鳩はしばらく考えたあげく、「世界に平和をもたらすのは、あとただ一人だけの声かもしれない」と独り言のようにつぶやいた。

 岡田の努力も一片の雪のようなものであるが、私はこのことわざを珍重する。その思索は哲理である。

 ざっと上記のようなものでした。

 それから中国に、撫順戦犯管理所というのがありますが、そこでは当時、日本兵捕虜を収容しておりました。そこで働いていた中国の人のなかには、肉親を日本軍によって虐殺された人も働いていたけれども、その憎しみを越えて、日本兵を朋友として扱い、日本兵が食べたいというものは遠くからでも取り寄せて食べさせたということを聞いておりましたが、その撫順戦犯管理所の所長さんの陳奇さんという人から手紙がきました。それには、日本兵を朋友として扱い、鬼を真人間に改造教育をして平和の担い手として養成して、ひとり残らず無事日本に帰らせた。ソ連から預った日本兵捕虜に関しては、全員殺すようにということであったが、周恩来の指示により撫順ではひとりも殺さなかった。そして彼らはいま日本に無事帰って、中国帰還者連絡会というのを組織して、平和実現へ向けて貢献をしているというのが最初の手紙で、この人とも7年越しのおつきあいをしております。

 それからまた、浙江省へ日本から直接、私の画集とメッセージを届けて下さった方からの手紙がありますので、ちょっと読んでみたいと思います。

 「各地で毒ガスや細菌兵器による残虐な殺人が行われ中国の人たちは、今も子供や孫に「ニッポン鬼っ子」の罪業を語り伝えていました。ある生き残りの男性は「あれから、50年が過ぎた。しかし私は決して忘れない。日本では右翼勢力が、中国に対する加害の歴史を覆い隠そうとしているという。ものすごく腹がたつ。・・・」と言っていました。

 中国の人たちはこのように傷が深く、いまだに癒えてはおりませんし、日本軍の残虐行為を子から孫へとずっと語り伝えています。私たちはこのことを心に深く刻み、真撃に受け止めなくちゃならないと思っています。

 中国では、政府レベルでは日中国交回復にあたって、戦争の損害賠償請求権を放棄して、日本からの経済援助を求める中で、過去のことはなんとも思っていないかのようにいっていましたが、私はおつきあいによって、中国の人は本音では日本人に対してとても根深い憎しみの情を持っているということを知りました。これは旧日本軍が侵略していって、深い傷を負わせたまま、お詫びもせず、傷を癒そうともせず、長い間放置していた間に、我々日本人と中国の人々との間に憎しみの壁ができてしまっているということを実感しました。私は、この憎しみの壁を暖かいおつきあいによって、突き崩していって、人間みな兄弟として手を結びあってこれからの平和の土台作りをしなくてはならないと思っております。侵略戦争という国家犯罪に時効はないのですから、いくら時が経過しようとも、いくら世代が交代しようとも過去の歴史を直視し、罪科を真摯に受け止めて、心から謝罪することは、平和構築の一歩として、これからの人々への何よりの贈り物になるというふうに思っております。これが私がしていることのひとつです。

 もうひとつは、平和憲法を守る裁判で闘っております。訴訟の内容は自衛隊の海外派兵は憲法違反であるということで、具体的には湾岸掃海艇派遣は違憲、カンボジアPKO違憲、ゴラン高原PKF違憲、訴訟です。憲法9条では非武装・不戦ということがうたわれております。

 不戦ということでは湾岸戦争のとき日本は憲法の基本原理にのっとって和平交渉をして、湾岸戦争を食い止めるという役割を果たすべきだったと思いますが、日本は国連に追随して参戦してしまいました。武力戦こそしませんでしたが、135億ドルという大金を国際貢献という美名のもとに出費して、イラクの人々を12万5,000人から15万人も空爆によって殺戮してしまいました。私たち日本国籍を持つ納税者はまたもや加害者にさせられてしまいましたし、私は戦争の正犯になったというふうに自覚しております。石油税もそちらにまわされたので、石油を使っている日本人は皆正犯になりました。

 それから憲法9条でいわれている非武装ということですが、それでは攻めて来られたらどうするのか、防衛面の不安があるじゃないかということですが、平和主義者は正しいことほど強いことはないというふうにいわれますが、私はそれではどうも現実的に納得がいかなかったんですけれども、数年前にジュネーブ条約の議定書の中に無防備地域の規定というのがあるのを知りました。第2次世界大戦のときにイタリアのローマ、フィレンツェ、ベネチアなどは、無防備都市宣言をすることで戦火を免れましたし、フランスのパリではパリからフランス軍を出してしまって、無防備都市にしてドイツ軍の攻撃を免れました。それから日本でも沖縄戦で、渡嘉敷島の前島では、前島の分校長先生が前島の住民を戦火から守るために日本軍の駐屯をさせませんでした。お陰で米軍は前島に来たときにここを無防備地域と認めて、何もしないで「普通の生活をしてよろしい」といって何もせずに立ち去ったということを知りました。この無防備地域宣言が、世界中でおこなわれ、日本の絶対平和主義の憲法が世界の国々の憲法になることを切に願っております。

 現在、日米安保による制圧は世界へと広がり、ファシズムへと徐走しておりますが、幸せと命を育む人類社会の実現を切望する者としましては、「平和憲法を遵守することが最高の国際貢献であり、最大の安全保障である」と考えております。

 これで、終わらせていただきます。(1996年7月20日)