批評:「ブラックバスがメダカを食う」

 秋月岩魚著「ブラックバスがメダカを食う」/宝島社新書という書物が99年9月に発売された。バス釣りに対する批判として、こうした形で本になってでてきたのは、はじめてなのかな?でるべくして出た本だと思う。私が日頃から考えているテーマと重なる部分も多いので、というか論敵か(笑)。一緒に考えてみよう。

 秋月氏は本職はカメラマンである。フィッシング、アウトドア、アドベンチャーをテーマにした自然派である。彼の主張は「ブラックバス全面駆除。バス釣り禁止」である。以下のように単純明快?に持論を展開している。

  1. バスは違法な放流で広がった(犯罪行為がベース)。
  2. バスは既存の水系の生態系を破壊する。
  3. ゆえにバスは駆除されるべきである。

 一見ごもっともであるが、秋月氏には全く見えていない大きな問題が実は沢山潜んでいる。一つは人間のアグレッション(攻撃性)の問題である。釣りは人間の本性としてのアグレッションを昇華して処理する様式の一つである。

 これ以上バスフィールドが増える必要は私は感じないし、秋月氏が守りたい銀山湖にまでバスがいる必要も無かろうと思う。しかし、彼の言うとおりバスを駆除するとどうなるだろう。結果、バス釣りという様式を獲得できなくなったアグレッションは別のところへ向かうだろう。その多くはまた別の問題を引き起こすであろう。この本はそういったことに対する想像力が欠如している。怖いのは様式を獲得できない生の攻撃性が変な形であふれ出すことだ。セックスという様式を獲得できなかった快楽殺人。大人の恋愛という様式を獲得できなかった幼女暴行。こんな例は幾らでもある。

 アグレッションの処理が可能な様式を獲得しているというのは実は非常に重要である。バス釣り禁止を主張するなら別の様式を用意しておくべきだとまではいわないが、そこに至るまでの混乱や、至った後にそれが果たしてどういった影響を及ぼすのかという想像くらいは必要であろう。またそうなると、私は日本のバスフィッシャーの多くがトラウトに向かうのではないかと懸念する。自分がかつてバスフィッシャーであったことを棚に上げ(笑)そんなことになったら困るじゃないかと思う。

 もう一つの問題は、快感原則=エロティシズムの問題である。秋月氏はどうやらバタイユは読まれないようなのでここで教えてしんぜよう。エロティシズムは禁忌の侵犯という形態をとる。いくらいけないからと言って不倫が無くならないのと同様に、掟破りのバスフィッシャーも無くならない。それは人間の本性だからである。これに対抗するには、逆説的な処置しかないのである。違法放流をするのがあほらしいほどバスを増やすか、バス釣りをつまらなくする方法である。例えばむしろバス釣りを文部省が奨励し、小学生の必修科目にしてしまうとか(笑)。こんな太陽政策は私は嫌だけど・・・

 また、バスフィッシャーは彼の犯罪云々の主張に傷つく必要はない。釣りの精神はそんなところにはないからだ。釣りの精神は善悪の彼岸である。文学作品が、いくら背徳的であるからといって、いくら作者が犯罪者であるからといってその作品の精神まで否定できないのと同様に、否定できないものだ。自分に後ろめたいものがない限り正々堂々とバス釣りをすれば良いのだ。(後ろめたいままでもかまわないけど。)

 あと、秋月氏の主張する「あるべき自然」とは恣意的ではないかという立場もある。東京水産大学の水口憲哉氏はフライの雑誌46号に「メダカ、トキ、ブッラックバス、そして純血主義」という「外来魚排斥主義批判」の時評を載せている。「求める自然が人によって異なり、と同時に求め得る自然も異なっている」と、水口氏は主張する。

 ・・・とこの本の悪口はまだまだいくらでも書けるのであるが、秋月氏が銀山湖のイワナを守りたいという気持ちは同じ釣り人として理解できる。釣り師の本分Q&Aでも書いたが、常識のないやつは救い難い。いっそのこと釣りはライセンス制にする必要があるのではないかとも思う。また既存の生態系を保全、保護するべく決定された場所ではバスの駆除・・これは人海戦術ではまず不可能であろうから、バイオテクノロジーで不妊のメスを開発し放流するか、バスにだけかかる病原菌でも開発するしかなさそうだが・・をしてもよいのではないかとも実は思っていたりもする。ただし、これも利害関係者のコンセンサスを前提としての話である。

 全ての釣りは、犯罪ではないが「犯罪的」であり、愚行である。そして素晴らしくもあり、恐ろしくもある。

 

アグレッション理論に関しては計見一雄著「脳と人間」三五館を参照した。

'99.11/13作成・12/23補筆


■補記

 '99年12月。ブラックバスに関する二つの話題が新聞に載った。一つは琵琶湖のバス駆除に対する脅迫状がバス釣りマニアと称する人物から滋賀県に送付されたこと。もう一つは新潟県(奥只見湖=銀山湖がある)が漁業調整規則を改正し、バスのリリースを禁止し、罰則規定を設けたことである。遅かれしというか遂にというべきか。

 コンセンサスのない放流を続けていると、このままではますますバス釣りはアンダーグラウンドに追いつめられるだろう。どうすればよいのか。それは私の知ったことではない。ことの成り行きを見守ることしかできない。

 近代以降、「辺界の悪所」(=『アジール』)という空間意識が失われた。そこでは世俗の倫理を外れた行為や物件が、差別を受けながらも存在し得た。「野暮天」な権力者から「カブキモノ」と罵られつつもその存在を黙認される場所だったのである。バスフィシャーが生き残るには時代をひっくり返しアジールを復活させるか、さもなくば近代イデオロギーにつき合いつつ道を模索するしかなさそうだ。


 以下はこの話題に関するweb上での情報フォローである('99.12/23現在)。興味ある方はリンクをたどっていただきたい。


 私は98年にニフティのとある会議室で、条例や漁業調整規則などのルールは守るべきだという主張で原理主義的バス釣りマニア(笑)と論争したことがある。そのときわかったのは、これは恋愛のような(しかも一方通行の)もので、何を言っても無駄だということだった。いくらそれはやめたほうが良いといっても恋の病に冒されている人間にはまったく届かないのである。

 秋月氏に代表されるバスを駆除したい立場にしても、バスを擁護したい一部のバス釣りマニアにしても両者に徹底的に欠けているのは、ヒトの奥底に潜んでいる攻撃性、身体性の問題に対する視点である。議論の前に、自分の身体の自然性に目を向けた方がよい。片や無自覚に相手の「攻撃性、犯罪性」を排除、攻撃し、一方「自分にはそんな恐ろしい攻撃性、犯罪性はない。関係ない。」と弁明するといういびつな議論に見える。どちらも同じ穴の狢である。誤解無きようにしていただきたいが、私はヒトの攻撃性を全面的に肯定するわけでも否定するわけでもない。ヒトは無垢ではないということなのだ。ヒトの攻撃性の発露は社会的に許されたごく一部の様式でしか処理できないようになっている。その法やルール、倫理というものは、究極は社会的存在としての「人間」を守るため「ヒトの身体性」を制御するというこれもまた暴力装置、必要悪なのだ。そして時に正義というものはかなり感情的で恐ろしいものだ。二十世紀の膨大なジェノサイドがすべて正義の衣を着ていたことがそれを証明する。

 我々は、我々が置いている自然観や正しさは本当に正しいのか、外部から相対化する視点を探る努力が必要である。そのためには閉鎖的な「排除論」の極にも陥らず、逆にブッラクバスを「聖化」する極にも立たない、ある面矛盾したスタンスにあえて立っていくことが必要だ。

 大多数のブラックバス釣りの愛好家にとって不幸なことは、「ルールの決定主体と利害関係者が不一致である」ということだ。つまり漁協、行政などルールの決定主体たる公的機関と、釣り人や業界などの利害関係者がブラックバスを取り巻く環境に関しては、一致していない。公的機関がブラックバスに歩み寄る例はあるにはあるがごく稀有なことである。これはいままで釣り人や業界がルールのかやの外で勝手に振る舞ってきたつけともいえる。

 これを解決するにはブラックバス愛好家がルールの決定主体となるか(革命を起こすか?これは無理だ)、決定主体に強く影響を与えるしかない。となれば、ひとまずはルールを遵守し、理性的に、冷静に、戦略的に行動を起こすべきだろう。ルールを守る遵法闘争という形態だってあるし、まっとうな手段で政治に訴えることやルールを守るゆえに主張できる部分もあるのだから。間違ってもいきなり行政機関に脅迫状なんて送っては駄目だ(笑)。時には戦略的に竿を置くことも念頭に道を模索せよ。ブッラクバスのアジールを建設せよ。とアジって終わりにする。

'99.12/23記す '00.03/16修正


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