「これは相対主義ではない。」

言語ゲーム論からみた外来魚問題

 

■言語ゲームによる自然主義的誤謬の救出

これから述べようとすることは、問題を如何に解決すべきかという事柄ではなく、問題はいかなる姿をしているかという外的な視点である。

補論・バス問題の解決に向けての一考察の中で自然主義的誤謬について少々書いた。ここから書くことは、その大幅な修正、およびそれがどのような広がりを持つかという事柄である。

実は正月休みからちょっと読書に耽っていたのである。今回は高尚なことに(^^;)ウィトゲンシュタインの再読およびその周辺の事柄について調べていたのである*1。まあそれはあくまでも個人的嗜好なので特に意味はない。そこで、自然主義的誤謬に関し、見落としていたことがあったことに気づいたのである。しかもそれは結構重大なことだったのだ。

自然主義的誤謬の確認をここでしておこう。自然主義的誤謬とは「・・・である(is)」から「・・・すべきである(ought)」を導出する誤りのことである。(例)ブラックバスは日本に元々いなかった魚だから日本にいるべきでない(駆除すべきである)。

だが、言語ゲームという一元論で考えると、誤謬として斥けず検討に値する課題として浮上させることが可能である。それはいかにしてか。だが、その前に言語ゲームについて説明する必要があろう。

さて、この「言語ゲーム」という概念をどのように説明するかが非常に難しい。元々はウィトゲンシュタインという、オーストリア生まれでケンブリッジ大育ちの天才的変人哲学者のアイデアなのだが、彼は「言語ゲームとは○○ではない」というような否定的反語的表現でしかそれをあらわしていない。そこで、以下簡単に説明してしまうが、この辺りの議論に本当に興味のある方は下記に引用した橋爪大三郎氏の著書でも読んで欲しい。

思い切り要約してしまえば、「言語ゲームとは、我々が生きる世界そのものである。」それではわからない?では碩学橋爪大三郎氏の言葉を引用しよう「言語ゲームとは、あるルール(規則)に従った、人々の行為の秩序ある集まりである。*2」あれ?これもわかりにくい?・・・だろうね。では別のいい方をしてみよう。「世の中はサッカーが超複雑になったようなゲームの総体である。このあり方を言語ゲームという。」ウィトゲンシュタインは実際サッカーの試合を観て、これを思いついたといわれている。ニュートンのリンゴのような話である。では再び橋爪氏の言葉を借りて整理してみよう。

言語ゲームの定義

  1. 範囲:我々の振る舞いは全て何かの言語ゲームである。社会は数知れない言語ゲームの渦巻きである。
  2. 不可能性:言語ゲームの総体について、対象として言及できない。なぜならそれ自体が新しい言語ゲームであり、別のものとなるから。
  3. 個別の言語ゲームの記述可能性:個々の言語ゲームを記述することは可能である。ただしこれは元の言語ゲームとは区分される新しい言語ゲームとなる。これを元のゲームの論理学という。
  4. 論理と言語ゲームの独立性:論理学は元の言語ゲームの従う規則性を提示できるが、元の言語ゲームを規定するわけではない。論理学のあるなしに関わらず、元のゲームの効力は同一である。

----引用元「言語ゲームと社会理論」p.65を改変、簡略化した。このほかに注意しておく点として、個々のゲームには各々のルールが必ず成立しているという点がある。

一つの言語ゲームを例としてあげる。例えば貨幣経済、つまりお金を使う我々の振るまいとはどのような言語ゲームか?簡単に云えば、お金に価値を認めるルールに則ったゲームであるといえる。そしてお金、とくに紙幣を観察してみれば分かるが、これは単に紙に文字や模様を印刷したものである。なんでこんな印刷物に価値があるのかといえば、このゲームの上ではそれに価値があると、参加者(プレーヤー)皆が思っているからに他ならない。(同一言語ゲーム内プレーヤー間での価値実体化。)

言語ゲームの射程は、人間の振るまい全て(言語活動以外も当然含まれる)に渡る。そして上記の言語ゲームの性質から、次のような面白い性質が浮かび上がる。ゲームの観戦者(観察者)の視点と参加者(プレーヤー)の視点の違いである。ゲーム観察者は、そのゲームを「〜である」、「〜でない」という事実判断で記述することが出来る。逆に参加者はそのゲームのルールを念頭に置き「〜べし」、「〜べきでない」と記述するのである。これを橋爪氏は言語ゲームの外的視点、内的視点と呼ぶが、分かりやすくするために、事実モード、規範モードとここでは呼ぶようにしよう。先ほどのお金の例であれば、

ここに自然主義的誤謬の解消が行われる。つまり、同じ言語ゲームであってもゲームを外から観察するのか、内部から語るのかによって、事実として記述するのか、規範として記述するのかが違ってくるだけなのである。つまり自然主義的誤謬とは、ゲームを外からみた事実モードとゲーム内の規範モードを同時に記述していることを示している。サッカーなどのスポーツでも同じであるが、ゲームのプレーヤーは常に規範モードのみに従っているわけではない。そこから抜け出るのは自由だし、そもそも事実判断(事実モード)を同時に行わないとプレー自体不可能である*3

よって、自然主義的誤謬と思われる命題は、言語ゲーム一元論からいえば、誤りとはいえない。同じ言語ゲームを外から眺めているか、内側からみているかの差にすぎないのである。ある命題が、事実判断すなわち繋辞「〜である」から「〜べし」となった時点でなんらかの言語ゲーム内の規範モードとしての記述となっている---つまりある言語ゲーム内のプレーヤーとしての立場を表明しはじめたと理解すればよいのである。

少し例を出して説明すると、農業における害虫の駆除とは何か?(○○虫は農作物を食うから駆除すべきだ。)私は以前苦しい云い方でこれは自然主義的誤謬にならないと説明したが*4、以下のようにスッキリ説明できる。これは農業という言語ゲーム内において、「より多く収穫せよ」という規範をある昆虫が阻害するために、それが障害として(害虫と認定され)認識され、駆除すべきだとなる。水産業という言語ゲーム内における害魚の扱いも同じ。自然保護という言語ゲーム内における侵略的移入種の扱いも「生物多様性を損うな」という規範モードに反するので以下同じである。自然主義的誤謬論争という消耗戦にこれでけりが付くのである。


■言語ゲームの応用

では、私が最初に出した例「ブラックバスは日本に元々いなかった魚だから日本にいるべきでない(駆除すべきである)。」はどう料理すればいいだろうか。これは詳細に検討してみよう。これを言語ゲーム論から事実モードと、規範モードに腑分けしてみる。

これから元がどのような言語ゲームであったかといえば、

本来の言語ゲーム:「Xは排除(駆除)する」(正確にいえば、Xは排除(駆除)すべきだというルールに則った言説を述べるゲーム)

と推定できる。

(注意。わざわざXとしたのは、Xは変項であって、そこに様々な魚が入るからである。また追って詳細にみていくが、規範モードは『事実の部分+規範の部分』となっていることに留意せよ。上記の例であれば事実の部分:主語、規範の部分:述語である。)

実はここにおいて新たな判断が可能となる。例えば「論争」という、言語ゲームと言語ゲームが衝突する複言語ゲーム空間においては、他陣営のプレイヤーが敵対するプレーヤーに対してその内容を問うことが可能である。(当然自陣でも可能だけど通常は行われない。)

例えば上記のプレーヤーに対し、Xの例を様々ボールのように投げかけ、テストしてみることが出来る。Xに該当するものとして例えば「ブルーギル、ニジマス、ブラウントラウト、ライギョ、キャットテールフィッシュ・・・等々」は該当するのか?外来魚は全て該当するのか?すべてきちんと言語ゲームのルール通り投げ返すことが出来たら合格である。もしそうでない場合、プレーヤーとして失格という烙印を押せるであろう。つまり今度は自然主義的誤謬になりかわって、言語ゲームのプレーヤーとして規範(ルール)に従っているか否かという判断ゲームという側面が出てくるのである。

では、ここでこのプレーヤーに対し、変化球を投げてみることにする。例えば、ブラックバス、ブルーギルの駆除を優先して行っているのは理由は何故か?もしこの質問が事実である場合、上記のプレーヤーは自身の規範のみから答えを出すのは論理上不可能である。今度はプレーヤーが規範内容に修正を加える必要に迫られる。例えばブラックバス、ブルーギルは侵略的移入種だからという理由をつけ、以下のような修正ルールを示す。

新たな規範:「(日本に元々いなかった魚)Xは排除すべきだ。それには優先順位があり、侵略的移入種Yから行うべきだ。」(これは、旧規範+新事実+新規範という修正になっている。)

このように駆除派と呼ばれるプレーヤーの言説について、どのような変化が起こるかを示してみた。当然擁護派の言説であっても同様な変化は免れないであろう。かように複言語ゲーム空間では、ゲームと規範という関係はスタティックなものではなく動的で変化して行く場合がある。実はいろいろとこの性質について「言語ゲーム論」の中で何かいえるのではないかと調べてみたが(後に脚注で説明するが)、これこそが、ハートの法理論でいうところの、一次ルールに対する変更の二次ルールの機能の一部であると、正直自信をもっていえないのである(^^;)。よって、これも言語ゲームの特質であると判定を下すのは難しいが、外来魚問題というものが、外来魚駆除派の言語ゲームと擁護派の言語ゲームが複合した「論争という複言語ゲーム」であり、これも一種の「試合という言語ゲーム」のカテゴリーに属すとすれば、このような特質が一般化可能なのかもしれない。簡単な図を以下に示す。(上記のややこしい事柄に関しては、脚注の図を参照のこと)

例えば、この性質は、外来魚問題に限らず、このような対立的言語ゲーム、つまり規範の対立を元に行われる「論争という複言語ゲーム」内においては、しばし観察可能なものだと思われる。さらにいえば、相反するおのおのの言語ゲームに対しそれを取り囲む言及(二次ルールとしての結合、あるいは事実モードとしての外的視点による言及)はお互いに逆となる場合が多いと想像される。これは簡単なことで、外来魚問題でいえば、擁護派の言語ゲームを取り囲むが駆除派の言及であり、駆除派の言語ゲームを取り囲むのが擁護派の言及であるという関係のことだ。*5


■外来魚問題とはどのような言語ゲームか

一番シンプルに考えるとこうなるだろう。「何が大事か(何に価値があるか)というサークルに外来魚を入れるか入れないかの判断ゲームである」と。(他にも色々考えたんだけど、複雑になりすぎたため省略を図った。他の関係因子も当然あるのだが全部捨て去ってシンプルにしたのだ。誤解ないように。これが正解ではない。ひとつのモデルである。)図-1のように、外来魚問題言語ゲーム内においては、「外来魚を認める」vs「外来魚を認めない」というプレーヤーがいて戦っている(せめぎ合っている)様子であると記述できる。図-1の衝突の部分が実際はどうなっているかを内部的視点で整理したのが図-2だと理解して欲しい。単純化してしまい申し訳ないが、頭のいい人はもっといい構図を考えてみてちょうだいね(^^;)*6

世には駆除派、擁護派という言葉がある。実際には私のようにアンビバレントな種類の人間もいるのだが、単純に二派にわけて考えてみよう。まず前提として駆除派、擁護派も共に別の言語ゲームを営んでいるグループである。そして各々のグループ内は相互承認によってみたされている*7

両立不可能な両者はあるとき衝突する。ではどこにおいて両立不可能=衝突しているのか?それは言語ゲーム内の規範が違うからである。擁護派の規範は大雑把だがこう表せるだろう(ま、不正確だったらごめんなさい。)。多くの擁護派≒日本のバスアングラーの規範は「1.バスを釣れ。2.多く、大きいものをできるだけ釣れ。3.ルアー(擬餌針)で釣れ。4.バス(資源)を大切にしろ。」等々である。ここで特に問題なのは「4.バス(資源)を大切にしろ」である(これが図-2の部分)。このルールさえ改変されれば、問題は大きく前進するようにみえる。

リリース(再放流)禁止という昨今の自治体(新潟、滋賀、秋田、栃木、神奈川・・・)の決定もそこをついている。実はこれは常識的といえば常識的な判断なのである。なぜならバスアングラーの規範全てを否定しているわけでもないし、駆除派の規範にも沿っている(十分かどうかしらないが・・・)。しかし、以前から述べているように 根本的には、内在的なルールは外在的な要請で変えることは難しい。なぜならそのルールはそもそもバス釣りという言語ゲームの実践で獲得されたことだからである(ルールは実践を通して学ばれる。=規則が行為を規制するのではなくて、行為が規則である。)。また相互承認(バス釣りという言語ゲーム内の"世間"といっておこう)という作用がそこに効いているからだ。もしこれをやめるとなると別のルールとなり、また相互承認を新しくやり直す必要がある。さらに別の側面をいえば、バスを大切にしろという規範は、バスの存在を確保するというゲームの基底を支える構造が事実としてあり、それを規範から外すとゲームが将来なりたたないとプレーヤーは恐れるからである。

さて、これは私からバスアングラーへの提案なのだが、(仮定として)外来魚の存在否定ではなく影響を抑制するという点で駆除派との一致点が見いだせるのであれば、バスアングラーが協力するリリース禁止という手法も、やや苦しいけどあり得る。例えば目標資源量に到達した時点でリリース禁止の解除という保証(動機付け)を設けられればどうか。ただし、そのためには環境への影響と資源量を数値化し、把握する必要があるだろう。これは「バス(資源)を大切にしろ」という規範に「ただし、問題解決のときまで一時保留する」という一文を加えるだけですむのだが・・・。受けが悪いかな。これも一種の時間的囲い込み(ゾーニング)案といえるかもしれない。清水国明氏らの起こした裁判---「オオクチバス再放流禁止義務不存在確認等請求」---に判断が下されるとしても当分先のことになりそうだし、バス擁護派が勝てるかどうかもわからない現状においては、これも現実的な選択肢の一つである。

まあそれはそれとして、この外来魚問題という言語ゲーム(これは複合言語ゲームである)が将来どうなるかについて可能性として考えられることを全て書き出しておこう。

単純に各言語ゲームの存続(○×)であらわすと、次の4通りが考えられる。

    1234
駆除派:○○××
擁護派:○×○×
  1. は両者が存続し続けるということで問題の解決でも解消でもない。
  2. は擁護派の消滅(負け)という解決
  3. は駆除派の消滅(負け)という解決
  4. は両者の消滅(負けではない)という解決ではなく解消。

消滅という言葉が適当か否かという問題があるが(^^;)、強引に作ってみた。そして、なんでこのようになるのかといえば「問題」を主語として考えているからで他意はない。

しかし、現在のトレンドを考えてみると(みなくても(^^;))、3.はありそうにない。しかし完全にバス釣りという言語ゲームが消えさるということも考えにくい。2.に近い1.というのが妥当な線だろうか。

現在のトレンドとは、バスアングラーの減少、外来魚再放流禁止という傾向が止まらないこと、バス釣りに対する世論の風当たり強化、業界の衰退、ブームの終わりなどを指摘しておこう。ダイコーは倒産したし、秋月岩魚氏に過去の「密放流」を指摘された則弘祐氏が経営するスポーツザウルス社も逝ってしまった。しかし私は99年頃から「このままではバス釣りはますます追い込まれるだろう」と指摘していたが、私の想像以上にことが進んでいるというのが実感である。バス釣りは逓減状態だなあ。私のアジテーションが不足していたのだろうか(冗談です)。

で、結論めいたことをかけば、どちらかの陣営がゲーム内の規範の根本的な書き換え(述語の書き換え)を行わない限り、この外来魚問題という言語ゲームに終わりはないようにみえる。まあこんなことは別に言語ゲーム論を借りなくてもいえることでもあるのだが・・・(笑)。余談になるが、この駆除vs擁護という構図は、互いの存在を前提としたゲーム、つまり最初から論争ゲームを受けて立つ意図が双方にあったからこそ発生したともいえるかもしれない(実際に戦っているのは一部だろうけどね)。外来魚問題というフレームの中では両者は夫婦である。これを解消するには調停を受け入れ仲直りするか、離婚することしかない。しかしシーニュがシニフィアンとシニフィエのそれぞれ互いの存在を前提としているかのごとく、仲直りも離婚も無理かもしれない。余談終わり。

話は戻る。第2章でみたように、根本的には変えられないとしても、加筆/修正という作業の可能性に対しては開かれていると指摘しておこう。

となれば、外来魚問題の解決のゴール(目標)を引き下げるのであれば、まだまだ私の立場はありそうである。それは、対立は避けられないが、不要な対立は防ぎ、問題の見通しをスッキリさせるという営みになるのかもしれない。それは可能である。それには修正という作業を積み重ねていくしかない。そしてそれは、ゲームの外側から「今我々はこういう点で対立してるよね」という事実モードによる確認作業になるであろう。だから補論・バス問題の解決に向けての一考察の結論は、間違っているわけではない。

ここで個人的な動機を少しいわせてもらうと、前にも書いたように、私のやっていることの背景には、バス釣りの敗戦処理というべきか、過去この釣りにはまっていたものとしての責務の感みたいなものがあるのだ。*8


■複言語ゲームの終点はあるのか

では一般に、お互い規範の違う二つの言語ゲームが衝突したときに、解はあるのか?実はあるのである。え?まさか?。異なった規範に従う両者が出会ったとき、例えばそれが、ルールAが正しいとする言語ゲーム、ルールBが正しいとする言語ゲームの両者であった場合、ルールAからも、Bからもどちらが正しいかは決定されえない。ではこのような場合どうするのか。通常はメタルールを採用するのである。ただし、それは元のどちらのルールでもない新しいルールである。これを両者が新たなルールとして採用するほかない。そのことは「法」というものの原始的現れでもある*9

ということは、新しいルール(規範)作りができるかどうかが、この問題の一つの解法となりうる。さてそれはいかにして可能か。一つだけ方向めいたことを書いておこう。それは現在の「外来魚問題」という言語ゲームの枠組みから脱出することである(図-2の破棄)。現在のゲームの性質では上で検討したように根本的解決は難しい。「目標というサークルに外来魚を入れるか入れないかの判断ゲーム」ではなくて、「目標というサークルを外来魚問題の解決とし、そこへ向けてどのようなルール作成が可能か検討するゲーム」へと別のゲームを営むことが必要である。

さてここで私の能力も限界状況(byヤスパース)のようである(笑)。ここでやっと議論は端緒に付いたばかりである。先は長い。もっと長生きしなくては。最後に一つだけヒントめいたことをかけば、これはこれは価値観の違う者同士、是非共同作業で作っていければいいのになと願望のようなことを書いておこう。いや、是非そうすべきだ。なぜなら人間は過去そのような状況の時につぶし合い(戦争)もしてきたが、対立を回避し、問題なく社会を運営していく知恵も発達させてきたのだから。できないことはないはずである。

ちょっと最後は力尽きてしまったが(^^;)、また多分色々改訂はしていくと思います。今後のお楽しみということで。ではさらばだ。

 


*1一昨年から昨年にかけて、野矢茂樹著「『論理哲学論考』を読む」哲学書房と同じく野矢茂樹が翻訳したウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」岩波文庫版があいついで出版された。直接今回の議論とは関係ないが、これを再び読んだことで、ウィトゲンシュタイン熱?が再開し、橋爪大三郎氏の著書「言語ゲームと社会理論」勁草書房、「「心」はあるか」筑摩書房、「人間にとって法とは何か」PHP研究所等々を新たに購入したり、読み直したりしたのである。今回書くことはそこからヒントを得ている。ただし、あらたな社会理論を構築しようなどという大それたものではなく、ごくごく基本的な部分の確認に過ぎない。そんな仕事する能力ないし。。。

*2これは要するに、唯物論とか、唯幻論とか、唯脳論とかと同じ、唯言語ゲーム論である。では、なぜウィトゲンシュタインは言語ゲームという概念を考え出さなければならなかったのかという話しも説明する必要があろうが、長くなりそうなので割愛する。これはこれで結構おもしろいとだけ書いておこう。

*3ボールの位置、敵味方の区別、味方の位置、動き、自分の位置・・・等々瞬時の事実判断が求められます。

細かい話だが、実は規範モードの記述だから即プレーヤーであるとは単純にいえないのである。なぜなら観察者であってもそのゲームの規範を理解している場合が多いからである。例えばサッカー観戦している、あるチームのファンはどうだろう。「○○しろ」と思ったり、実際に口に出して絶叫したりと(^^;)、命令文を発するのは当たり前である。ただし、それがゲームの内容に影響を与えるかといえばそれは違う。だから規範モードを記述する人には二種類いて、プレーヤーかもしくは、そのファン(一般的にはどういうべきか『シンパ』かな。『自己同一視作用』とでもいおうか。)であるといえる。

*4例えば→「『・・・べき』なのは、別の目的が存在する場合の手段としての価値判断である。さらに補足すれば、害虫の駆除をすれば、収穫率が上がるという経験的事実がその背景にあるわけで、これも自然主義的誤謬なのかといわれれば疑問に感じる。」等

*5この章の考えは私のオリジナルな理解なので、全て(^^;)間違ってるかもしれない。要注意。なぜかといえばこうである。「複言語ゲーム」は、ウィトゲンシュタインだけじゃなくてハートの法理論を取り入れた上での橋爪氏の考えなのだが、このような「二つの規範が対立する複言語ゲーム」における双方の言及関係以外について、例えば私が書いたようなゲームと規範の動的な性質については、明確には書かれていない。というか、二次ルールによって言及されたとしても元の一次ルールへの影響はないと定義されているからである。(たしかに上にみたように述語は不変だが...このへんに関しては脚注9参照)ということは本来なら、ルールではなくてゲームの動態(プレーヤーの動き、フォーメーション、行方、性質、あり方)がその瞬間瞬間に更新されると捉え直した方がよいのかもしれない。あるいは、元の一次ルールはもっと単純でなおかつ不可視というか取り出しにくいものであって、変わったようにみえるのは二次ルールだけなのかもしれない。このあたりの見極めについて自信がないのだ(^^;)。

もっとも、これいっちゃおしまいなような気がするのだが(^^;)(^^;)、じつはこの手の論争ゲームでは、無意識的(半ば?意識的)に、元々両言語ゲーム内にあった規範なんかどうでもよくなってしまい、最終的には双方「相手をやっつけろ」という規範に遷移してしまうせいだともいえるかもしれない。これなら、たしかにどのような言及(戦い)になろうともルール(『相手をやっつけろ』)は不変であるし、〈複言語ゲーム〉における、ゲームと規範に関しての動的な性質について、一応言語ゲーム定義上の決着?というかほころびを回避できるような気がする。でもこれって弥縫策(びほうさく)かもしれん・・・。

さて、これは一つのモデル提案だが(当然正解だとはいわない)、二つの相反するモノがぶつかることで、なんらかの運動が起こっているのは確かなのだろう。それはたとえていえば、太極マークがぐるぐる回転しているような、あるいは回転軸(衝突点)を中心に遊星ギヤが回っているようなイメージのようにすれば理解しやすいかも知れない。

この対立型複言語ゲームをモデル化すると、

  1. ゲームA、ゲームBはルールが対立する(相反している→融合しない)。
  2. ゲームA、ゲームB共に自己言及できない(自己不可視である)。
  3. ゲームAはゲームBに、ゲームBはゲームAに言及する(二次ルール→一次ルールの関係)
  4. 言及された場合のみ各ゲームは自己可視が可能となり、ゲームAはゲームA'に、ゲームBはゲームB'に遷移する。
  5. 以後1.〜4.を繰り返すと、ゲームA'→A''→A'''→A''''→・・・、ゲームB'→B''→B'''→B''''→・・・の状態が続く。

これが遊星ギヤメタファーのモデルである(強引につくってみますた)。

そこから出てくるものは新しい姿なのか、エネルギーなのか、単なる軋み音なのかはわからない。ただこれはいえるかもしれない。論争が進むにつれ、両者の論理が「ループぐるぐる」になることは十分ありえる(というかいつもそんな気がするが(^^;))。これは、上記のモデルでいえば、A→A'→A''→・・・An→Aと表現できる(かも)。逆にますます精密になっていくことも時にはあるかもしれない。これはプレーヤーの資質に負うと思われる。

さて、上記のようなぐるぐる膠着状態に関して、こんな言葉を引用しておこう。「考えてみれば、複数の異質なものが相互に攻撃しあいながらも共存していくというこのような状態こそが、『エコロジカル』と呼ばれるにふさわしいはずだ。エコロジー問題を思考するためには、思考それ自体がエコロジカルな状態に置かれていなければならないのである。」(「社会学のおしえ」馬場靖雄/ナカニシヤ出版p.162-)・・・議論がループするのは、まさにそれがエコロジカルである証拠なのだ・・・?

さらにゲームはどんどん続く。実はこの「(元々日本にいなかった魚)Xはいるべきでない。」だけでは、何を守るためなのかが不明であるので、その質問でもよい(いや議論の文脈上わかるか(^^;)、だから議論の文脈を正確に把握しているかどうかという問いになるかもね)。あと、元々日本にいなかった魚とは歴史上いつの時点まで遡るのかとか。これらは実際に色々な掲示板等で行われているやりとりの追認に過ぎないのだが・・・(^^;。

で、ここからは余談というか蛇足である。真の擁護論というものが存在するとすれば、バス釣りという言語ゲームを「社会法則」として記述に成功できるかどうかにかかってくると思われる。例えば、米国や旧ソビエト政権末期における禁酒法が何故失敗したか。社会法則に人間が命令しても失敗するというテーゼをそこに確認しなくてはならない。ここに難問がある。一般的なことをいえば、道徳や法がいくら規制したとしても、悪の問題は片づかない。むしろ善悪を判断する境界線を悪側に拡張することで、悪に吹きこぼれる人間を少なくしようとしてきたのが近代の知恵ではなかったのか?

*6「認めない」---これだけでも実は細かい検討が必要となってくる。外来魚が存在しては駄目という言説と外来魚の影響があっては駄目という話は相当レベルの開きがある。「外来魚完全駆除」という話なら当然存在自体許されないのだろう。またこのせめぎ合いは戦いというよりも、説得ゲームであるとも記述できる。

そして、駆除派、擁護派と私は単純に今回二分したが、この両派にも細かい区分が実際にはある。例えば駆除派には、自然保護の系統、漁業従事者等経済的価値の側面、それにバックアップされた行政組織、バスアングラーを排除したい他の遊魚者等様々な価値判断の言説がある。同時に擁護派には、バスアングラー、競技団体、釣り具業界、釣りマスコミ、駆除論否定をする成り行き上擁護派的言説に組みする者、等の存在が考えられる。全ての価値観の相違について検討することは、必要なことと思われるが、煩瑣になるため割愛した。

いまさらながらであるが、移入種問題のなかでブラックバスに関してなぜこのように揉めるのかといえば、ブラックバスが不要であるという駆除派(あるいはバス批判派)という言語ゲームと、ブラックバスの価値が実体化したバスアングラーの言語ゲームの二陣営が日本にはあり、さらに両者共にある程度の人数がいるからである。趣味のレベルではなく、それで生活している人もいるのだ。

*7これをルール環(rule-ring)と呼ぶ。定義;いく人かの人々がルールに従いながらあるゲームを営んでいるとき、そこにルール環が成立しているという。「言語ゲームと社会理論」p.128

*8ここでは詳しく述べなかったが、論争とはつぶし合いのような面があることも確か。相手陣営のミスや少しの誤謬をことさら大きく捉えて喧伝するというやり方は、まあどこでもみられるものだ。人格否定とか、レッテル張りとかもね。それが全て間違いだとも私は思ってない。反証には耐えなきゃいけないし、嘘偽りは相手をしなきゃいいこと。また例え誤謬があったとして、それがどの程度の影響に留まるのかも冷静に検討しなくちゃいけない。そして間違いを認める勇気を持とう。

*9「法とは強制力を伴ったルールである。」橋爪

本文とは違って、同じルールでゲームをしている者同士が判断でもめる場合、一番簡単な方法は、ジャッジ(審判)を導入することである。判定が二者間で出来ない場合、ルールを改変し、両者ジャッジに従うというルールを新たにつけ加えればよいのだ。これが司法の原始的な姿である。(これを裁定のルールという)。

今回法理論的な話までは踏み込まないが、これも言語ゲームという視点からハートの法理論をもとに面白い考察を橋爪氏がおこなっているので興味のある方は以下の書籍を参考にしてほしい。

ハートの法理論については「言語ゲームと社会理論」第2章以降及び、「人間にとって法とは何か」p.43以降を参照のこと。法理学者のハート(H.L.A.Hart 1907-1992)がウィトゲンシュタインの言語ゲームを裏返してモデル化したものをとりあえず「ハートの法理論」と呼ぼう。それは端的に云えば、「法とは一次ルールと二次ルールの結合である」=「法とは一次ルールに基づく言語ゲームと二次ルールに基づく言語ゲームの結合である」となる。

超いいかげんでおおざっぱな要約をしてしまうと、法とは自然発生的に社会がもっている一次ルール(責務のルール:簡単に云えば、誰に責任があるのかを追及する言語ゲームのルール)に対し、二次ルール(承認のルール、変更のルール、裁定のルール)が言及するという結合関係のことである。

  1. ルールと(言語)ゲームとは(ちょうど裏腹に)対応すること。
  2. 一次ルールと二次ルールを結合させるのは、言及関係であること。
  3. 一次ルール/二次ルールの区別は、相対的であること。
  4. 一次ルールは二次ルールの中で、ようやく可視的になること。
  5. "一次ルールと二次ルールの結合"とは、法を1.〜4.のような複言語ゲームとして捉えることを意味すること。

「言語ゲームと社会理論」p.87


断章的その他書き残しなど。。。


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2004.01/21作成

2004.02/07修正

2004.09/03リンク等修正