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補論・バス問題の解決に向けての一考察
また少し、この問題について考えていることが溜まったので吐き出してみることにする。今回は3年前に書いた「小論・バス問題の解決に向けての一考察」の補論という形にしようと思う。私は過去、自分の発言がぼろぼろにされた(そもそも突っ込まれるような穴が沢山あったという証拠なのだが(^^;))経験があり、BBSなんかにバス問題について書くことに躊躇してしまうというトラウマがあるので(笑)安全なここに書くことにする。あ、ちなみにわがdolly bull BBSでは外来魚問題に関するカキコは禁止してますのでそこんとこよろしくね。宗教や政治問題と同様かなり難しい局面を迎える可能性が捨てきれないからである。
最近ウェブ上の外来魚関連の掲示板を再びチェックしはじめた。別に暇だから(^^;)というわけじゃなくて色々な情報がこっちに入ってくるようになったからである。どうも私の「雑文」コンテンツの中身を根拠にいわゆる「バス擁護」のネタとして使っている人がいるのである。(いや、正しくは駆除派の人もいた。)まあそれはそれでいっこうにかまわないのだが、誤解していたり、私が間違っていることをそのまま書いていたりして(ちゃんと直さないとねえ・・・嗚呼筆が重たい)、ちょっとまってくれという気分が少々。少しわかりにくいことをわかりやすくした方がいいんじゃないかという気分も少々で、そして半分はサンクス皆さんということで、やってみますので読んでつかーさい。
リリ禁ネットは私ほとんど読んでない。自分が長文を書く癖に人様の長文を読むのが苦痛なのである。ところが最近('03.09.12)とある場所で情報を仕入れて、同ページ内のWEBフォーラムに投稿されたある人の発言が気になり読んでみた。遂に自然主義的誤謬の話まできてしまったかあというのが正直な感想。ちょっとその人の述語自体が間違っていたというケアレスミスはあるけれど、この議論の為に使うのは感慨深い。なぜかといえば、私も昔、それを使いたいと思ったかったからである(^^;)。【後日談。なんとリリ禁ネットは10月19日でクローズの予定だとか・・・。今のうちに投稿のアーカイブをしておいたほうがよさげです。ウォッチャー諸氏。ワシはせんけど。】
自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)とは、簡単にいえば事実判断から価値判断を導出しちゃいけないってこと。倫理学者のムーアが有名。少し遡ればヒュームも同じことをいっていた。「・・・である(is)」から「・・・すべきである(ought)」は導出できない。このことを「ヒュームのギロチン」という(^^;)。
詳しくは↓など参照されたし。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/hume_human_nature.html
上記リリ禁ネットWEBフォーラムの問題の発言をそのまま引用する。
>「食べている」、または「これほど食べる」という生物学的知見(事実)だけを >もって「バスを駆除すべき」という人間の行動規範を規定することはできません。 >規範の根拠にはならないということです。「自然科学の誤謬」を少しは理解した上 >で、考えられた方がよろしいかと思います。
元ネタURL:http://www.kuniaki.co.jp/r/forum.html?start=1103
ただし「自然科学の誤謬」とは「自然主義的誤謬」をアレンジした概念と本人から後ほど補足説明があったため、「自然主義的誤謬」と読み替えることにする。
しかし上記の引用が「自然主義的誤謬」に該当するのかどうかは少々疑問。例えば農業に影響のある害虫を駆除するといった場合、害虫を駆除することは農業者の利害からいえば利なわけで、「ニカメイガが稲を食うという事実から、駆除すべきであると判断を下すのは自然主義的誤謬である。」などといってみたところで、わけのわからないことを云うなと一蹴されて終わりだろう。結局自然主義的誤謬が該当する場合というのは、「・・・べき」という「・・・」の部分が目的化している時のみではないのか?(ちょっと自信なし。倫理に関しての私の拙い理解で間違っているかも知れないのであるが、一応そういっとこう。)。
上記の害虫駆除の目的は何かといえばより多い収穫への期待であったり、余所への被害拡大を防止するためだったりするわけで、合目的的な手段、つまり「・・・べき」なのは、別の目的が存在する場合の手段としての価値判断である。さらに補足すれば、害虫の駆除をすれば、収穫率が上がるという経験的事実がその背景にあるわけで、これも自然主義的誤謬なのかといわれれば疑問に感じる。だから、害虫の自然主義的誤謬が存在するとすれば(こんなのあるのか(^^;))「ニカメイガは稲を食う。そうであるならば、ニカメイガは稲を食うべきでない(あるいは『食うべきである』)。」とかになるのではないか。なんかバカらしい話をしてる気がしてきた(笑)。
簡単に書けば、上記の引用は、手段としての価値判断と目的としての価値判断の検討が行われていないのがちとまずい。「バスは在来魚を食べる。そうであるならば、バスは在来魚を食べるべきでない(あるいは『食うべきである』)。」これなら自然主義的誤謬条件を満たしているので合格。
話が横道にそれるが、ムーアの自然主義的誤謬は「善は定義できない。善は例えば『黄色』と同じように要素に還元できるものではない。善を快であるとか自然的要素で定義しようとするのは間違いである。善は善である。」そんだけのことなのだ。もっともソシュールなんかの言語学(所謂シニフィアン/シニフィエってやつです。)を援用せずとも「善という言葉は善ではないものとの差異としてしか存在しない。他の言葉も同じ。以上。」で終わるんじゃないの?まあこれは概念と言語の違いなので議論としておかしいのかも知れないのだが・・・・。
うーん。「わかりにくいことをわかりやすく」書くつもりだったんだけど、わかりにくいのではないかという気が若干してきたが(^^;)、どうでしょう読者諸兄?ま、話を進めます。
さて自然主義的誤謬が環境を考える上でどうして問題となってくるのかといえば、自然主義それ自体への批判としてである。自然主義の目的を考えてみればそれは分かりやすいかも知れない。「自然主義」という言葉は、環境はもとより、哲学、はては「自然であることはよいことだ」みたいなナイーブな主観的感性まで及ぶ多用な概念装置で、一概にこうであるという提示は難しいが、とりあえず「環境論」的な側面から考えてみよう。例えば「自然に優しくすべきである=自然に優しいことが善である」とか「自然即善」という価値判断も大きな自然主義に含まれるであろう。だが自然主義的誤謬の前ではそれは誤謬であると一蹴されてしまうのだ。
この自然主義的誤謬をなんとか批判的に乗り越えようとしているのが環境倫理学の考えである。例えば、教科書的だが、レオポルドの「土地の倫理(ランド・エシック)」を自然主義的誤謬から救済しようとしているなんてその最たる例であろう。簡単に云えば環境を知ることで好きになる。愛が生まれるみたいな話だが。
あら、なんか話が大風呂敷になってしまった(^^;)。本題に戻ろう。外来魚問題の中でよく云われる「日本に元々いなかった魚だからいるべきでない。」という駆除派の言葉があるが、これなんかは典型的な自然主義的誤謬であろう。こんなことを云う人はほとんどいないが「○○は日本に元々いた魚だから、今後もいるべきだ。」というのも同様におかしい。(ただし前半の『日本に元々・・・』の部分は事実判断の裏付けがあるといえばある。アメリカ大陸で進化してきた種を、これまた別の進化をしてきた日本の生態系に移入することの影響は、未知数であるから[高リスクである]。という意見など代表的。)
だが注意して頂きたいのだが、当然ながら私は駆除派の主張を間違いだと否定しているわけではない。例えば保全生態学という学問は生物多様性を保全するための手段としての学問である。学問としての正しさは事実判断の地平において行われるべきで(これは価値判断だけどね。)、けして価値判断の地平ではない。生物多様性を保全すること自体が例え誤謬であったとしても(そんなことはないと思ってるが)、ヒュームのギロチンによって事実判断は影響されないと考えるからだ。だから「ブラックバスやブルーギルは侵略的移入種(なんかこの言葉好きになれないが)である。」という事実判断は私は認めます。
このへんの「価値判断を内包した科学」については、 http://www.sanshiro.ne.jp/activity/02/k01/schedule/4_26a.htm こんなところで、あの鬼頭秀一さんが若干触れてますのでご参考までに。 ちょっと横道にそれるが、 ゼゼラノートでまとめられている池田清彦氏の発言の最後の方に http://www.zezera.com/event/20030824hachiro.html
学者が政治をしちゃいけないというがありますが、これも科学と価値の分離を意識していると思う。(さらに余談ですが学者が政治をしちゃいけないという発言も政治的で矛盾してると私は思いますけどねえ・・・)
ここでちょっと整理してみたい。というか言い換えてみたい。
裁判なんか考えてみれば分かると思うけど、事実判断(真偽)は法律的価値判断(善悪)を下す手段であって目的ではない。事実判断が目的化すると自然主義的誤謬になってしまう。今までの話は簡単にまとめるとそんなとこである。
さて、今度は擁護派への苦言を。擁護派に多い誤りは、事実判断それ自体の誤りである。あるいは幼稚な理解。あるいは、バス擁護をするために有利な事実判断しか恣意的に採用しないことである。このことに関しイライラしているまじめな駆除派も大勢いることを擁護派諸氏は知っておいて損はない。
やっとここで結論というか一定の方向が出せるのだ。いやー長かった〜(^^;)。今までのは前置きである。
2001年2月の立教大学でのシンポの最大の収穫は何だったのか。水産大の水口氏は文章書くと変だけどしゃべると現場で戦ってきた学者としての説得力があったとか、それに対抗できたのは琵琶湖水族館の中井克樹研究員だけだったとか・・・というそんな表層レベルの話ではなく(^^;)、駆除派、擁護派両者の間で外来魚の影響が琵琶湖でも当然あり得るだろうという共通認識ができたことである。たったそれっぽっちのことであるが、非常に大切なのだ。現在それが忘れられているような気がしてならない。
バス問題の解決の為の第一歩は認識を共にすることである。第一歩どころかそれがとても大切であり、これからもどんどん積み重ねなければいけない。なぜなら両者で共通に検証できるのはそういった事実判断だけなのである。これに関しても未だ議論が分かれている部分がある。したがってそこの対立をなくすためには引き続き調査や研究が必要。これが合意形成の前提となる。
ただ、私は共通認識が出来たから簡単に合意形成ができ、外来魚問題が解決するとも考えていない。両者の価値判断の対立を解決する必要がある。これはあるべき自然とは普遍論(価値はひとつ)を採用するのか、多元論(様々な価値を認める)のかで違ってくる。前者が駆除派的、後者が擁護派的といえるかもしれない。
価値判断(価値観)の対立を解決することは根本的に難しいという声が聞こえてきそうである。実は私もそう思っている。だが、事実判断の共通認識ができあがる過程においてそれは徐々に減っていくだろうというのが私の希望的観測。また価値判断もマクロ的にみれば合意できる部分だってありそうである。例えば「人はただ生きるだけでなくよりよく生きるべきである」とかね。
以上をまとめれば、バス問題解決のためには、
この順序しかない。なんか教科書的というか当たり前の結論でつまらないけど、この程度のことは前提にしないと話がいつまで経っても循環し、時間ばかり経過して何も解決しない。あとこれは無理な相談かも知れないけど、罵りあいもなんの解決にもならない。なんの解決にならない場というのがあってもよいとは思うが(笑)、それはまた別の話。某掲示板のように「バサーはバス糞」、「駆除派はアニオタ」なんて罵りあっていても全然駄目。バサーを「バス糞」と卑下する人間は、「バス糞」と呼べばバサーは傷つくだろうと思う程度の、その程度のつまらない実存の持ち主であることを自ら証明しているだけだし、「アニオタ」云々も同様。お互いに品性が下劣であることを証明してるだけだ。お互いにリスペクトしあえというのも気色悪いが、J.S.ミルの功利主義や危害防止原理でもちょっと勉強して落ち着きましょう。罵りあうのは確かに自由だけど、結局愚行のみで終わってしまう可能性がある。問題解決という視点から見ればむしろ有害である。それでよりよく生きることができましたか?幸福になりましたか?それでもいいんだといわれれば自由主義者の私は、それもやむなしとひっこみますけどね(^^;)。
以下おまけ
J.S.ミルで思い出したけど、バス釣り自体は(釣り全体もそうだけど)愚行である。というのが私の認識である。バス釣りは愚行であるから否定するというのではなく、むしろ逆で、自由主義の観点からみれば愚行権として認めるべきだと私は考える。ただしそれは他者危害のない限りにおいて。そして上のように自由主義にも問題があることを把握しているつもりではあるのだが・・・。このあたりを議論として展開する論客がどこかにいてもよいはずなのだが、あんまりみたことがない。いや単に見落としているだけなのかもしれないけれど。構造主義生物学の池田清彦氏(上にも少し引用したが)の著作を一冊読んでみたが、彼の考えもこれに近い。「すべての人々に恣意性の権利を与え多元主義的な社会の創出を」というのが彼の主張の一部である。(参照:『構造主義科学論の冒険』/講談社学術文庫)だから池田氏がバス釣り擁護論を展開する気持ちもわからなくもない。
もう一つ思うのが自然/人為のボーダーに関しての議論である。人間の自然への介入が意図的か無意識的かで善悪が決まるような議論が実際にあるが、はたしてそうなんでしょうかねえ。これも考えていくとおかしなことになりそうである。自然即善というのは間違いであるという指摘だけ今回はしておこう。人が望む自然と本来の自然とは重なる部分も多いが別の集合であるとの認識は持っておいた方がよい。これはこれで難しい問題なのでまた機会があれば。
以上2003.09.18記す
その後
自然主義的誤謬に関してご意見頂きました。自然主義的誤謬のいけないところは、例えば「人類の生存が善である」ということさえ誤謬として排斥してしまう点であり、そんなもの大事にする必要があるのかとのこと。なるほどねえ。そんな貴兄にはプラグマティズムがありますよ(笑)。プラグマティズムであれば、それを捨てさっても大丈夫かも知れない。これはすなわち誤謬を認める(可謬主義的)立場である。捨て去るというよりも、まあ自然主義的誤謬も当然あるでしょうなと余裕をかます(^^;)ような手法だと思った方がよいかもしれない。プラグマティズムからこの問題を考えると、外来魚問題を解決することに際し、絶対の真理であるとか正義であるとかとの突き詰めは行わず、どうすれば遊魚者や漁業者、一般市民が現実的に幸福になるのか、その為に役立つ方法は何かを探ることに重点を置くことになるのだろう。常に現実的でドグマに陥らない方法が確立できるなら、私も賛成である。(ま、しかし、ダブルスタンダードでもOKとかという話になると、なんかやな感じもするのは私の性格ためだろうか)。
以上2003.9.23補記