「釣りバカお悩み相談室(仮称)」で、「外来魚問題に関しては(中略)もう書き足そうとは思わないのである。」と書いた手前、この件については触れまいとも思ったのだが、色々と考えさせられることが多いのでひとことふたこと書いておきたい。
1 今どのような事態なのか
平成14年10月16日に滋賀県議会が可決した「議第118号 滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」の中に以下の条項がある。「第18条 琵琶湖におけるレジャー活動として魚類を採捕する者は、外来魚(ブルーギル、オオクチバスその他の規則で定める魚類をいう。)を採捕したときは、これを琵琶湖に放流してはならない。」この条例を議会に通す前に、県は書面、ファクシミリ、Eメール等でパブリックコメントを募集したところ、バスアングラーから多数の意見が寄せられた。詳しくはhttp://www.pref.shiga.jp/public/tekisei-riyo/を参照のこと。大多数の意見はリリース禁止反対だったようだ。この間にボート組合から県の水産課が行っている外来魚駆除作業に在来魚が相当数含まれ水増しされているのではないかという住民監査請求が出たり、日釣振から公開質問状が出たりした。そしてついに、条例可決後、タレント清水国明らが滋賀県を被告として「オオクチバス再放流禁止義務不存在確認等請求事件」なる行政訴訟まで起こすという事態になっている。
2 これは戦いか?
清水らの訴状はなかなか興味深い。訴状はhttp://www.ririkin.net/sojyou_index.htmlで読むことが出来る。(しかし訴状って文語調で「といふ」とか「行つてゐる」とか「それゆゑ」とか書かないといけないのかねえ。という問題はさておき。)私は、清水国明はよくやったと思う。と書くとちょっと誤解がありそうだ。これは清水らの主張に私が賛同しているという意味ではない(むしろ逆だ・・・余談だけど私は中学生の時に彼に握手してもらったことがある。だからどうなのだ!)。この問題に関して司法の判断を仰ぐという手段に打って出たことは、バス擁護派、駆除派両者にとって(そして私のようなマイナーな興味派〔調定派〕というかウォッチャーにとっても)非常に意義のあることだと思うからだ。訴状内容の適宜等判断は私ごとき素人にはどうのこうの述べる資格はないので、以下興味があるポイントだけ述べる。(原告不適格なんて門前払いにならず、きちんと裁判が行われるという前提で)
3 変な条例。あるいは条例の抜け穴を杞憂してみる?
条例を良く読めば、レジャー以外の目的で外来魚を採捕するときは放流してもかまわないということになる。漁業従事者が業務上捕らえたものや、職業的釣り人=バスプロがトーナメントで釣ったものもそうなってしまう。研究者が研究目的の場合もそうなるのだろう。それなら研究者の命によってバスアングラーが資源調査のためタグ&リリースをするという場合はどうなるのだろうか。これって抜け穴になってしまうかもしれない。政治的プロテストの手段として擁護派の某財団なんかが企画してしまいそうだなあ。ただ、そこまでして実際に琵琶湖で釣りをしたいというアングラーがいるかどうかだけどね。
4 リリースしてしまうというバス釣りのルールについて
以前も書いたけど、日本のバス釣りがキャッチ・アンド・リリースというルールを実態として採用していることは、バス釣りの内在的ルールであり、法令など外在的要請によって「はいそうですか」と簡単に変わるものではない。
むろんスポーツ競技のようにルールブックがあるわけではない(まあトーナメントには厳しいレギュレーションがありますが)。しかし「どうして釣ったらキープできないのか?食わないのか?」という、この釣りをしない人から発せられる一般的な疑問にきちんと答えられるバスアングラーは意外と少ない。リリースは(欧米流だとか、生命尊重だとか個別には理由が様々あるだろうが)究極は、それがバス釣りの自己保存システムであり自己目的であることに無自覚なアングラーが多いためだろう。構造的に云えばリリースする根拠は、バス釣りがそれ自身の存続を再放流に負うという、循環システムを採用している点にある。機能的に云えばルールとして、作法として、リリースがバス釣りの「世間」となっているからである。そして彼らの間でそれは共有され、それ以外の釣り方を排除しているからである。いいすぎかも知れないが、彼らはリリースしたいがためにバスを釣っているような、リリースが目的化しているような側面さえある。擬似的恋愛とまでは云わないが、リリースすることによって(人間の一方的な片思いだが、)バスという魚に親和性を感じている(心を奪われている/依存している)バスアングラーは多い。
図式的に書けば、リリースする→親和性が生まれる→親和性故リリースする→さらに親和性を生むという循環を経る。さらにそれは魚を釣ったという快楽とともに脳に強く記憶される。結果、アングラーの心理の中で魚への親和性はリリースを前提とした関係性の中で結実し、結束が固定され保管されるのである。
したがってリリースは不可思議な習慣であるとか、日本の風土に合わないとかの批判は的はずれとなる。また、ルアーで傷つけるくせにバスが好きだというのはおかしいとか、釣った魚は食べることが供養になる、生命を奪うことが生命の大切さを学ぶよい機会であるなどという批判は彼らには馬耳東風であろう。
だから、滋賀県の提示するリリース禁止という「琵琶湖ルール」は釣り禁止に等しいとバスアングラーは思うのである。ただこれは今後も未来永劫そうなのかといえばわからない。現在「琵琶湖ルール」を内在化したアングラーはほとんどいないが、将来生まれてくる可能性も捨てきれない。琵琶湖のバスを釣って食いたいから釣るのだという内的動機付けをもったアングラーが現れる可能性がないわけではない。これから琵琶湖でバス釣りをはじめるという人たちの間にそれは生まれる可能性がある。ただし少数派だと思うけどねえ。理由は下の方に書く。
5 そして...延べ70万人の琵琶湖バスアングラーよどこへ行く
滋賀県フィッシングボート協同組合のアンケートによればリリ禁が決定されれば70%の人は琵琶湖へは来ないと答えたそうである。http://www.biwako-boat.net/index.htm彼らはどこへ行くのだろうか。他の釣りに転向する割合も多少あると思うが、近辺の釣り場へ釣り場難民が沢山出現することだろう。戦々恐々としている周辺自治体も多いのでは無かろうか。ということは環境問題以前に、マナー問題やアングラーのキャパがらみのバス問題が周辺に飛び火し、「琵琶湖ルール」の連鎖という事態もありうるかもしれない。その前にここ数年しぼみかけているバス釣りは、琵琶湖リリ禁が拍車をかけ、それを趣味とする人口がさらに激減するかもしれない。これはわからない。
6 対決から生まれるものは何か
私は外来魚の生態系への負荷はあると考えている。定量的にははっきりわからないが、定性的にはそれは明らかだと考えているからである。だが、正しいことを押し進めることが好ましい結果になるとは限らないとも思っている。以前からそのような立場で色々書いてきた。
滋賀県と琵琶湖に依存するバスアングラーの間において、両者の対決を回避する試行は検討されなかったのだろうか。両者が行うべきだったことは(もう遅いが)、同じテーブルに付き、どうすれば両者が歩み寄れるかを検討するべきであった。あるいはバスアングラーが自発的に外来魚資源減少に協力できる筋道つけるための探求、あるいはソフトウェアを開発すべきだったのである。例えば空間的ゾーニングはできないということであれば、時間的なゾーニングという考えを導入したってよかったはずである。隔週でリリース禁止の週を設けるとか、春から初夏にかけての駆除効果が高いと思われる産卵時期だけリリース禁止にするとかである。トーナメントに関しても、県が主催あるいは共催し、捕獲されたバスは県が高額で買い取り、多く釣ったアングラーは知事が表彰するとか(笑)、ブルーギルを対象とした駆除目的のトーナメントを県とバス釣り団体が共催するとか、私が適当に今思いつくだけでも沢山のやり方がある。
外来魚釣りに関する「琵琶湖ルール」は県が一方的に決めるのではなく少なくとも両者で決めるチャンスがあったはずである。であるのにそれをしなかったということは両者にとって残念なことである。バスアングラーに対して内発的動機付けを促す努力を怠ったことは後々まで尾を引く恐れがある。というかそれは県は最初から頭になかったことなのかも知れないけれど。
県議会でも反対票はなかったと聞く。これは結局バスアングラーの主張に真摯に耳を傾ける議員はいたかもしれないが、条例案を覆すほどの判断に至らなかったということであり、そもそも政治的影響を与えるほどのマスとしてのバスアングラーの数がいなかった、つまり有権者の多くはバスのことなど気にかけてないか、駆除すべき外来種、生態系を撹乱する悪者ぐらいにしか思っていなかったということをそれは表しているのだ。琵琶湖の生態系は外来魚の影響によって、まったなしの危機的状況という判断が下され、バスアングラーの言い分をくんでくれる余地は残されていなかったのだ。
で、どうなったのかといえば清水らの行政訴訟である。(日本釣振興会会長の麻生太郎衆院議員が説明に来た国松知事を門前払いしたという話もあったそうだが・・・。)今後もしばらくはこの「対決」が続くだろう。リリース禁止止対象であるブルーギルを琵琶湖に放したのはそもそも滋賀県ではないか、それを釣り人のリリースという行為に狙いを定めた規制を行うのはおかしいではないかという批判はたしかに正しい。食べる目的も持って帰って飼育する目的も持っていない釣り人に外来魚をリリースするなという命令は、そのような目的を持っていない釣り人の排除にしか繋がらない。滋賀県が今後行うべきことは、そのような目的を持った釣り人を沢山育てることである。だがそれは可能なのだろうか。望み薄だと思う。釣りは釣り自身が自己目的化しないとつまらないからである。(もう少し詳しく書けば、釣りによってもたらされる"釣り固有の快楽"を得るために釣りは行われている。)環境のため、あるいは駆除のためという別の目的で釣りをすることは釣りの手段化である。
こんな例え話をしてみよう。ギャンブルで得た金は次の勝負につぎ込むのがギャンブラーである。ギャンブルはそれ固有の快楽を得るために行っているのである。ギャンブラーは金儲けのためにギャンブルを継続しているのではない。それと同じである。もう少し余計なことを書けば、リリ禁とは、ギャンブラーに対し、儲けた金はギャンブルに再投資するなと命じているのに近い。(ん?ちょっと苦しいかな。)
7 結語?
今のところ結論はない。清水らの行政訴訟がどのような結果になるのかの推移を見定める必要があるとしか書けない。一つだけ心配することを結論に換えて書いておきたい。これは清水らの訴状にもある言葉だが、「再放流を続けようとする原告らの釣り人としての自己決定権が否定され、思想的信条及び宗教的信念とその自由をも侵害され続ける」ということは、つまりこれは(うがった見方であるという批判があることは重々承知の上であえて書くけど)釣りとは、その快楽に依存している人にとっては、教義なき、教祖なき宗教的/思想的側面があると捉えた方がわかりやすいことを示しているように思う。過去の歴史において、特定の宗教/思想に対して圧力を掛けたらどうなったかということを思い出すべきだろう。そして宗教の本質は、やすらぎや正しさにあるのではない。狂信とパトスである(釣りもまったく同じだとはいわないが)。さらに様式を失ったアグレッションはどこかに別の形で噴き出すだろうというのが99年に私が杞憂したことであり、以上のことに繋がるのだ。
だからこの問題解決の本質は、狂信とパトスを解除することに向かうべきであったのかもしれない。しかしそれは、憲法を持ち出すまでもなくその自由は保証されるべきことであり、出来ない約束事である。
でも、まあなんというか「少しはがまんしなさい。」とバスアングラーを説得できる好人物はどこかにいないものだろうか。これが一番の不幸なのかもしれない。釣り人は罪のないエピキュリアンであるとしてもだ、それがいつでもどこでもその快楽が享受できるわけではないこと位は今後は織り込むべきではないか。
バスアングラーのリリースを前提としたバスへの親和性を解きほぐすには、何が必要か。これは結局はその親和性以上の親和性を琵琶湖の自然や生態系に向けてもらうしかない。そのためにはバスアングラーの再教育が必要なのかどうか、私にはよく分からない。
以上'02.11/09記す
ここからは思いつきの話。ルサンチマンは社会化する。滋賀県がこれから行うべきことは、ルサンチマンが社会化することを防ぐ手だてを構築することである。なんでこんなことを書いているのかというと、「宗教の力」山折哲雄/PHP新書をぱらぱらとめくっていて、それに気づいたからである。思い切り要約すると(詳しくは同書p.72あたりを参照のこと。)、「古来日本ではルサンチマンが社会化することを避けてきた。そのためにそれぞれの時代の政治家は様々な装置をつくってきた。その代表的なものが神社である。」
うむ。ということは外来魚の鎮魂を行うことが日本の文化にのっとった「正当な?」処方になるのではないか。神社は法律上無理だとして、「琵琶湖ルール」の提示だけでは不足していることは確かであり、それになりかわる何らかの装置が必要である。
と、書いてはみたが、そんなことはしないんだろうなあ。
以上'02.11/19記す