色々な意味で重たくなる本
本題に入る前に一言。私は別にブラックバス問題評論家ではないのだが、この問題に足を突っ込んだ以上、なるべく情報の発信を行っていきたいと考えている。ホントは他にネタがないのではないかと疑われる諸氏もおられることだろうが、そんなことはない・・・と強くいえないのがつらいところ。細かいネタはあるのだが、とりあえず後回しにして新鮮なうちにバスネタを優先して取り上げることにする。
秋月岩魚氏が前回「ブラックバスがメダカを食う」を世に出したのは99年9月。あれから4年の月日が流れた。バスを巡る問題提起という面において、良い悪いは別として画期的だったし、バスフィッシングブームの急激なしぼみようも「ブラックバスが...」の果たした役割は大きかったのではないかと私は思っている。今度の本も主張していることはほとんど変わらない。ところで今回はじめて明らかにされたことであるが、構成・文はフリーランスライターの半沢祐子氏が引き続き担当しているということである。ということは芸能人の出版物や今年ベストセラーになった養老孟司著「バカの壁」と、「ブラックバスが...」および本書の作り方は一緒だったということなのだ。いや、別にだからだめだといってるんじゃなくて、本を作るためには優秀な職業的書き手に負う部分が多いのだなという率直な感想である。
今から思えば、2001年2月の立教大学でのシンポ「ブラックバスを考える〜21世紀の水辺環境と 釣りのあり方〜」で、東京水産大の水口憲哉氏に「生物多様性についてどう定義するのか」と意地悪な質問をふられたときの秋月氏のメロメロな回答(けして大間違いというわけではないとおもうけど)は、「ブラックバスがメダカを食う」の中で生物多様性を語っていた著者とは思えない内容であったのだが、その裏には上記のような事情があったのかも知れない。
さて、ブラックバス批判の本を再び出さなくてはならなかった理由について、秋月氏は以下の二点をあげている。
だから、結論としては前著と同様、ブラックバス絶対駆除、バス釣り禁止になる。これは話の筋としては間違っていない。苦労して駆除しても「密放流」されれば元も子もない。だからそれを防ぐにはバス釣り禁止がセットとなる。
これが主張されることの底流である。この本の特徴はもう一つあり、最近および過去の「バス擁護派」の動きを再びジャーナリスティックに追っている点である。これは資料的に価値があると同時に結構興味深く読めた部分である。(水産庁のゾーニングプランの裏側など)。また人物批判も相変わらずある。俎上に上げられるのは前著に続く人物もいるが、立教大学でのシンポ以後の流れも押さえており、故開高健氏、およびその弟子である天野礼子氏(彼女はシンポの『擁護派チョイス』の司会者でもあった)、そして漫画家の矢口高雄氏への批判も載せられている。
筆が重かったと本人も書いているが、論を通すためには著者の敬愛する人物をも批判をしなければならなかったのだろう。この辺は読んでいるこっちも気が重たくなる。
さてあらすじはこのあたりにして、色々と考えさせられる点を記述してみよう。ただ、前著に比べて殊更新しい論点が加わったわけではないので、それについては私が以前批評したもので足りると思う。必要な方はそれを参照して頂ければ幸いである(一つの文章としてまとめようと思ったが、おもいついたことを断章的に並べさせて貰った。文章能力がなくて申し訳なし)。
■ブラックバス等外来魚の拡散の要因は釣り人(業界含む)の「密放流」が主たる要因であるとしている点。これはその可能性が高いと思われるが、どの程度かは不明であるし、それが全てではない。確信犯的放流ではなくて事故的なもの、鮎やフナ等の遊魚対象魚の放流に混ざって拡散する例はもとより、子供が捕まえてきて飼えなくなったものを別の場所に放流してしまう可能性だってさほど低いとは思えない。まあどの程度なのか定量的には不明だというのが正しい。
■駆除の困難性は認めつつも、理念としては完全駆除という姿勢は崩していない。そう主張することは認められなければならないだろう。だが、著者も気がついているように放流する手間に比べると駆除する手間は跛行的であり、不可逆的ともいえるほど難しい。じつはこれは熱力学でいうエントロピー増大と同じような性質をもっている。確かに密放流はバス釣り禁止にすればある程度の抑制に成功し、その実数は減少するであろう。しかし上記のように事故的な拡散を防ぐ手だてではない。そして極小量の親から高確率で新しい環境に定着できてしまう事実から考えるとバス釣り禁止にしたからといってかならず拡散が防げるのかといえば疑問である。(だから無意味だといっているのではない。この釣り禁止という手段によって助かる環境もあるだろうことは想像できるからだ。)つまりは完全駆除・バス釣り禁止を理想と掲げ、それを実行に移したとしても結局はある程度の外来魚資源の抑制、ある程度の放流抑制という程度問題に落ち着くのである。
■駆除できるできないという判断に関しては、駆除すべきだという理想を述べるに留まり、バス釣り禁止という主張が実はメインなのではないかと感じた。(他の外来種については北海道のブラウンについてついでに触れているだけだ。だからいけないというわけではない。バス批判本だと思えばよいのだから。)バスの駆除釣りの否定や滋賀県のリリース禁止条例はバス釣り禁止と同義であるからこそいいんだという意見もそれが背景にあるからであろう。また、具体的にバス釣り禁止をどのように行うのかという方法について記述がないこともこの本の欠点であろう。バスを対象とした釣法自体が禁止なのか、バスが釣れる可能性がある釣り方が全て駄目なのか、実は考えると難しい。
またバスだけを駆除すれば事足りるかのような筆運びも時折みられるのは残念である。生物多様性の保全からすればバスを駆除することは必要条件かもしれないが、十分条件ではない。駆除に伴う群集レベルの影響の検討やケアを考えなければならない。ブラックバス、ブルーギルは必ずしも負の影響だけ与えているわけでもない。例えば従前に入ってしまった別の外来種、アメリカザリガニの影響を打ち消して、間接的に在来種に正の影響を与えている場合だってあり得るのだ。
この本の狙いはバス釣り批判だけなのだ、それでいいのだという反論があるかもしれないが、それだとなんだかなあ。単なる喧嘩上等みたいな代物になってしまうと思うのは私だけだろうか。
■駆除釣りも「バスを利用することに繋がるから」、「バス釣りの面白さに目覚めるから」駄目という意見は結構ユニークである。ここには理由として釣りにかぶれることへの畏怖が述べられている。駆除には大変な労力と資金を投入しなければならないだろうという認識はあるようだが、では誰が駆除するのか?という主体の問題についてはよくわからないのである。琵琶湖のように漁業者がいる場所はまだよいとして、小さな溜池などはどうすればよいのだろうか。水抜きはあまり効果がないことが知られている。さらに外来魚以外の全ての生物にも強いストレスを与えるし、目に見えないプランクトンや水生昆虫、稚魚なども一緒に捨ててしまう手法である。釣りは、ある種だけを選択的に(かならずそうだとはいわないけど)捉える方法を発達させてきた手段であり、これを利用しない手はないはずである。まあもっとも私も駆除釣りには反対である。秋月氏のように畏れからではなく、環境のためという釣りは釣りとしていびつであるという意味においてである(これは以前書いた)。やりたい人がやるのは否定しないけれど。
■こんな例え話を考えついてみた。私は酒は飲まないのでこんな話が妥当かどうかわからないのだが、バス釣り禁止とは、ある特定の種類の酒の飲酒を禁止するようなものかもしれない。世に沢山の種類の酒があるが、例えばビールの飲酒が禁止されるとしよう。理由は、まあなんでもいいのだが、ビール飲酒後にでるゲップに日本の上空のオゾン層だけを何故か破壊する成分が含まれていることが明らかになったとしよう。このとき、ビール発祥の地エジプト上空では何故か何も問題が起こらない(うぃー、なんかバカらしい例え話ですんません)。このとき日本で起きそうな議論が、ビールの飲酒禁止の議論や、日本人なら日本酒を飲めとか、ビール飲みたければエジプトに行けとか、ビールは飲んでも良いけどゲップとしてリリースしないでくださいとかという話になるのだろう(苦笑)。
ああ別にアホな例え話をしたいのではない(別にそれでもいいけど)。バス釣りをしない人に、バス釣り禁止の意味は、バスアングラーにとってどんなものなのかを少しは理解してもらえるかもしれないと思って適当にでっち上げてみた話なのだ。他の酒(魚)で我慢しなさいといわれて素直に従える人もいるだろう。しかし、ビール(対象釣魚)によって得られる充足感は、似てはいるが他のものでは得られないものなのだ(ですよね?)。それぞれ趣が違うものである。あなたはビール党であるとして、こんな事態を我慢できますか?バス擁護派の一部メロメロな擁護論は、ビールを今後も飲みたい一心で発せられている理屈と似てくるはずなのだ。
■釣りは麻薬と似ているという著者の考えは、私も似たような側面があるという意味において同意する。しかし・・・「強い欲望を伴う趣味については、最初から細かい規制をしておいた方がいい」(p.242)。うーん。だけどそれはどうなんだろう。釣りという趣味は万人に「効く」妙薬ではない。ある種性格的な親和性というか適性がないと駄目だろう。そして以前批判したことは繰り返さないが、アグレッションを昇華する様式としての釣りという観点からいえば、もしそれが蓋をして終わりという規制の仕方なら、別の問題が発生する恐れがあると批判せざるを得ない。また「禁止と侵犯」という視点から秋月氏が述べているのであればそれは条件付きで賛成するが、そうではなく、単なるパターナリズムだと思われるので私は嫌だ。これに対抗するにはバスアングラーの自己決定が問われることになるだろう。さらに駆除目的であっても外来魚の釣りは駄目と主張するのなら、いっそのこと日本国内では全ての釣りを禁止するぐらいの主張をしたほうが、論としてすっきりしてよかったのではないか。そこまで恐れるのであれば、可能性としてはバス釣り以外の多くの釣り人が外来魚釣りにかぶれてしまうことはあり得るし、バス釣り以外の釣法がバス釣りに応用できる可能性に対し憂慮してもしすぎではない。まあこれは言い過ぎか。
だが、私もある程度の規制はやむなしと考えている。外来魚の問題だけではなく、釣りは色々と他の問題も抱えている。規制するのであれば、この問題が遊魚に関する法律を漁業法から独立して作る契機になれば、それはそれでよしとしたい。しかしどこが所管するか難しいけどねえ。農水省?文部科学省?国土交通省?どこがやってもなんか利権にまみれそうであるしっくりこない印象がある。いっそのこと「遊魚省」の新設を望みたい。
■今回の著書は以前の著書で述べた「犯罪」を「犯罪的行為」と後退して言い直しをしているが(p.21)、その中で少し面白い記述があるので引用してみる。
--生態系という、そこに生きる人すべての生活基盤を壊滅するような魚の密放流は、いわば、一国家の法律における「犯罪」とは罪深さのケタが違うと考える(中略)残念なことにそうした罪深い行為を表現する言葉が見あたらない。--
実は古代日本においては、これにぴったりあてはまる言葉が存在したことを指摘しておこう。それは「天津罪(アマツツミ)」である。もうひとつ同時に「国津罪(クニツツミ)」という言葉もあった。「国津罪」は通常の犯罪であり、「天津罪」とは天に対する重罪とされている。では、実際に何に適用されていたのか。それは実は稲作に関することであったのだ。倉庫に糞をしては駄目。畦を壊しては駄目。播種の時期を狂わせては駄目とか、農耕文化を破壊するなという命令である。栗本慎一郎著「パンツをはいたサル」の読者なら栗本氏が吉本隆明氏をもちあげつつ書いていた部分を覚えていらっしゃるかも知れない。
今から思えば、なんで農耕文化を否定することが「天津罪」という重大な犯罪なのかわからない人が多いであろう。簡単にその理由をいえば、倉庫に糞をしても、畦を壊してもなんの罪悪感を持たない人々が存在していた証拠なのだ。そしてそれは異なる二つの文化が対立していた証拠でもある。つまり弥生系文化からみた縄文系文化からの妨害行為を厳しく抑圧するためにできたものだと考えるのが妥当なのだ。外来魚の密放流を「天津罪」のように感じてしまうという心理構造の裏側をよく考えてみれば、構造的にいえば稲作文化のかわりに生物多様性の保全が入り込んだにものに過ぎない。秋月氏はきっと現在の「天津罪」復活を願っているのであろう。実に古式ゆかしいというか伝統的ではありますね・・・。
これは余談だが、遠い(近い?)将来において、我々が農耕文化を否定することが「天津罪」になるのが不思議に思うのと同様に、生物多様性の保全を否定することがなぜ「天津罪」になるのか疑問に思う可能性だって捨てきれない。なぜならこのような判断は文化的・社会的・歴史的文脈において変化する可能性があるからだ。(かならず変化するというものでもないので、保証まではしませんけどね(^^;)。う。しかしこれは詭弁だよなぁ。ただ、今後とも『生物多様性の保全』こそが守るべき最優先の価値であるということはありませんとだけはいえる。守らなければならない価値の一つであることは私も尊重してますよ。当然。)
■私は以前から主張しているように、釣りが善であるとか、ましてや青少年の情操教育に役立つなど考えていない。釣りは愚行であり、釣り人は欲望の奴隷で充分だと考えている。結果として役に立つこともあるだろうし、それで身を持ち崩す場合だってありうる。一部擁護派が述べるように、釣りは健全なスポーツで青少年の情操教育云々という言説はむしろ釣りに対しての判断としては誤謬である・・・とまではいわないまでも、釣りの性質を誤って捉える恐れがあると感じる。釣りは現在社会において悪党的嗜好が許された数少ないチャンネルの一つなのだ。時にそのチャンネルを通って悟りに似たような境地に達する人も現れるかも知れない。そしてときに、身勝手な外来魚の放流を行う釣り人が存在するように、「天津罪」と同じくらい重大な犯罪的なものとみなされる可能性だってある。だが、どちらも釣りという病に冒されていることに違いはない。だから在来魚を対象とした釣りが健全であるか?といえばそれもまた違う。どちらの釣りが健全/不健全という問いは意味がないと考えている。
以前も同様なことを書いたが、釣りという行為が社会の中で占めるポジションの有罪性に擁護派、駆除派両者とも気がついていない人が多いことは強調しておきたいところである。だから、釣りの有罪性についてブラックバスに関してだけ述べるにとどまるのであれば、それは不足しているという批判は可能だろう。
余談だが、特にバスフィッシングに関し、釣り人がどのような心象的イメージ(あるいは期待)を抱いているのか簡単に知る方法がある。タックルやルアーの名前を調べてみれば良いのだ。あまりソフィスティケイトされていない攻撃性の発露がそこにみてとれるだろう。それが全てを顕しているとまではいえないけれど、それがバスアングラー的実存である。
この本は釣りの犯罪性について気づかせてもらってありがとうと礼をいうのが筋なのかも知れない。そしてそれがこんな形でしめされることと、それでもそれに気がつかない連中が多いこと、さらにそれに反論したつもりで反論になっていない輩が多いのにも気が滅入るのである。
'03.10月14日記す
'03.10月29日改訂
'040213追記