今週は天気が悪いので釣りはお休みである。またまたコラムを更新してお茶を濁してしまうのだ。すんません。
とあるところから原稿を頼まれて書いていたのだが、横道にそれてしまいそうになった部分があってそれは切り捨てたのだった。でも捨てるにはもったいないのでここに残しておこう。
釣りをすることは魚を釣り上げることである。それは当たり前なのだが、では何故釣りをするのだろうか。面白いからである。では何故面白いか。ここら辺りから段々回答が苦しくなってくるのだ。一番優等生的回答は、こうかもしれない。「人間には狩猟本能があるから」。そうかもしれない。でも実はこれってそこで思考停止してしまいがちな回答なのだ。もっと問いを進めよう。では、なぜ人間には狩猟本能があるのか。進化論的にいえば、狩猟することにファンを感じるプログラム(子孫、あるいは遺伝子)が生き残ったのである。その末裔が私のような釣りバカを含めた現代のヒトである。
ここで少し難しいことを考えてみよう。その昔、某国で猛禽類や猫科の肉食動物が狩りをするときの呼吸数や心拍数を計測したことがあったらしい。結論からいえば人間とはまったく逆で、そこに興奮と呼べるものは認められなかったとのことである(この話はうろ覚えなのですんまそん。まちがってるかもしれん。)。
だからなにがいいたいのかといえば、狩猟本能って本当は怪しかったりするのではないかということなのである。考えてみれば、彼ら肉食動物にとってのハンティングは単なる食事である。きっといちいちドーパミンがでたり(腹が減っていたらヨダレはでるかもしれんが)、心臓がばくばくしてたら身が持たないかもしれない。むしろ捕食の瞬間は、武道の達人の脳が戦いながらもアルファー波を出すがごとく沈着冷静なほうが都合がよいのだろう。
考えてみれば、太古、ヒトはプレデターから捕食される被捕食者でもあったはずである。道具や武器を発達させていく過程で、いつの間にか立場が逆転したのだ。生物としてのヒトはさほど変化しておらず、変わったのはヒトの社会や文明である。したがってヒトが行う狩猟は、ア・プリオリなものではなく、後天的で学習を要するものだ。だからそれはけして「本能」などと呼べるものではない。むしろそれは、飼い慣らされた攻撃性である。
ここからは想像なのだが、ヒトは狩りをするとき、かつて自分が被捕食者であったときの記憶が蘇るのではないだろうか。心拍数が上がったりするのはむしろそのためであろうと思うのだ。(捕食者でありながらも被捕食者の立場も同時に理解してしまうのだ。)竿の先に掛かって暴れているのは、魚ではなく釣り人それ自身であるというメタファーは開高さんが使っていたけれど、上記のことにつながるのかも知れない。
いや、もっと突き詰めれば、「興奮」するために、「快」を得るために「狩猟」や「戦闘」が発明され、攻撃性発露の様式として社会に埋め込まれたとも考えられるのである。