---冷静な議論をするためのたたき台---
ブラックバスを巡る「外来魚問題」に関心を持ち、なおかつwebをブラウズできる者であれば、大抵「ゼゼラノート」の存在を知っているであろう。ここに載る情報は(特に滋賀県の琵琶湖での外来魚再放流禁止条例に関連する情報であるが)非常に網羅的でかつ資料的に役立つものが多い。私もちょくちょく覗かせてもらっていることをここに白状しておきたい。この本は上記ゼゼラノートのwebマスターであるゼゼラ氏こと青柳純氏の著書である。この本を読む前にまず驚いたことを記しておきたい。私は以前、滋賀県議会筋の一次情報の掲載などから、彼はてっきり、新聞もしくは雑誌記者など、いわゆるマスコミ関係者ではないかと思っていたが違っていた。なんと彼はこの4月まで滋賀県立大学に籍を置く学生だったのである。(http://www.zezera.com/book.html)しかも卒業論文のテーマがこの外来魚問題であり、この著書自体その論文を元に少し手を加えたものだったのである。この本の成り立ち自体相当の皮肉かもしれないが、國松滋賀県知事に対する強烈な皮肉は、あとがきの中でも読むことができる。学問的自由というのは本来こうしたことを云うのかもしれないなどと、私はおじさん的感想をもったのである(笑)。
まあそれは半ば冗談として、内容について少し触れておく。元が卒業論文という学術的構文の体裁を残していることもあり、非常に冷静な筆運びとなっている。そしてこの問題に対する様々な議論の前提となるだけの内容も網羅できており、それだけでもこの本はこの問題に関心を持つ者の必読書の一つとなりうるだろう。また著者の記述は私の関心と重なる部分が非常に多い。たとえば環境倫理学的な人間中心主義と自然中心主義の議論や保存か保全かというテーマなど押さえるべき点はきちんと押さえてある。逆に云えば、私にとっては既知の事柄が多く、新しく勉強になったという箇所はさほどなかったのが残念と云えば残念である。
だが、ブラックバスを巡る諸問題について構図的な整理がコンパクトにまとまっており、「なにが問題なのか」、「どうして問題となっているのか」等について考える手だてとして手元に置いておくべき一級の資料であると評価できる。ひとつだけはっとしたことは、所謂「ゾーニング」の問題点である。外来魚の完全駆除が困難であるならば、ゾーニングという区域分けができたとしても、「外来魚がいるべきでないと決められた水域」であっても、同様に完全駆除は困難であるという事実は消すことは出来ない。考えてみれば至極当たり前の事柄である。地図に色を塗ることは簡単であるが、実際にそれが実現できるかどうかはまた別問題である。費用対効果の面で完全駆除と同様問題があるという指摘はもっともだと思う。
また好感が持てるのは、外来魚は駆除すべきか利用すべきかという設問に対して、あえて結論めいたことを避け、できることからやるべきだという、ある面拍子抜けするけれども良識的(保守的)な結論となっていることである。
とここまでは好意的な評価の部分である。実は細かいことを云えば気になることも少々ある。書名に対応する内容がいささか本書の中では言及不足であるという点が一つ。これは秋月岩魚氏の「ブラックバスがメダカを食う」への返歌であると思えば、よいのかもしれない(^^;)。さらにp.82あたりの判断基準の採用を自然中心主義から人間中心主義へもっていくあたりの議論の進め方にまどろっこしさを感じた。論理は多数決のように多寡できまるわけではない。ここは自然中心主義の矛盾を示しさえすれば良かったのではないか。(後日気がついた他の指摘は最下段にまとめてみたので参照されたし・・・。#)
もう一つが、これが一番ややこしいかもしれないのだが、議論のフレームをどこまで拡げるべきだったかという点である。外来魚の問題は現実的な利益を追求する「釣り」と「漁業」、そして将来的な利益を追求する「生物多様性」の三つの価値観による「3すくみ」の利害対立であると著者は整理をしている。それについては異存はないのだが*1、これはあくまでも現在の事実判断がそのままの状態で将来も固定され、永続することを前提としてなされている。たぶん著者は気がついているのではないかと思われるが、将来的に低リスクでなおかつ低コストに外来魚の駆除が可能な技術革新が行われると仮定すると(これが可能であるかどうかという技術論はとりあえずおいておく)、事実判断が変わりうる。と同時に議論のフレームも変わる可能性がある。つまり一気に問題解決する可能性もある。
馬鹿げた思考実験かもしれないが、可能性としては、その技術を前提として「釣り」と「生物多様性」が連合し、「漁業」と対決するという新たな対立軸(たとえば乱獲批判とか)を引くこともあり得るのだ(p73)*2。たぶん著者はこれらのことに気づいているからこそ「特定の生物を容易に絶滅させる手段を持つということだから(中略)リスクがある(p.86)」と「逃げ」を打ってそれ以上の言及を避けているのかも・・・なんて書くと憶測が過ぎるだろうか。むろん技術的解決は問題解決の一番の特効薬となる場合があるが、当然それに伴うコストとリスクの無視はできない。私もそこは同意する。だが、問題解決の手段として、その技術革新の可能性を探るという選択肢も議論としては残しておく必要があったのではないかと感じた。たしかに不確かなまだ現れていない技術を前提にした議論は無理な面がある。現在使用可能な技術のフレーム内で考えれば著者の主張は優等生的回答であるが、私は無い物ねだりなんだろうかねぇ。
ちょっと書いてることがややこしい気が自分でもするなあ。ちょっと別の云い方をしてみよう。将来において外来魚の除去が技術的に不可能であるという証明は出来ない。可能性としては現在の技術を用いても高リスク高コストを我慢さえすれば(要は納税者や市民が納得すれば)完全駆除まではいかないとしても相当の外来魚資源量の抑制は可能だと考えられるし(まあそれは著者も私も反対する部分ではあるが)、将来低リスクかつ低コストな技術革新が起こることも見据えた議論も、切り捨てずにしておいても良かったのではないか。そういうことである。まあこれはこの本への批判というよりもこの本を前提とした新たな議論としてそれが必要かも知れないという指摘に留めておこう。
以上いろいろ書いたが、なかなかの好著であることは否定しない。この問題に興味のある人に一読をお勧めする。そしてこれは余談だが、実は知りたいのはこのような優等生的テキストの議論ではなく、何がきっかけでこのようなテーマを著者が選択したのか、その背景というか、ストレートに云えば著者の動機や情念(パトス)の部分はいったい何だろうと思っている読者も多いのではないか。もし次回の著作があり得るなら(あるいはwebでもかまわないが)彼のそのような面を知りたいと願う。
「ブラックバスがメダカを食う」への返歌としての本書があったのであればそれは不足している要素である*3。岩魚氏の本があそこまで話題になり、また同時にかなりの反発を受けたのも、それがあるからだと私は思う。またしても無い物ねだりなんだろうか(笑)。
*1.ほんとは『釣り』と表現せず『バス釣り』とするべきだったという批判はあるだろう。
*2.実はバス釣り以外の釣りであれば、このような連合および対立軸は既に存在している。
*3.いや。不足しているから駄目だという意味ではないのよ。当たり前だけど。
#さらに指摘・・・
その後、かなりキツい批判が、徳島県立博物館の佐藤陽一氏から行われた。(「『社会科学』はブラックバス問題を解決できるか―青柳純著「ブラックバスがいじめられるホントの理由」をめぐって―」)これについて、少々考えることをのべようと思う。いや、その前にこのタイミングは遅すぎるような気もするが、すべて私の怠慢です。いいわけをさせて頂ければ、ほんとに最近仕事が異常に忙しくて大変なのである。仕事から帰ると文字通りぐったりしていて、なかなかパソコンに向かう元気が出ないのである。といいながら色々なページは覗いてはおります。でも書き込み等できないんです。筆が遅いのが致命的で、ますます億劫になってます。自分のページの更新が精一杯です。すんません。これは多分考えが先にあって書いているからじゃなくて、私の場合、書きながら考えているからだと思うなあ。なんか言い訳が長くなってしまった。
さて、実はもう既に佐藤陽一氏の前に、瀬能宏氏(神奈川県立 生命の星・地球博物館)の批評もあったし、当のゼゼラ氏から両名への再反論も行われている(http://www.zezera.com/book-shohyo.html、http://www.zezera.com/book-shohyo2.html)。それはそれとして、ここでは、その三名の意見の応酬についてどうだったかに関しては触れない。各自判断した方がよろしいと思うので。
佐藤陽一氏の意見に少々引っ掛かるものがあったので、少々私の思ったことを書かせてもらおうというのが今回の趣旨である。まず反省点から。上記の私の批評はゼゼラ氏に対して好意的過ぎたかもしれない。これについては、もう一つ準備中の雑文があり、それを書くことでその償い?(言い訳?)としたい。といっても、いつ頃それが完成し、アップされるかなどなんにも保証はできません(^^;)。遙か彼方というほどでもないかなという程度である。あんまり期待しないように。
では、相変わらず長い前置きがやっと終わって本文である。佐藤氏は、ゼゼラ本(「ブラックバスがいじめられるホントの理由」)の中の四つの対策「完全駆除、限定的駆除、棲み分け、何もしない」が功利主義の側面から出たものであることを、実は分かっていないか、あるいは無視を決めこんでいるのではないかという疑念である。簡単にいえば、四つの選択肢は、文脈から理解すれば「完全駆除」←→「なにもしない」という両極の間に、棲み分け、限定的駆除の2項目を加え、その四つを対策にかかるコストの順位として並べていると単純に理解すべきではないかと私は思う。それを目的と手段の混同であるという行動計画(プロセス)論から批判してもかみ合わないのである。
補足すると、佐藤氏が反応した限定的駆除という言葉と、ゼゼラ氏が使った限定的駆除の意味合いは、かなり違った概念だと思われる。佐藤氏が使っているのは、「完全駆除」に至るまでのプロセスとしての、「段階的駆除」、つまり手法としても時間的にも限定駆除にならざるをえないことを示している(と私は理解した)。
さらに佐藤氏のいうプロセス論からいえば、「限定的解除」は、完全駆除の手段だけではなく、棲み分けの手段としても使われてもとくにおかしくない、つまり棲み分けの下の階層に入っていても不自然ではないと考えらる。佐藤氏的にはあり得ない前提かも知れないが、国策として棲み分けになったとすれば、やはり何処かの水域での完全駆除、つまりは限定的駆除という手段はとられるはずである。
一方ゼゼラ本の「限定的駆除」は「限定的駆除」できたらそれで終わりで、本音は棲み分け論(ほぼバス公認論)の一種と理解した方が良い。これは佐藤氏も気付いているとおりである。
功利的判断からみれば、「ブラックバスやブルーギルを完全駆除するという目標を掲げたからといって、全国一斉にやるなどという仮定は、常識的に考えてまったくのナンセンスなのである。」という批判も、あまり批判にはなっていないように思われる。確かに上記引用自体はナンセンスだが、完全駆除を全国一斉にやろうが、プロセス主義で漸次粛々と行おうが、短期的(年度的)コストは違うが、超長期的コスト(ライフサイクルコスト)つまりトータルコストが高くつくことは明白だからである。功利的判断が覆されるわけではない。(コストが同額であるかどうかは議論があるだろうが。)
限定的駆除は、佐藤氏も「もっともらしくきこえる」と書いたように、ある程度の功利的な説得性がある。しかし、プロセス的側面から批判をしたとしても、それをひっくり返せない。ここでは、外来魚問題を解決しないと、例えば「現在は計り知れないが、未来から見れば計り知れないような不経済を今被っているという可能性もある。」というような将来もっとコストがかかる可能性があるという「功利的」批判を行うべきではなかったのかと感じる。あるいは功利的判断では、生物多様性は守れないし、日本に残された道は完全駆除しかないのだという政策的判断から批判するべきであったのではないかと思うのである。プロセスとして正しいことが功利的に正しいとは限らないし、逆も同様である。
だから結論めいたことを書けば、外来魚問題の解決にはプロセスとしても優れているし、功利的にも説得性のあるものを目指すべきではないだろうか。要はゼゼラ本的視点と佐藤氏的視点の両方が必要なのだ。どちらか一方を取れという話ではないだろう。
以上が少々引っ掛かった点である。
実はまだ細かいところに気になることもあるのだが、煩瑣なことなので割愛する。「4.人間中心主義が優越したのか?」以下のテキストについては、逆に佐藤氏の言い分に私も概ね同意するものである。最後の「漁業」のくだりなど冷静な判断である。3すくみ構造仮説では肩すかしという主張はもっともだと思われる。ただし、私は佐藤氏のように「ジャンクだった」と切り捨てるつもりはない。いや、むしろ大人の研究者達に強い否定的攻撃をさせるだけのものがあったというだけでも大したものである。
逆にいえば、ブラックバス「擁護派」は極端な人材不足なのである。この悲しい現実を直視する必要は、私が述べないでも誰でも分かることだろう。このままでは実りある議論すらなりたたなくなる可能性がある。頑張れ「擁護派」。「駆除派」もね。
以上2003.7/10記す・7/18修正
2004.09/03修正