外来魚問題を強引に社会的ジレンマとして解いてみるテスト(その1)

 

■1.かなりいいかげんな前書き(その1)

なんか最近疲れることが多くて嫌な気分である。もう歳なんだらうか。これから書こうとしていることも構想開始して既に半年以上は過ぎているのであるが、のっぴきならない状況で、取りかかるまで非常に時間ばかりが過ぎているのである。くたびれてなくて、なおかつ釣りにも出掛けていない(さらにいえば同居人の監視からも自由であること(^^;))というタイミングは、シーズン中そう何度も来るものではない。やっとその日がやってきたようなので、こうしてしこしことキーボードを叩いているのである。ニッポンのサラリーマンよ団結せよ。日本が豊かな国だなんて嘘だね。まったく。

さて、変な前置きで始まってしまったが、今回の外来魚問題に関する雑文は前回の続編のような位置づけである。前回は主にブラックバス「擁護派」vs「駆除派」の対立を言語ゲーム論からどう記述できるか。さらには、問題解決はどのようなルールを採用すればいいのかという概論であった。あれから少しばかり自分に課したルール(というかこれはコミットメントかな)を破り、某掲示板に少々出張ったりしたのであるが、貧しくて忙しいサラリーマンで、かつ筆の遅い私にはやはり議論を追いかける能力に問題があり、趣味の釣りも始まったりしてすっかり離れてしまったのである。(zebraさんすんません。)しかし、忙しいながらも横目で色々な場所はとりあえず眺めてはいたのであるが・・・。

うーん。相変わらず議論はループしてるでつね。。。まあそれはしかたがないとして、どうして問題解決へ向かわないのだろうという謎に関してからの記述から始めてみよう。結論から書いてしまうが、これは困難だからである。前にも書いたように「擁護派」と「駆除派」の規範がまったく逆なのだ。ただしそれは議論の場に於いて。例えば、現実的には滋賀県他で採用されたようにリリ禁など法令による「強制」は、同じ形や別の形をとりながらも今後も続くだろう。行政サイドが行える手段はそれ以外あまりないのが現状だからである。それが問題解決といえるのかといえば色々と議論があるだろう。問題解決のゴールをどこに設定するかによって違ってくる。この件に関して、私の立場は微妙である。できうれば、「擁護派」、「駆除派」両者スッキリと納得できる解決策はないものかという困難さに私の興味が向かっているためである。イソップのコウモリのごとく、両者から嫌われる可能性もいとわず、ひょっとしたら馬鹿なことを私はずっとやっているのかもしれない。

 

■2.ナショナルトラストみたいな運動はどうよ(これも前置きその2)

さて、この私の微妙な立場の唯一の利点は、両言語ゲームを外部的な視点で眺められるという点である(両者がそれができないという意味ではない。その傾向が強いかもしれないという程度の差だけだろう。たぶん。)。だからあんまり他の人の書かないことが少しだけ書けるのかもしれない。ここで一つ変わった視点を導入してみよう。英国で始まったナショナルトラストである。ナショナルトラストとは、極端に簡略化して申し訳ないが、ある特定の市民が守りたい環境を行政にまかせずに、賛同者を募って買い取り、保全するだけでなく運営もしてゆく運動だ。別に対象は自然環境だけに留まらない。鉄道であったり、建造物であったりもする。

なぜこんなものを持ち出したのかといえば、(日本にもナショナルトラストはあるという事実は当然知ってますが)環境保護の仕事は行政の仕事であるという認識に凝り固まっていては、弊害が多いのではないかと思うからである。そこに我々の選択という行為が入り込めないからである。絶滅危惧種を守るのは我々の総意なのか?タイワンザルを撲滅するのは県民の総意か?ヤンバルの森で野良猫を駆除するのは・・・以下省略。外来魚問題についてもそうなのだ。行政がある環境保護政策を決定することはすなわち、それが国民、市民の総意であるわけではない。政治的判断であり、妥協の産物なのである。「外来種対策は我々の総意となりつつあるのは間違いのない事実である。」といってしまうのは、ホーリズムになりかねない懸念がある。もっといえば、我々には行政がこう決定を下したからという「水戸黄門の印籠」を期待する傾向が強すぎるのかもしれない。

これに対して、ナショナルトラストの良いところは、そういったホーリズムに陥らずに市民の選択権が確保できるところにある。守りたくもない生物や建造物にまで税金を払う必要はない。それは守りたい人達が守ればよいのである。タックスペイヤーとしてどちらが良いのか、ひとつ冷静な諸氏は考えてみて頂きたい。当然ナショナルトラストが最適のシステムであるなんて云ってるわけではない。国民は愚かで蒙昧だから、まかせていてはとんでもないことになるというのは、ある面真理かもしれないからだ。(このあたりの議論はリバタリアンの研究なんか読むと参考になると思う。)

しかし、例えば外来種に関するパブコメ募集に関しての両者の思惑というか戦略を外部から眺めさせて頂くと、お寒い状況を感じるのである。なんとか自分たちの意見を聞いてもらおうというところで止まっているだけで、そこには自分たちでできることは自分たちで解決しようという自立的な気概が感じられないのである。いや、そんなことは瑣末なことで、我々のメンタリティなのかどうか分からないのだが、上からの命令を待っている状態、例えば「殿、ご英断を。」とか、「社長、ご命令を。」とか、判断を自分でしないくせに、催促だけは行う無責任な体質が根底にはあるのではないか。何故自らの責任において動こうとしないのだろうか・・・ああ、なんか書いてて三流文士のような気がして鬱。行政は第一義にはパブリックサーバントであって、ある法律や規則に空白地が有った場合、さきに動いたもの勝ちなのである。行政は後追いで判断するしかないのである。では何でバス擁護派が動けないのかと云えば、上記のメンタリティもあるけれど、それは「擁護派」の要望(目標)が最終的には「現状維持」だからではないかという気もする。でもそれではもう駄目なのだ。

本来ならば、いや、これは単なる甘ちゃん理想論かもしれないのだが、「擁護派」、「駆除派」の信頼関係(相互協力関係)確立は無理としても、法令等の決定主体である行政を含めた三者での利害調整は、公式、非公式問わず、頻繁に何度も行って欲しいと思うのだ。例え喧嘩別れになることが最初から分かっていようとも。喧嘩をすればよいのだ。じゃんじゃん。喧嘩をしつつも何度も顔を合わせている内に、信頼関係とは違うけれども何らかの繋がりがそこに発生してくるはずなのだ。「敵ながらあっぱれ」という言葉を持っている我々のココロザシに少しだけ私は期待しているのである。やっぱり甘いのかなぁ。

それでは、本論に入ろう。今回は我々の信頼関係(敵対関係)はどう築かれているのか。そして私益と公益が捻れた場合、学問的にはどんなメカニズムでそれを説明するのかといった辺りから、外来魚の問題を解決するヒントが何かあるのではないかという前提で、社会的ジレンマについて取り上げ、少し考えてみたい。

 

■3.社会的ジレンマからのヒント

環境問題でも受益者と被害者が分離している場合は、社会的ジレンマではないという学説もあるようだが、ここではそんな詳細な検討は行わない。社会的ジレンマを定義するとこうなる。「個人が合理的行動をとると社会的に望ましくない状態が生まれる」逆に云えば、「個人にとっては不合理な社会的協力行動をとれば、構成員全員にとって望ましい結果が与えられる状況」http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1184である。これは例えば、「共有地の悲劇」http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/game_kyoyu.htmlにそれが端的に現れている。

外来種問題、特にブラックバスを巡る諸問題は、はたして社会的ジレンマとして記述できるだろうか。結論から書けば、厳密にはできないかもしれないが、社会的ジレンマを解く手法はこの問題を解くヒントになりうるというのが私の考えである。

ブラックバスを巡る諸問題(以下、これを簡単に「バス問題」とする)は、これをある種の環境問題と単純に捉えれば、つまり「ブラックバスの存在が生物多様性の喪失=社会全体の不利益を招く」という立場から見れば、社会的ジレンマに近いものとして記述可能であろう。ただし、共有地の悲劇のように、だれしもが個人的利益(合理的行動)のためにブラックバスの存在を許容したり、川や池に放すわけでもない。(社会的トラップという概念で捉えた方がよりすっきりするかもしれない。)だから、「まっとうな」社会的ジレンマといえるのか私には自信がないのである・・・。まあ定義の問題で時間をとっていたら大変なのでここらへんでやめて先を急ぐのだ(^^;)。(優秀なお方、フォローおながいします。)

 

■4.協力行動vs非協力行動〜〜山岸俊男「社会的ジレンマ」超訳作業開始!

社会的ジレンマは、個人レベルでいえば協力行動よりも非協力行動をとったほうが合理的(利益大)であるが、集団全体からいえば不合理(利益小)で均衡状態となる。けれども全員が協力行動をとれば、あきらかにそれより望ましい状況となる。バス問題を「駆除派」からみれば、バスを駆除しないバスアングラーは非協力者である。(逆に「擁護派」から見れば、「駆除派」の言動こそ非協力者となる。)

実は社会的ジレンマは社会心理学において、人間が社会的動物としていかに適応(進化)してきたのかを明らかにするために頻繁に取り上げられるテーマである。ときには「まじかよ?」という眉唾的な話も出てくるのであるが、非常に興味深い新しい学問である。その概略に触れるには山岸俊男「社会的ジレンマ」PHP新書なんかお勧めである。

例えば、山岸氏によれば、人間は社会的ジレンマの状況を察知し、それを解決するための無意識の知(暗黙知のようなもの)があると指摘する。それが例えば4枚カード問題http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/psych_cards4.htmlであったりするのだ。裏切り者(非協力者)をさがすモジュールが脳内にはある(らしい)のだ。

では、以下ざざっと山岸氏の論を追いながら書いて行こう。(前掲書を読んでいる人や、社会的ジレンマについてよくご存じの方は以下5章から11章まで読む必要なしです。)

 

■5.社会的ジレンマはモラリズムでは解決できない

伝統社会と違い、我々の社会では人々の行動を監視するのに莫大なコストがかかる。法や社会的圧力も限界がある。モラルを成員に教育しても、教育の効果にはばらつきがあり、教育の効果が現れた「愛他的協力者」が、教育の効果がなかった「利己主義的非協力者」に屠られるからである。

そんじゃ社会的ジレンマって解けないじゃん!そうなのである。合理的行動(非協力)を非合理的行動(協力)になんらかの方法で変えない限りは。ここで社会心理学は面白い考察を提示する。「自分の利益を考えて、表面的には他人のためになるような行動」=「えびで鯛の原理」(by山岸)つまり、偽善的行動が社会的ジレンマを解決する場合があることを示すのだ。この中の一つが「応報戦略」=「協力には協力を、非協力には非協力を返す」というやり方である。バス問題に引き付けて云えば、「えびで鯛の原理」はバスアングラーによるゴミ拾い運動なんかがそうだろう。口の悪い人に「偽善者」呼ばわりされているが、ちゃんと理由があったのである。「非協力には非協力を」はweb上の掲示板での応酬か(^^;)。

「応報戦略」の面白いところは、相手に協力行動を促す作用があるところだ。得た利益の多寡による生き残りゲームをシミュレーションした実験では、例えば、全ての構成員がどんな場合でも絶対に協力しない筋金入りの利己主義者たちの集団に、「応報戦略」を行う個体が少数入っただけでも「応報戦略」の集団に変わることが示されている。逆に全ての構成員が「応報戦略」を行っている集団に「筋金入りの利己主義者」が入っても、やがて淘汰されることが知られている。(ただし、集団内に入り込む数の割合によって[つまり初期値の差]によって非常に時間の掛かり具合[世代数]に差が出そうだが・・・。)つまり、進化論的視点からみれば、「偽善的である応報戦略」は非常に適応的だったということだ。

ここで重要なのは、やはりモラリズムではないという点である。性悪説で出発しようが、性善説的行為に至ることを説明できるからである。ここでの仮の結論は、「人々が利己的に行動すると人々がお互いに他人の利益になる行動をとるような『しくみ』を導入するという方法」(「社会的ジレンマ」p.72)をとれば社会的ジレンマは一応解決に向かいそうであるという方向が見えてくるのである。(なお、これを「インセンティブ適合性」と呼ぶ。)

※実は「琵琶湖リリ禁脱力的解決法」はこのあたりのことをヒントに書いたのであった。

 

■6.ところが現代社会ではインセンティブ適合性も限界があるのだった

ところで、なぜ現代社会では社会的ジレンマが起こりやすいのか(あるいは解決しにくいのか)。色々と理由があるが、端的には二つである。一点目は、伝統社会から流動社会(現代社会)への移行である。社会の流動性が起こり、コミュニティからの個人の離脱が起こったことにより、強制的協力関係が喪失されたためである。図式的に云えば個人の所属が、たった一つのコミュニティ、つまり単一円から複数のコミュニティつまり複数円に移行したことが原因である。一つのコミュニティで非協力行動をとっても、他のコミュニティではその影響を受けずに生きて行けることが可能となったからである。二点目。人口と生産力の急激で飛躍的な増加により、共有地の悲劇が起きやすい状況となったからである。

流動性が高まると集団の構成員のアノニマス(匿名性)が高まり、すぐれた「応報戦略」であっても効果が小さくなる。一見の客ばかり来る観光地の飲食店なんかを考えてもらえば分かるだろう。あるいは「旅の恥はかき捨て」もそうである。応報戦略が効かない場合は、非協力行動ばかりの応酬の悪循環に終わることが多くなる。web上の掲示板でそうなってしまう例は掃いて捨てるほどある。

もう一つ社会的ジレンマの解決を困難にしているのが「他者に対する信頼の欠如」である。人々はせっかく協力行動をとろうと思っていても、他者が信頼できなければ自分だけ馬鹿を見る行為はしたくないのである。山岸氏はここでホッブスをとりあげる。自分たちの自由と独立を部分的に放棄し公権力(リヴァイアサン)に委ねることで安心の保証を得ようとするのが社会契約論の骨子であり、重要なのは、自発的に協力したいと思っている人の不安を取り除くこと、それにより自ら望んで協力行動を取ることができる環境を用意することである。(公権力の目的は、本来は人を強制的に協力させることではないという点が非常に重要な指摘である。)

 

■7.ではアメとムチはどうよ

これも欠点があるのですなあ。第一に監視と統制にはコストがかかる。第二に、だれがその(監視と統制の)コストを負担するのかという二次的ジレンマが発生するのである。第三にアメは内発的動機付けを失うのだ。他人も強制されているからと思ってしまうので、自ら協力しようという動機や、他者への信頼も低下するのである。第四にアメとムチは麻薬のように「耐性問題」を引き起こす懸念がある。効いている間は協力行動が促されるが、自発的協力意志がなくなり、さらに強いアメとムチが必要となり、ひいては問題を深刻化させる場合もある。テイラーという学者は「アメとムチすなわち政府は愛他的動機を減少させるだけでなく、社会的ジレンマ解決のための自発的協力を育てる母胎としての共同体を破壊する。」とまでいってるそうである。そういえばリリ禁は内発的動機付けを失うって私も昔書きました。

 

■8.コミットメント問題---おろかな感情が有利な結果をもたらすかもよ

これは社会的ジレンマのテーマから外れるのであるが、合理的な人間よりも非合理な(感情的な)人間が有利な結果を手にすることがあるという示唆である。強い意志をもって決心するのではなく、感情というメカニズムを使ってコミットメント問題を解決するということ。例をあげれば、ある小売店で100円の釣り銭をくすねられたことに怒って我を忘れ、2,000円のタクシー代を使って店主の家に乗り込んでお金を取り返す人とか(なんか例が悪いなあ。)。一見不合理な行動であるが、この人を敵に回すと恐いという印象を周囲に与えることで将来に渡り不利益を被るリスクを減らすという、「結果としての合理性(利益)」が考えられる。逆にまあ100円くらいいいやとその場で合理的判断をしたかしこい人はその後も騙される可能性がある。

※コミットメント問題とは「特定の行動を取るように自分自身を拘束する、つまり自分自身を特定の行動にコミットすることによってのみ解決できる問題。例:ダイエット、禁煙」

 

■9.ジレンマ解決のための暗黙知に注目じゃ

無意識的な知であるもうひとつの例が、脳内に存在する(といわれている)「認知モジュール」の働きである。前のほうで少し触れたが、人間の脳は、自分で意識できないが、様々な処理を自動で行っており、それは脳内に専門的にモジュール化され使われている。リーダ・コスミデスによると、裏切り者を探索する専門の認知モジュールが存在しているという。人間は社会的環境への適応のためにその知能が進化してきたのである。社会的ジレンマの下で非合理に行動するのは、そうしろと命令するメカニズムが脳内にあり、合理的判断(理性)よりもより大きな利益を得ることができる、そのようなことが可能な環境がある(あったからこそ適応してきた)からなのだ。(・・・このあたりになるとちょっと眉唾ものなんだけれどとりあえず先に進もう。)

 

■10.「みんなが原理」=「社会的交換ヒューリスティック」とは何か

ついつい協力してしまったり、ついつい協力されると嬉しくなってしまう直感的な我々の心の働きのことである。

ヒューリスティックとは認知心理学用語で「直感的意志決定」のことだ。「みんなが原理」=「社会的交換ヒューリスティック」とは、応報戦略もそれに含まれるが、応報戦略はかしこい、つまり意識的戦略でもあったのだが、「社会的交換ヒューリスティック」は無意識的につい協力してしまうようなことまで含んでいるより幅広い包括的原理である。

さて、順序付き囚人のジレンマ実験によって6割から7割の人間は「みんなが原理」が働く「A.みんなが主義者」、3割程度は「B.利己主義的合理主義者」、残り少々が「C.清貧主義者(愛他的利他主義者)」であることが分かっている。そして相手が何主義者か分かる状態で実験を繰り替えすと、A:B:C=833:833:667の利益を得たのである。面白いことに必ずBが優位なわけではない。ということは、社会的ジレンマを解決するのにどうすればよいかヒントになるのである。それは利己主義者に協力行動を取らせるためには、道徳心に訴えるよりも、協力することが利己主義者自身の利益になるのだということを分かってもらえばよいのである。

 

■11.しかし社会的ジレンマの解決は遠いのだぁー〜〜〜超訳終了

6章でみたように現代社会は社会的ジレンマを解くのには難しい条件が立ちふさがっている。しかし、それでもなんとか頑張ってみると、まず合理主義的(かしこさ方面からの)解決として、10章でみたように利己主義者が自ら進んで協力した方が得になる状況(環境)をインセンティブとして作り出す方法が考えられる。それは例えばイソップの「北風と太陽」の中の太陽のごとく。

教育による愛他主義は5章で見たように欠点があるので保証(ネットワークと最小限で上手なアメとムチの使用)づくりに気を付ける。そのためには利己主義者の非協力行動が限界質量を超えないよう上手く押さえつけられるかどうかが肝要となるのだ。しかし、一番重要なことは、愛他的教育やアメとムチではなくて、「みんなが原理」が働きやすい環境を整備することなのである。教育をするのであれば、非合理な利他的行動が実は最終的には自分自身の利益となる=「情けは人のためならず」ことを教えるのがよいのだ。

 

■12.ではバス問題に応用してみよう・・・の前に休憩じゃ

以上ざざーっと山岸理論をみてきたけどうだろう。なんか最後のほうは力尽きて文体自体も疲れて最小限のことしか書いていない気がするのは気のせいではない(^^;)。なんでこんなに書いたのかというと以下これから書くことがちょっと常識から外れる可能性があるからなのである。

「社会的ジレンマ」は少々わかりにくい本である。実は1990年に山岸氏が著した「社会的ジレンマのしくみ」においての結論は、利他主義を目指すなら「えびで鯛」の利己主義になれという常識を覆す内容であったのだが、今回取り上げた「社会的ジレンマ」はさらにもう一回「非合理でおろかな感情や暗黙知(本では『認知モジュール』と呼んでいるが)」という観点からそれをひっくり返しているのである。そして「社会的ジレンマ」のテキストの中でも前半は「社会的ジレンマのしくみ」における仮の結論、後半ではそれをひっくり返すという作業になっているのである。では二回ひっくり返ったから元に戻って「心がけが大事です」になっているのかといえば、恐ろしいことに全然違うのである。

さて、バス問題にとりかかろう。ここからがやっとほんとうの本論なのであるが・・・。ちょっと疲れたので一服する。

 

次回につづく

←back