テーマが重たいので読みやすいように会話体にしてみたのじゃ。



--釣り至上主義者に聞く(笑)釣り師の本分Q&A編--
サブテーマ:ブラックバスの違法放流から考える
(某山岳地帯のダム湖にバスが放流されたことを議論の出発点として)
答える人 :釣り至上主義者で思想家のツリトストラ
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Q.貴方にとって環境問題ってなに? |
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A.お。いきなり核心をついてくるな。 在野の思想家で西研(にし・けん)という人がいる。なかなか誠実でやさしい語り口なので、哲学初心者でも取っ付きやすい。君にもお勧めじゃ。ただし、語っている内容はやさしくない。心してかかるのじゃ。おっと話を戻すぞよ。 彼が自書の中でヘーゲルについて論じている中でこんなことを言っておる。「地球環境」を「貢献すべき価値あること」とするのは不健康であって、利害調整をどう行えば合理的かを検討するにとどめ、既に「人間には目標にすべき善きこと」がないということを出発にすべきである(出典「哲学のモノサシ」)。 |
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Q.貢献するものがないってのも辛いんじゃないか? |
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A.左様。人間は「何かに役に立っている。自分は価値ある存在である。」ということを言われたい、思われたい存在じゃからの。しかし、それは個人で決めなくてはならないのじゃ。 西が言っていることは、近代になって「人間は価値ある生き方を外部から公的に与えられないシステムになった(民主主義になって神への貢献が善であると言えなくなった)」ことに対して、ヘーゲルがもちだした「国家への貢献」も結局は否定せざるを得ないという状況から来るのじゃ。当然、民族への貢献、社会主義への貢献も言えなくなった。何が価値であるかは個人個人の精神が勝手に決めることになってしまったのじゃ。西は、現在、献身すべき何かを、あえてあげるとすれば「地球環境」や「国際社会」になるだろうが、それは代理品でしかないと言っておる。 だから儂は、「環境保護」はごもっともだけど、それを貢献すべき価値であるというふうには言われたくない、もし言う人があればそれもイデオロギーの一種であると自覚してもらいたいと儂は思うんじゃよ。人権を守れとか、神を敬えとか、○○主義革命に参加せよとか言っているのとそんなに違うレベルの話ではない。ただし、釣り師が自分のフィールドを守りたい、良くしたいという文脈で語るのは全然かまわないと思うぞ。それを言わない釣り人の方が不健康だろう。 ツリトストラはこう語った。 |
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Q.釣り師がイデオロギーで武装しちゃ駄目ってことなんですか? |
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A.釣り師の本分を語るには実はもう一段あるのじゃ。いままで言ってたことは外部イデオロギーで釣りを語るな、善悪の判断をするなっていう批判だな。今度は内部、つまり釣りという行為自身からの批判を述べよう。 儂の尊敬する哲学者のニーチェは「犯罪という行為の存在は『善悪の彼岸』である」と言った。これは、犯罪という行為がもたらす犯罪者自身の内的充足感は単純な善/悪図式からこぼれ落ちる。例えば、ある文学が背徳的だからという理由でその精神や、芸術的価値が損なわれるという訳ではないということと通じているのじゃ。 釣りという行為は理性的行為だと思うかい?そう思っているんなら君はおめでたい人じゃよ。釣りは犯罪ではないけれども、構造として「善悪の彼岸」のアナロジーが通用すると儂は思うのだ。あるいは個人の精神に与える昂揚は優れた文学作品とも似たものだと言えると思うぞ。 釣り師は別にイデオロギーを持ってはいかんと言っているのではない。ただこれだけは言っておこう、価値判断というものは歴史的にさほど変化はしておらん。変わりやすいのは事実判断であるぞよ。例えを出そう。美人という価値判断は変化していない。ただ変わったのは美人の基準の具体性=事実判断である。イデオロギーはその移ろいやすい事実判断そのものじゃぞ。 しかし、一般に人間は事実判断なしに生きてゆけない。それはしかたがないことじゃ。ならば、釣り師は釣り師としてのイデオロギーを確立し、そこからものを述べねばならぬだろう。ここから先は君がよく考えたまえ。 |
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Q.それなら、法を犯す釣りというのもいいんですか? |
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A.それは違う。釣り師が法律を破ることを奨励しているわけじゃないぞ。これは非常に重要な部分なので、これから検討してみよう。 作家の筒井康隆は、死刑囚の永山則夫に対して日本文芸作家協会が入会を拒否したこと(つまりは永山が死刑囚であるから、犯罪人であるから我々の仲間になってもらっては困るという意見が通ってしまったこと)が厭になって、柄谷行人、中上健次と共に協会を脱会した。そのとき筒井が語っていたことが参考になると思うのでちょっと長いけど引用する。 (以下引用) だからといって「文学者なら何をしてもいい」というのではない。ソクラテスの言う如く「いかなる悪法といえど法は法」なのであり、永山則夫が現在いかにすぐれた文学者であろうとこれには従わなくてはならない。(中略)「法は法」というのならお前は死刑も認めるのか言われそうである。死刑には反対だが、これはまた別の問題だ。事実として現在死刑は存在し、永山則夫は法に服している。しかし法といえど、個人の精神を律する事はできない。だからこそ永山則夫は小説を書き、発表し、法律もそれを許している。(出典「断筆宣言への軌跡」に収録) また筒井は同じ文章の中で「常識があるからこそ、常識以前の人間の精神の混沌を描いてその本質に迫ろうとする小説もまた、存在できるのだ。」と釈いている。 今回のバス放流から起きた議論で抜け落ちていたのは、この常識論だったかも知れぬ。釣り以前の社会的常識から逸脱した行為について釣り師として語ることは可能であるが、その射程をわきまえるべし。常識は常識。法は法であるという立場があっても良かったかも知れぬな。また議論が広がりすぎてエコロジーや、権利概念という外部のイデオロギーから善悪を考えざるを得ないとすれば、これも釣り師にとってはつまらない話題だとも言えるな。釣り師として守るべきは己の釣り環境であり、釣りの精神である。善悪の彼岸である。そこから議論すべきであり、そこから逸脱することは釣り師の立場を離れた一般論である。当事者に届く話でないと意味がない。 当事者同士=釣り人同士のマナーの確立、釣り人と社会とのなんらかの約束が必要ではないかの。そしてそれは社会常識以上のものでもなければそれ以下でもない。またそれを踏まえてこそ、はじめて釣り場環境としての「環境問題」が話題にできるのではなかろうか。 ツリトストラはこう語った。 |
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Q.あなたの想定している「釣り師」って具体的にはどんな人? |
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A.う。また難しい質問じゃ。 幸田露伴って人知ってるかな?明治の文豪じゃ。彼が儂の想定する釣り人に近いなあ。幸田は釣り師についてこう書いている。 (以下引用) (魚を釣る人には二種類いて一つが漁夫で二つ目が釣人である)娯楽の為にする人は、別に各自の職業を有するの人にして、其の魚を釣るや、興を感じて以て心神を怡悦せしめ、労に服して以て身肢を強固にせんと欲するなり。(中略)遊魚者の釣は興を得ることを主とすべし。必ずしも魚を獲るの多きと少なきとを論ずべきにあらざるなり。(中略)魚を釣るは手段なり。目的にはあらざるなり。遊魚者は恒に此の点に於て自己立脚の地を錯過せざるを要す。遊魚者は心を娯ましめたが為に釣るなり。されば不快を招くべきが如きは総て之を避くるを智ありとす。この故に釣具は奢侈ならざる限り清良なるを用ふべし。決して下劣粗悪なるを用ふるなかれ。(出典:丸山信「釣魚文学散歩」/「さかなの日本史」から..石井研堂著『釣遊秘術・釣師気質』内に寄せた幸田露伴の序文の抜粋/原文はカナまじり文) 釣りが目的でないと幸田爺に言われると、ちょっと釣り至上主義じゃなくなるのじゃが(^^;)、まあよかろう。つまりこれが儂が基本とする釣り師のイデオロギーなのだ。当然釣り師の常識は社会的常識と同一でないとおかしい。我々は何のために釣りをしているのか。「興を得る」ため、「心を娯ましめたが」ためである。社会人(別に各自の職業を有するの人)が一旦釣り人になりまた社会人に戻る、このサイクルが前提である。社会に着地点がないことには釣りは続けられないではないか。 善悪の彼岸から此岸をみよ。しかし彼岸にばかりいてはやがて堕落する。逆に此岸にばかりいても窒息する。それが釣り師の定めである。彼岸から釣り師を眺めると、釣り師はわざわざ魚に釣られに来る者であるとも言える。人釣魚説から魚釣人説へというコペルニクス的転換を図ることも可能じゃ。魚は「興」を餌にして釣り師を釣っておるのじゃ。 ツリトストラはこう語った。 |
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Q.そのコペルニクス的転換を図ることでなにかメリットがあるの? |
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A.いんや。特にはない(笑)。 しかし、そこから魚がいかに素直かがわかるぞ。魚は善人悪人の差別なく「興」を釣り人に与えることができる。親鸞みたいじゃと思わぬか。そこからキャッチアンドリリースを語ることだってできるぞ。リリースすることによって魚と釣り師の関係性を将来に渡り、釣り師の精神にストックする可能性があるからなのだ。 |
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Q.実体じゃくて精神ですか? |
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A.左様。確かにきちんとした手法でリサーチがなされても良かろう。しかし最終的にデータを受け止めるのは釣り師としての精神じゃぞ。魚がいる/いないというのは冷たい事実であって、それをどう受け止めるかは人間の勝手である。 |
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Q.バスの害魚論ってどう思いますか? |
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A.うむ。実は資料を紐解けば、図分昔からいわれておることなのじゃ。だいたい芦ノ湖にバスが入った頃まで遡るようじゃな。赤星鉄馬でさえそのことを意識しておったようじゃ。 一部の馬鹿なマスコミが使う門切り型の「湖のギャング」「他の魚を食べ尽くす悪食」・・・等のフレーズをまさか本気で信じちゃおらんじゃろうな。 確かにバスは肉食であるから、生育環境内の他の生物を食害する。これは必然である。簡単にいえばこれだけのことじゃ。魚食性の淡水魚は日本にあまりいなかったからなあ。だが、ナマズはどうか。ハスならどうだ。こんな例えを出すと詭弁にとられるかもしれんのお(^^ゞ。ススキに替わってやたらと増えたセイタカアワダチソウのほうがよっぽど日本の文化を侵害しておるとおもうんじゃがなあ(^^ゞ。 バスの害魚論はいろんなレベルでいわれていることなのでちょっと整理し てみよう。 1.補食者としての危険性=食害 2.外来種であるバスは本来の生態系から存在を許されないという自然主義から 3.コンセンサスなしの違法放流 4.バスは害魚であると誰かが言ってたから
まず1について 補食者と被補食者の関係からすると絶対に補食者が被補食者を食い尽くすということはあり得ない。*一時的に増えたとしてもそのバランスが崩れて落ち着くところへ落ち着くだけじゃ。(但し、選食する性質から弱い種が絶滅する恐れは十分ある。) これでもまだ反論があるじゃろうな。現に食害があるではないか。そのため魚が減っているではないか。 でもこれって結局経済問題として解決できるのじゃよ。バスを駆除するなり、バスを釣る人、メーカー、釣具屋、放置した行政なんかから金を取ればよろしい。またその金で減った魚種を放流すればよろしい。
2について これが一番やっかいじゃな。 だがその前に君たち日本人にそのことをいう根拠があるのかということじゃ。「本来」の生態系とはそもそも一種のロマン主義ではないのかな。現在のように地球規模で物資が動き、環境が変化している状況の中で言えるのだろうか。釣り師が、「私の釣りのロマンがなくなるので迷惑だ」という文脈でいうのであれば儂は分かるのだがな。もしくはこれ以上バスがいる場所が増えなくてもよろしいというのなら分かる。また生態系云々はあまり突っ込まん方が釣り師としてはいいと思うぞよ。 変な話じゃが、バスがアユを守るという珍妙な事態だってあり得るのじゃ。金子陽春、若林務共著「ブラックバス移植史」によると(この本はバス擁護論からの切口なのでちょっとフェアーさを欠く部分があるが) ブラックバスが移入される以前は、アユの産卵時期になると、産卵場である水深5〜10cmの砂礫底のインレットおよびその周辺は、アユの卵および孵化稚魚を狙うオイカワのおびただしい群が接近し盛んに食害をしていた。 ところがブラックバスが増加してからは、このアユとオイカワの間にブラックバスが入り、アユの卵を狙うオイカワをバスが捕食するためアユの食害が減りアユが増えたという。バスはアユの産卵場が浅いためアユの食害はなかった(九州の御池のコアユの報告として)
3について これは常識問題じゃな。ため池のように本来の目的が水田への潅水のための施設ならまだしも、すでに漁業権が設定されているような場所、もしくは貴重な魚種や他の生物がいてその環境が守られるべく働きかけがなされているような場所に対しては、その環境の目的に対してバスの存在が危害であるような場合、これは非難されてしかるべきじゃ。 羊の牧場に狼を放して「狼も生き物だから殺さないで」と言える人は、まあそれなりに奇特な人だと思うが(笑)、頭が変だと思うわい。
4について 実はこれが意外と多いのではないかと思うのじゃ。でもこれってちょっとおかしいと思うぞ。 第三項排除理論っていうのを教えてしんぜよう。これは広く言えば「いじめの構図」なのじゃが、哲学者の今村仁によると社会秩序形成のため、第三者をスケープ・ゴートにして「周縁」に追いやり、自分たちを「秩序=中心」へと結集させることを言う。ミッシェル・フーコーが言っていた「理性は狂気の存在を必要としている」ということにもちょっと似ておるな。 多分ブラックバスが害魚であるということを言うことで秩序が維持できるというか、ぶっちゃけた話、仲良しになれる人達がいるということの証かも知れぬ。 |
*実はこれは間違いである。補食者が被補食者を食い尽くすということもあり得る。外来魚の進入の場合、被補食者たる在来種が進化上それに適応できない場合も考えられる。「両者共倒れ。そして誰もいなくなった。」あるいは「ブルーギルだけになった。」ということも可能性としてはある。
補記:本音としては、社会に着地点のない釣り至上主義の立場があってもかまわないと儂は思うが、それはまた別の機会に述べよう。
補記その2:外来魚以外の害をいくら述べたところで、外来魚の擁護になりえないということはよく肝に銘じておくべきだろう。最近そんなことを思う。