小論・バス問題の解決に向けての一考察

バス釣りの好きなあなたへ。もしくはバスの嫌いなあなたへ。またしても外来魚を巡る問題についての考察です。今回は冗談を省いて考察してます。かなり固い文章です。読みにくくて申し訳ない。


■秋月氏の主張は正しい

私はHPのなかで、秋月岩魚氏の著書「ブラックバスがメダカを食う」を批判している。あの一文でバスに関する私のコメントは終わりにしたかったのであるが、その後様々な人からメールを頂いたり、意見を求められたりする。しばしば同様なことを尋ねられるので、もう一度改めて文章を書き直すことにした。一部の人に誤解があるので補足をさせていただくと、私は秋月氏の主張はもっともだと思っている。けして「バス擁護」が可能だとか、「バス駆除・バス釣り禁止」の主張が誤りだといいたいのではない。違法な放流は違法であり、それに乗じた形で行われているバスフィッシングというものはいびつなものだという彼の指摘は正しい。また、ブラックバスやブルーギルが生態系や生物多様性に甚大な影響を与えるということも疑えない事実だと私も同意する。

私が批判しているのは、そのもっともな主張(バス釣り禁止、バス徹底駆除)によってもたらされる結果は、さほど明るいものではないという点である。結局はアグレッションのモグラ叩きに終わるのではないだろうか。ただし、どこにどうアグレッションが噴出するのかは不明であり、根拠として弱いという批判は甘んじて受けるつもりである。また、アグレッションを処理する様式が現に獲得されているからといってそれを即擁護するのは短絡的であるという批判も同様に受けなければならない。不法な慣習をお前は許すのかと云われたら答えに窮す。ただ、善悪の判断について深く考えるべきだとだけ答えておこう。元来釣りは人間のヒトとしての生命の欲望ゆえの行為=社会に認められた数少ないアグレッションを処理する様式であり、善悪という価値判断の彼岸として私は考えているからだ。


■自然保護の四態から外来魚問題を考える

自然保護という局面をこの外来魚を巡る問題にあてはめてみたい。大阪府立大学の森岡正博教授(http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/)の考察を参考にする。森岡氏は、自然保護に対しての人々のスタンスを分析し、四つのマトリックスに分類して提示する。(http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/library01/shizen.htm)それは以下のようなa.〜d.の立場となる(本当は保全vs保存に関してのマトリックスであるがちょっと変奏させてもらった)。あなたはどの立場だろうか。

a.人間の利益のために自然保護を主張する。
b.人間の利益のために自然保護に反対する。
c.自然の内在的価値のために自然保護を主張する。
d.自然の内在的価値のために自然保護に反対する。

ある自然破壊が議論となっているとき、例えばこれを外来魚の問題にしてみると・・・

外来魚の駆除に賛成
外来魚の駆除に反対
 人間中心主義
a.人間にとって不利益
b.人間にとって利益
 自然中心主義
c.自然にとっての危害
d.駆除に伴う危険性

もう少し詳しく書けば、

a.外来魚が増殖すると、人類の将来に不利益をもたらす可能性があるから。
b.外来魚が人間の損得からいえば得であれば許容されてもよい。
c.外来魚を放置しておくと生態系や生物多様性に悪影響を及ぼす。捕食圧にさらされている在来種を守るべき。
d.外来魚を駆除することによって平衡状態の生態系バランスを崩す。完全に駆除できるという保証がないかぎり、さらに在来種を危険にさらすおそれのある駆除活動はやめるべきだ。

WEB上のバス問題を論じる掲示板などの議論を読むと、大体バス擁護派はb.の立場が多い。バスのもたらす経済効果は内水面漁業の経済効果よりも上であるとの主張はまさにそうだ。たまにd.の立場もある。これは極珍しい例であるが、一端定着している外来魚をその環境から除去することは非常に困難であり、また、増殖率の高い外来魚を根絶できないのであれば、再び元の激増期と同じ状態を繰り返す恐れが充分にあり、駆除作業は無駄に終わる恐れがあるというものなどがそうだ。ただしd.の立場の人は、外来魚を根絶できる可能性があるという条件であれば、あるいは、外来魚の資源量を低レベルに抑制することが継続されるならば、元来はc.型の立場の人であることがわかる。

では、外来魚駆除に賛成の立場はどうかというと、これはa、cどちらが多いのか私には分からない。ただ両者とも存在することは確かである。またa+c型の人も多い(外来魚は人間の生存にも危険かつ生物多様性にも危害)。自然は人類のために守るべきなのか、あるいは自然自身がもつ内在的価値ゆえに守られるべきなのか。昨今の環境倫理学の所論を拝見すると後者の立場である。人類のためという人間中心主義であると結局は人間の都合が優先されるため、根本の所で自然を守ることが出来ないからだというのがその主張の根拠である。と、これは話がそれそうなのでいったん元に戻る。

私がa.の立場の意見で一番感心したのは以下のような意見である。私の記憶のまま述べるのでやや曖昧な点はお許しいただきたい。

何故外来魚が不要か。それは人類の存続を考えてである。自然環境は現在まで我々を存続させてくれた実績がある。外来魚の存在はその影響が未知であり、人類の存続に悪影響を及ぼす可能性を否定できないから自然破壊と同義である。また人間は生きている以上自然を破壊しなければ生きて行けない矛盾した存在である。存続を続けるためには自然という貯金を少しずつ使いながら生きて行くしかない。貯金は節約して使うべきである。つまり自然破壊は最小限に留めるべきである。

これは持続可能性=サスティナブルという観点である。「人類」というのが大げさであれば「日本人」と言い換えてもいいかもしれない。たしかに自然環境は我々を育んできた器である。我々が新たな環境創造ができないのであれば、今後も自然に寄り添って生きて行く他はない。また、彼が云うように、人間は自然からのはみ出しものである。もう一度食物連鎖の中へ戻れと云われても戻れないだろう。自然中心主義に拠らなくてもこういった主張が出来るということに感心した。

c.の自然中心主義の立場には私は懐疑的である。というのも、この論を突き詰めると人類の存在が悪であるという主張や、全体主義を受け入れざるを得なくなるからである。またこの立場は、実は自然の主体性という虚構を前提としている。人間の主体性というものを根拠無く自然に投影し自然を擬人化しているのだ。(このあたりはオギュスタン・ベルクの「地球と存在の哲学-環境倫理学を越えて」に詳しい。)

で、お前はいったいどの立場なのだと自問してみる。現在の私の気持ちとして一番素直なのは、どれでもない。強いてあげるならaかつcの立場だろう。それは矛盾しているという批判もあるだろう。たしかにそうだ。でも少し考えてもらいたい。例えばトキという鳥が日本で絶滅した。でもいまだに佐渡では中国から連れてきた個体を繁殖させようと躍起になっている。何故か。本当はトキが絶滅しかけた段階でその原因をよく探り、環境回復を図るべきだった。トキが絶滅したのは、日本がトキの棲息できる環境でなくなったことが一番の原因である。では、トキ等絶滅危惧種を救うべき根拠とは何であろうか。環境倫理学では、「人間中心主義ではトキのような動物を守る理由が希薄だ。自然の内在的価値を認めないと駄目だ」という。そうだろうか。

その理由はもっと不明で曖昧なものではないかと私は思う。漠然とした不安であったり、忍びないからであるとか、もしくは、郷愁やロマンティズムの一種かも知れない。あるいは政策的に重要なものだからかもしれない。逆に不快動物である蚊やゴキブリや蠅、ネズミなどに対しての我々の態度はどうだろう。彼らも生態系の中で位置づけがあるということがよく考えれば判るはずなのに、自然の内在的価値を優先させるべきかどうかなどと悩む御仁はほとんどいないだろう。私も部屋の中に蚊がいると申し訳ないが殺生をする。彼らの生存よりも自分の快適性を優先する。(もっとも自分と関係のない場所で不快動物を抹殺せよとまでは思わないが)また、自然の内在的価値とは、ある自然が失われるときにあらわれてくる一局面としてしか捉えられないのではないか。あるいは人が特別注視しないと意識に上がらない性質があるのではないか。そう思っている。

このように人間は恣意的な重み付けを現在も行っている。人間は自分を取り巻く環境をカテゴリーに分類し、そのカテゴリー間に(カテゴリー内でも)優劣を付けている。それが善いとも悪いとも私は云わない。そもそもそうなのだからそこから考えを出発させないと仕方がないのではないかと云っているのである。であれば、そこに人間中心主義と自然中心主義の二項対立を解く鍵があると思うのだ。


■人間と自然

自然と人間は対峙しているし、またそうではない。人間の存在は、生物としてのヒトであり、かつ自然を支配し統御しようとする存在でもある。人間の二重性がそもそもことの発端なのだ。環境問題はいってみれば人間が生物としてのヒトの生存を脅かしているともいえるのだ。だが先ほどの森岡氏は云う。「環境破壊の真の原因は人類が持つ生命としての欲望ゆえだ」と。自然を支配し統御しようとする原因はそもそも我々の生物としての欲望だと。闘争や排除、快楽という生命の醜い部分に目をつぶるなと。ということは人間の二重性は「見かけ」の問題なのだ。

もう一度自然はなぜ大切なのか問うてみる。一番大きな理由は自然が健康であれば、人間も健康でいられるという知見が近年になってますます明らかになってきたからではないだろうか。ただしこの健康という言葉は二重の意味を込めている。一つは文字通り、人類の存続に期待が持てる。明るさがあるということである。もう一つは隠された健康(健康という言葉には語弊があるかもしれない)、欲望の対象として、エロス的価値を汲み上げる源泉として必要不可欠なものではないかという視点である。これは上記の生命の醜さと表裏一体なものだ。自然を失うと人間の生命が萎えてしまうのだ。バタイユが云うように「聖なるもの」に触れないと、人間は活性化できないのだ。

問題となるのは後者の"健康"である。実は人間が「聖なるもの」に触れるルートは様々あり、逆に自然を破壊することすらその中に含まれる。バス釣りも極端に云えば、そんな構造である。一見屋外で「自然環境」を享受しているというスタイルであるが、その対象魚であるオオクチバスの存在自体が生態系を撹乱させるのである。


■ルールとしてのキャッチ&リリース

ウィトゲンシュタインによれば、ルールは実践(ゲーム)を通して学ばれる。例えば野球。法もそうだ。言語活動だってそうだ。大抵のバスアングラーが釣ったバスをリリースするのもそれがルールとなっているからである。私は以前バスアングラーだったが、それ以前は単なる餌釣りの経験が少しあるだけであった。最初にバスを釣ったときに食べなきゃいけない気がして何匹か食べた。それは釣ったら食べるというルールを実践してきたからである。だが、経験を積むに従いリリースすることがルールであることを意識し始め(と明確に感じ取ったのではないが)、違和感なくリリースするようになった。

新潟、岩手(他の自治体でも検討中)のバス再放流禁止にバスアングラーの抵抗が強いのも、公のルールがバス釣りのルールに矛盾するからだろう。公のルール(内水面漁業調整委員会指示など。ややこしいのでこっちのルールは以下『法令』と呼ぶ)が浸透するには、バス釣りのルールがバスアングラーの中で改変されなければならないだろう。ただし、バスアングラー自体がそれによって変わってくれるかどうかには疑問がある。バス釣りの内在的なルールであるリリースという行為は、外在的な要請でそんなに簡単に変わるとは思えないからだ。学校で道徳をならっても身につかないのと一緒である(『ルールは実践を通して学ばれる』)。

アメとムチの手法には限界があり、結局強権を呼び寄せてしまう危険性がある。そうであるなら、バス問題の解決に当たっては、法令の決定主体である行政側がバスアングラーに対して説得を続けることも重要であるし、必要とあらば、日本のバス釣りのルールをバスアングラーが自主的にローカライズしてゆく着地点を誘導する必要もあるだろう。つまり内発的動機付けを促すのである。また日本のバスアングラーは実践を通して社会との軋轢を学習し自らルールを変えてゆく機会に今遭遇しているともいえる。この機会を逃せばますます法令という外的帰属要因によって追い込まれて行くだろう。行動の原因帰属に関していえば、外的帰属(他者に強制されているから)であるよりも内的帰属(自分がそうしたいから)による問題解決が望ましい。(社会学的な問題解決手法については山岸俊男『社会的ジレンマ』が詳しい。)

余談であるが、私はとある電子会議室でバス問題解決のために行政側が「頂上作戦」をしてはどうかと提案したことがある。有名プロアングラーやトレンドリーダーになんらかの身分保障を対価に「転向」してもらうのだ。彼らに「バス釣り卒業のすすめ」を語ってもらうのである。全国的にバス釣り禁止・駆除をすることに比べれば遙かに経済的でまた危険度も少なくて済むのではないかと思うのだが、受けが悪かった。これも一種の外的帰属になるからだろう。


■問題解決手法その1〜徹底駆除、釣り禁止という手段

ちょっと小難しい話になるがご勘弁を。また以下の議論は私がwebで聞きかじったものを再編しているだけで、当然のことながら専門家でもないし、メールで質問などされても答えられないということをあらかじめ申し添えておく。

秋月氏のようにオオクチバス徹底駆除、バス釣り禁止を訴えるのもこの問題を解決する一つの手段である。バス釣りそのものが禁止であれば、違法に放流する旨味も存在しないため、たしかに効力はあるだろう。また完全駆除ができるのであれば、供給源としてのバスの生息箇所もなくなる。しかし困難性という問題がある。最近仕入れた情報を元に少し補足する。

まずは、徹底駆除の困難性である。技術的に解決すべき事柄以前に、高い増殖率という問題がある。私が入手した資料*1によるとブラックバス、ブルーギルの最大増殖率は例えば琵琶湖においては0.55という高い数値を示す。この為、琵琶湖での完全駆除を行おうと思えば、漁獲率0.4以上の捕獲率を確保した上で30年以上それを継続しなくてはならない。(逆に漁獲率が0.3以下であれば、絶滅せず平衡状態を保つようになる)例えば3000tの資源があるとすれば、初年度は3000×0.4=1200tという相当量の魚を捕獲し、次年度は増殖分((3000-1200)×0.55=990t*2)があるため、(1800+990)×0.4=1116tを捕獲し・・・ということを30回以上繰り返さなければならない*3。これはあくまでも計算上の話で、現実としては、捕獲対象となる外来魚の資源量が減ってくれば、それに反比例するように漁獲効率が落ちることも簡単に想像できる。となれば適正な抑制レベルとはどの程度の資源量なのかということに議論の方向は当面向かざるを得ない。絶滅可能か否かという判断は新たな技術革新を待たねばならない。また、安易に個人レベルで琵琶湖など大きな水域で外来魚を駆除したとしても、それは外来魚問題への関心を向けてもらうという以外ほとんど無意味と云っても良いであろう。

だが、私はここで、困難であることをもって外来魚資源の有効利用を、つまり釣り資源として活用してはどうかという安易な結論へも持っていきたいくない。このまま外来魚を放置しておくことによる弊害も考えられるからである。魚食性外来魚の激増によって一端急激にその生息数を減らした個体群は、近交弱勢*4によりロングスパンの時間オーダーで、絶滅する恐れがある。現在一見安定しているように見えても危険な状態であるには変わりがないのだ。バスが移入されてから75年経つが絶滅した種はいないと某釣り具メーカーのHPには書かれていたが、75年程度ではまだわからないのだ。200世代、300世代の世代交代の推移をみないとなんともいえない。現時点で安全宣言する根拠などないに等しい。

次に釣り禁止という問題である。これは次のゾーニングの項目で触れることにする。

 

*1.平成3年度外来魚対策検討委託事業報告書『ブラックバスとブルーギルのすべて』全国内水面漁業協同組合連合会
*2.本当は環境許容値というものがありもう少し細かい議論が必要である。
*3.琵琶湖を守ろう!掲示板(http://www61.tcup.com/6106/2219.html)の2000年10月頃の投稿に駆除量、処分費についてシュミレーションをした人がいるので詳しくは掲示板過去ログを参照。もっともこのシュミレーションは別の結果ももたらす。実は超長期コストを考えるなら、早く絶滅を図った方が、お得である。税金を使って駆除するなら徹底的にするべきだという結論になる。
*4.個体群のスケールが小さくなった集団には、小集団に特有の遺伝的要因によって絶滅する可能性が生じる。これは遺伝的ヘテロ接合性の減少により、近交弱勢と呼ばれる現象が起きるからである。
簡単にいえば、集団の個体数が減少すると同じ遺伝子が両親から子へ受け渡される確率が上昇し、片親からのみのときは無害なのに、両親から受け渡されると発現する有害な遺伝子の作用によって繁殖する能力が低下する。この現象が個体群の多くの個体で起きると、集団の増殖力が低下し、さらに個体数を減少させる。このことがまたさらに近交弱勢の確率を高める。この悪循環の繰り返しを「絶滅の渦巻き現象」という。(横浜国立大学の田中嘉成ら。彼らの近交弱勢シュミレーションによる検討が有名らしい。)MVP;minimum viable population=有効最小個体数という概念もある。その種が将来存続して行ける最小限の個体数のこと。当然種によってその数値は異なる。いくら数が多くても危険な種があるし、かなり数が減ってもタフな種もいる。


■問題解決手法その2〜ゾーニング

もうじきゾーニングに関しての政府の公式な発表があるという噂も聞こえてくるが(この文章を書いているのは2000年12月。政府自民党水産政策小委員会で棲み分け論が議論されたという話も聞こえてきたが・・・)これは簡単に云えば、外来魚容認箇所とそうではない場所を区分し、容認できない箇所では徹底駆除を、容認箇所では有効利用を図るという、いってみれば、バス釣り場要望派、否認派の妥協の産物=政治決着である。問題はゾーニングの判断基準である。簡単そうで難しいだろう。もう一点。容認箇所の生態系はバスアングラーのエゴイズムために犠牲になって頂戴というかなり傲慢なものとも取れる点である。我々の世代だけでその結論を出してもよいのだろうか。また受益者たるバスアングラーが払うべきコストやリスクをどうして税金を使って解決するのかという批判も出てくるだろう*5。

だが私はこのプランに賛成できる点が一つだけある。釣りの活用が可能な点である。バスアングラーの協力が得られそうな可能性があるからである。排除箇所から有効利用を図る場所へ「移植」することもできるからだ。駆除でなく移植であれば喜んで協力するアングラーも多いであろう。内発的動機付けを移植に利用しない手はないはずである。また有効利用箇所という例外以外の場所は、理念としては、外来魚による生態系の撹乱から守ることにお墨付きを与えるというメリットも大きいと思う。ゾーニング案が、バス存在の正当性確保に結びつけられるのであれば、バサーはむしろ喜ぶべきだとも思うのだ。

またこれはあくまで妥協案であるということを忘れてはならない。ゾーニングが将来うまく機能した時点で、もう一度外来魚をどうするか再考するべきだろう。例外的な有効利用箇所は潰すべきなのか、存続させるべきなのかという議論が必要だ。これで終わりではなくまだ話は端緒についたばかりである。

 

*5.これは釣りというレジャーを総合的に管理するシステムが法的にも人的にも未整備であることも一因。全ての釣りをライセンス制にしてそこから徴収した財源を有効に活用するシステムなど構築してもよいのではないか。


■回り道を経て

私はよく自問してみるのだが、どうしてこの問題がひっかかるのか、自分でも時々よくわからなくなる。だが自分がバスフィッシングに熱中していた当時は、バス害魚論に過剰に反応していたが、現在多少冷静に考えることができるようになったことは事実である。自分が関わってきた釣りに関する問題なので、掌をひっくり返したように、「バスは害魚でござんす。あれは悪い魚で、バスアングラーなんて最低の人種です。」とは云いたくないという部分は確かにある。こんな例えが正しいかどうかわからないが、太平洋戦争敗戦時に価値観に大きな転換があったかのごとく語られることが多いが、実はそれは日本人のメンタリティーの特徴である憑依親和性をあらわしているに過ぎず、単に憑きモノが、八紘一宇から戦後民主主義に変わっただけだとも云われている*6。逆に安易に害魚論にも日和見せず、この状況を受け止め、きちんと敗戦処理を行うのが、元バスアングラーとしての責務ではないかと思っている。また後人によくこの問題を考えてもらいたいという気持ちもある。

バスが一部のマニアが細々と釣る対象のままであればこの問題はここまで大きくならなかったかもしれない。少数の需要には少しの場所さえあれば済んだはずである。またこの問題の根っこは社会的コンセンサスの無視という「無秩序放流=闇放流」という点である。秋月氏があのような本をかかないでも遅かれ早かれ他の人が同様な訴えをした可能性はある。

バス釣りが正当性を得るというのはどういったことなのか。手続的な正当性がまず肝要だ。実はこれは環境破壊という問題だけではなくて社会的(社会学的)な問題でもあるのだ。バスを擁護する人達が良く使う言い回しに「ニジマスだって外来種じゃないか」、「よその河川に琵琶湖産の小鮎を放流することはどうなんだ」等あるが、全く的外れである。手続的正当性を経ていないことが致命傷なのだ。また日本社会における正当性の獲得という意味では、宗教や政治の問題にも同じ構造のものがあるのではないか。もし貴方が心あるバスアングラーであるなら、日本の社会に新しいシステムが入ってきてそれがどのように社会から叩かれ、それを経て成長していったか、あるいは消えていったか、はては社会に取り込まれていったのか等参考になる事例を探すべきだ。または、バスアングラーによる環境の解釈・・・というか、ある嗜好を有する集団による自然の目的外使用ともいえる「勝手な改変」は歴史上類似した例があるのではないか・・・等まだ考えなければならないテーマは沢山ある。現在少しは事例を思いつくのであるが、これに関しては次の機会に書きたいと思う。

*6.日本人の憑依親和性については例えば計見一雄著「脳と人間」三五館p.366を見よ。


■書き残したこと

この問題に抜け落ちているのは、「悪」についての評価である。秋月本の失敗は、帯にしか「バス釣りは犯罪である」と書けなかったことだ。また、一部バス擁護論を展開している人達にも釣りの本質に対する「善悪の判断基準を超越するもの」という認識が欠けている。このことに自覚的であれば、バス擁護論の拠り所、バス擁護自体あり得ないということが判るだろう。なんというか、簡単に云えば自分自身のインモラルさを指摘され、「それは、誰々もやってるじゃないか」式の反論をいくらぶったところで、子供ぽくって滑稽なだけである。むしろ澁澤龍彦ばりに、インモラルであることの意味を深く探るくらいの気概が欲しいものだ。

であれば、バスアングラーのエゴイズムはどこまで許容されるのか、人のエゴイズムはどこまで許されるかという倫理学の問題にヒントを求めることができる。これもまた長くなりそうなので別の機会に。

バスアングラーにとって今状況は悪い。はっきりいえば負け戦の中でどれくらい譲歩を勝ち取れるか位のことまで覚悟しておいたほうがいい。それでももし貴方がバスアングラーであれば今後も釣りには行くだろう。釣りに行く前にタックルのセッティングなどしながら、どうしてバス釣り禁止なんて野暮なことをいう連中がいるのだろうとか少しでいいから考えて損はない。私を含め先人達がいいかげんに放置してきた問題のつけが今回ってきているのだ。「魚を釣りたいと思う気持ちは己のエゴイズムに過ぎない。それは誉められたものでもないし、善でもない。」そんな醒めた気持ちを頭の片隅に置いておくことをおすすめする。しかし私は道を説いているのではない。またインモラルであることを薦めている訳でもない*7。他者危害のないかぎり人の愚行は許されるべきだと思っているからである。

*7もっとも貴方がバスアングラーで澁澤龍彦並に言語を操り社会と闘える知性と才能があるなら、それはそれでいいかもしれないが・・・

参照させていただいたHPなど(私のお薦めという意味ではありませんので念のため申し添えます。硬軟、優劣取りそろえています。どれが良いとか悪いとかの判断は読者に任せます。)勝手にリンクしてますので、もし問題があればご一報下さい。

 
ブラックバス問題資料室
ブラックバスと ブルーギルについて 考える
バスはメダカを食ったか?
琵琶湖を守ろう!!
琵琶湖を守ろう!!掲示板
新潟 ブラックバス問題電子会議室
バスについての意見を聞かせてください
ブラックバスとブルーギルに対する私見
Native Project
A Perfect Day for Trout Fishing
保全生物学の成立
ブラックバス問題資料室
生物多様性研究会
生命学ライブラリ(1)(Life Studies Homepage・森岡正博)
森岡正博の生命学ホームページ(Life Studies Homepage)
財団法人 日本釣振興会
 
 

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