釣りの快

 

昔の本に「釣りの科学」(森秀人著・講談社ブルーバックス)というのがある。

その中になぜ男に釣り好きが多いかが書かれている。端的に言えば、男性の脳の方が興奮をよく覚えるしくみを持っているかららしい。

また、よく釣り人の間で交わされるのは「釣り人=スケベ説」である。「毛鈎職人」の島崎憲司郎氏も釣りは「アレ」に似ているという説の持ち主のようである。

うーむ。そうなってくると私のようなものが書く余地が無くなってしまう。何故なら私は人並みにスケベだとは思うが、それ以上ではないし、ましてやそんなパワーは無い。

逆にこの説が正しいとすると、世の奥様方特にフィッシング・ウィドーの方にこうゆう言い方ができるかもしれない。「あなたの旦那様は釣り好きでよかったですね。もし彼が釣りに行かなくなったら、浮気するかもしれませんよ。ですから彼の趣味をほめる必要はありませんが、否定すべきではありません。」これはあくまでも都合のいい自己弁護であるので、おしかりを受けるだろうな(笑)。

話が脱線するついでに。

ポルノグラフィや性産業が盛んになるのと反比例するように性犯罪の件数は減少するらしい。釣りが盛んになると世の中平和になるのではないかと思っている。どこが平和になるのかは判らないが。これを確認するには釣り禁止にしてみれば判るはずなのだが、誰もこんな実験しないだろう。


唐突だが、ジョルジュ・バタイユの「聖なるもの」とは、「事物に接し内部の力(フォルス)が刺激された場合にその人間の中で起きるかもしれない恐れと喜びの感覚のことだ。」、「主客の出会いの状況、主体の状態や感性などがうまく作用したときに、主体の中で一瞬生じる。偶然性に左右され、また生誕しても持続しない不確かなものなのだ。」(『バタイユ入門』酒井健著・ちくま新書)ということらしい。

これはまさにあのことを言っているに違いない。そう、釣りだ。

バタイユはヨーロッパの理性を「非知」でひっくり返そうと企てていた文脈でこういったことを述べていたのであって、これを釣りと関連づけるのは強引なのだが、お許しいただきたい。

もしバタイユが釣り師であれば、釣りについて言及したに違いないと釣り師である私は妄想する。ひょっとしたら、バタイユが釣り師だったら、きっと精神も病まずにあの一連の作品はうまれなかったという話もあるかもしれない。

そうか。釣りが盛んになるとバタイユのような「危険な」思想家が減るということか。いま気がついた。


なにが「釣りの快」なのか。私がくどくど説明するよりも、実際フィールドに竿を持って出かけた方がよい。語ることには限度がある。だが、他人の釣行記を読むのは楽しいものだ。書斎派というかインドア派の釣り人になれる。だが、これもなにがしかの釣り体験がないことにはその「快」を理解することは難しいであろう。

また、釣りは素晴らしいと諸手をあげて賞賛する気にもなかなかなれない。釣り人同士で「あんたも好きだね」と囁き合う程度の賞賛にとどめたい。なぜなら、たぶん社会にとって釣りは禁忌的(とまでは言えないがそれに近い)行為だからである。消費行為だからである。愚行だからである。

私を例に取るならば、睡眠時間を削ってフライを巻き、ガソリンを多量に燃やして遠方まで走り、眠たい目を擦りながら目薬を消費し、翌日の仕事が身にはいらず(笑)、こうして夜更けまで駄文を書いたりする。こうした愚行は自虐的に語らねば、素直とはいえまい。 

逆に言えば、ここまで惹かれる、この条件と引き替えにできる「快」がある、ということの逆説的な証明をしているのかもしれない。 

 

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