水口マギョ本への感想

「魔魚狩り・ブラックバスはなぜ殺されるのか」水口憲哉/フライの雑誌社

タイトルに関連する項目だけ感想を述べる。他は読み物としては面白く読めたとだけ書いておこう。水口氏は、昔から「義憤の人」だったんだねえという印象的感想を持ったのである。また古くからのフライの雑誌の読者であれば、既出のテキストがほとんどであって、最終章以外はあまり読むメリットがないかも知れない。

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フライの雑誌社「魔魚狩り ブラックバスはなぜ殺されるのか」 
『魔魚狩り ブラックバスはなぜ殺されるのか』オンライン書店bk1

特別資料
水口テキストに対するある人からの反論


私が以前触れたように、社会的ジレンマ論との関連で云えば、スケープゴートとは、社会的ジレンマの発生源と同等であると考えられる。従って、それは「裏切り者を捜せ」認知モジュールにより早々に見つかってしまうのだ。むしろブラックバスに関しては、遅すぎたのではないかとも思う。ただ、これには事情があって、水口氏も苦々しく指摘するように、生態系や生物多様性の尊重という価値判断が、昨今新たに社会システムに取り込まれたからという事情もあるだろう。

バス問題に、ブラックバス=スケープゴートを云うのは簡単である。なにしろこの私でさえ5年以上前にそれを指摘しているからである(^^;)。ただ、本来「スケープゴート」とは、迫害型にせよ、供犠型にせよ、スケープゴートの対象が、実際に共同体外部へ、あるいは周縁へ追いやられる(消滅する。あるいは制度として固定される)必要があるのではないかと思う。少し細かい話かも知れないがこんなことを書いておこう。

スケープゴート論は、歴史を後で振り返ってみないと「あれは確かにスケープゴートであった」としか、いうなれば遠点から眺めて、ようやくわかるような性格をもつ問題構造をしていると私は考える。なぜならそれは、ある共同体の社会システムの「中心/周縁」構造から生成されるもので、無限遠点かもしくは時間的乖離、あるいは価値中立的な外的視点から眺めないと分かりにくい構造をしているからだ。ホットな現場から(つまり、今まさにスケープゴートが行われようとしている共同体の内側から眺めていたのでは)それをスケープゴートだと断定するのは難しい側面がある。

簡単に云えば、「悪い○○がいなくなって良かったね。」とそれ(=○○)を追いやった共同体側の人間が安心して初めて、スケープゴートという機能は全うされるのだ。我々の共同体でスケープゴートが行われているのであれば、我々はスケープゴートの共犯者か、もしくは被害者以外になり得ないのである。傍観者でいることが難しい問題なのだ(傍観者は価値中立者ではなく、結果としてスケープゴートに荷担する者である。)。余談になるが、むしろスケープゴート論の恐ろしさは、社会システムは絶えずスケープゴートを求めていることに気が付いている人があまりいない点である。スケープゴートは、社会不安が高まったときにそれに呼応する形で生み出される。秩序回復のためである。また、社会学者の馬場靖雄氏によれば、現在ではそれは「犯罪者」が担わされているとしている(「社会学のおしえ」/ナカニシヤ出版)。

魔女狩りの魔女としてブラックバスが認定されていることは確かかも知れないが、また、積極的に駆除を行っている場所もあることは確かに違いないが、完全な駆除ができたわけでもなく、それは始まったばかりであり、スケープゴートとしてそれが確認されるのはある程度の時間を待たねばならない。例えばオオクチバスが特定外来生物に選定されたと仮定してもなお、外来魚駆除の物理的経済的困難性から考えると、多分、実態は中途半端なスケープゴートにしかならないのではとも思われる。(制度としての固定化は起こるかも知れないが・・・)

もう一点。スケープゴート論からいえば、ある対象が社会システム上スケープゴートとして指定されたとして、その対象をその指定から外すことは、非常に難しい。何故なら、スケープゴートは社会システムのエントロピーを外部に排出するという役割を担わされているからで、それにはそれにふさわしい(もっともらしい=社会構成員が納得しやすい)理由付けが社会システムから付与されているのである。水口氏もその理由を五つ列挙しているように*。もっともこれは、時代や事実判断の相違はあるし、ときにその判断が誤っていることも十分あり得る。魔女狩りの魔女は実は本当の魔女ではなかった。ユダヤ人は劣等民族ではなかった。等々。ブラックバスは濡れ衣であるという本書の主張も、その種の「誤り」を指摘するのが狙いなのであろう。

では、実際スケープゴートからの救出はどのように行われるべきなのだろうか。例えば、ブラックバスがスケープゴートにされているという認識が正しいとして、それを社会にやめさせるには、それに付与されている「徴(『しるし』=理由)」を引きはがし、社会に認めさせる努力が必要である。つまり、システム上の問題からそれを解くのであれば、無関係であることを証明するか、それに替わる別の対象を探し出す(つまり真犯人をみつける)か、あるいは、社会システムのエントロピーを低減させるという根本的な解決しかない。三番目の選択肢は、社会システム総体に掛かる問題解決であり、非常に困難であろう。だからスケープゴート論からブラックバスを救うのであれば、そして徴を引き剥がせないなら、必然的に「いやもっと悪がいる。こいつこそが真犯人だ。」という楽しくない(醜い)ゲームを進めることが必至となる。

そしてこの本はその楽しくないゲームを展開しているのだ。(これは逆にいえば、徴を除去することが困難である証左でもあるのだ。)だから、ある対象が「真の」スケープゴートであることを完璧に提示しえたとしても、新たな矛先を示しうるだけで、実はスケープゴート論による擁護とは、新たなスケープゴートを連れてくるだけではないかという気がする。そして新たに連れてこられたスケープゴート(達)がどう社会の批判をかわすのかと云えばやはり同様の手法を使うしかすべがないとしたら、スケープゴート論による擁護とは、スケープゴートを延々と先送りする形になってしまうのだ。

むしろ、なぜスケープゴートとなってしまったのか、なぜその徴を引き剥がせないのか、そこに反省点はないのか、あるいは、スケープゴートの行く末を冷静に見守る姿勢が、今後このバス問題にコミットしている者に求められていると思う。問題解決には非常に時間が掛かると思われるのだ。バス利用派にとってはねばり強さが求められのだ。だから、「あのとき解決しておいて良かった。」になるのか、「なんてバカ騒ぎをしたのだろうか。」になるのか。かなり先を見据える必要を感じる。

そして、ブラックバス=スケープゴート説が正しいとしても、いや、正しいならばなおのこと、問題の先送りではなく、ねばり強く本質を見つめ、根本的解決を探る努力を怠るべきではないと思われる。水口氏は「開発」や内水面漁業従事者の先行き不安を真のスケープゴートとして提示しているが、ならば、「開発」と外来魚急増の相関を科学的に、冷静に示すべきだし、例え「開発」が「真犯人」であるとしても、社会システムから負わされた徴が完全に取れて、ブラックバスが「無罪放免」になるのかといえば、また違うと思われる。そしてこのような観点はさほど新発見でもなく、どちらかといえば陳腐な議論であることに誰もが気づかなければならない。むしろ問題は、我々がスケープゴートを作り出してしまうメカニズムにこそ宿ると考えなければならない。

以上。

2005.02.14

2005.02.17改


*ブラックバスが火あぶりにされやすい五つの理由:

  1. 大型で魚食性があること 
  2. 憎々しい風貌で名前も恐いこと 
  3. 人為的放流による拡散 
  4. 外来魚であること 
  5. バスアングラー急増による伝統的な釣りとの軋轢


補足その1。これは具体的にどのような手法を取ればよいのか今は不明だが、迫害型のスケープゴートから供犠型に転換するというのも一つの解決策かもしれない。では何を犠牲にするのか。次回改訂までの宿題としておきたい。・・・できるのか?(・・・やっぱ無理でした。

一つだけ。これはスケープゴートではないが、共同体の秩序確保の目的でいえば同じ作用となるのが「通過儀礼」である。

「通過儀礼とスケープゴートは、方向は反対だが、機能は同じである。すなわち、自分たちと異質であるにもかかわらず、自分たちと同じ共同体に属する中間的存在を完全に排除することにより、共同体の境界(システムと環境の差異)を明確にすることがスケープゴートであるのに対して、外部から自分たちと同質のメンバーとなる中間的存在者に、境界を意識させることにより、共同体の境界(システムと環境の差異)を明確にすることが通過儀礼なのである。」(『境界と通過儀礼』http://www.nagaitosiya.com/lecture/0087.htm

例えば、一つの社会的なモデルとして、バスアングラーに、釣ったブラックバスをリリースさせずに殺させること(=バスアングラーにとっての受苦)が、「通過儀礼」と示しうるかもしれない。そこが一つの重要な境界であり、議論の争点の一つでもある。ただし、社会はそのように単純に出来ているわけではないし、その通過儀礼を確認し、承認する主体(共同体)も現在では不明瞭である。しかし、確実にいえるのは、バスアングラーを中間的存在(両義的存在=同じ共同体構成員でありながら掟を破る者)と捉える人々は、今とても多い(いや大多数かもしれない)ということだ。現に、リリース禁止条例が各自治体で制定されているという現実も、それを裏付けている。それを「事実判断を誤っているから、バスはスケープゴートに過ぎない。」という反論で押し切るのには無理がある。なぜなら、それではブラックバスを利用するバスアングラーへの不信を払拭できるわけではないからである。大多数のバスアングラーは善良な市民であるとしてもだ。それはコンセンサスのない放流に代表される身勝手さが遠因である。今からでも(もう遅すぎだが)、コンセンサスをこつこつと作り上げる努力は無駄ではない。そうしなければ、ブラックバスがスケープゴートであると同時に、バスアングラーもスケープゴートとなるであろう。(いやむしろバスアングラーこそ、スケープゴートになっている状況だと断言してもいいかもね。でも小文字。

現在の状況において、バスアングラーからみれば「スケープゴート」が成り立つならば、社会システム(共同体側)からみれば、それはバスアングラーに対し「通過儀礼」が提示されているに等しいと気づくべきなのである。

リリース禁止は確かに受苦である。であるなら、バスアングラーは別の社会化の手段を何か考えるべきだ。私が以前書いたように、組織化して、バスアングラー内のジレンマをなくし、協力行動を起こすのが、道程は遠いが、一つの確実な方法であると思われる(これも通過儀礼だ)。単なる数集めという存在証明や、異論をパブリックコメントとして多数送りつけるという方法は、逆に規制側のリアクタンスを呼び起こすかも知れず、問題可決手法としてはまずいとも考えられる。

補足その2http://www.socius.jp/lec/20.html社会学的な「スケープゴート論」は左記のページなど参照されたし。なるほどヴァルネラビリティね。ここでひとつ、上にも引用したが社会学者の馬場靖雄氏の別の言葉を引用しておこう。「人間の集団をまとめていく上で最も強力かつ効果的なのは、愛や相互信頼といったポジティブな絆よりも、むしろ敵への憎しみというネガティブな感情のほうだ」(前掲書)だからこそ、議論をネガティブな方向へ誘導するという手法は(私も反省しなければならないが)、安易であり、いや、非常に効果的ではあることは認めなければならないのだが、「しかしだとしても我々は、お互いを結ぶ絆をできるかぎり憎悪から愛情のほうへと移していく努力を放棄すべきではないだろう。」(同)対話を放棄してはならない。上記で云えば「社会システム総体に掛かる問題解決」を図る努力を惜しむべきでないということになる。

補足その3。あるものを対象としたスケープゴートからそれを救う手だてがもう一つある。簡単にいえば、それは共同体内にそれを対象とした「スケープゴートは良くない。助けねば」と思ってもらう、つまり協力行動をとってもらえるメンバーを増やすことだ。ただ、どの程度増やせばよいのかといえば、それは即答できない難しい問題である。しかし、社会的ジレンマ論でいえば、「限界質量」という考え方があって、協力行動をとるものが「自分だけバカをみる」ことを防ぎ、協力行動を促進させるための最小限の数値があるはずだ。そしてそれを追求するのが真の社会学的解決ではないか。この本がその協力行動を促すことが出来るか否か、むしろ逆効果なのか。これは私が判断を下すことではなくて、今後の動向を見据えるしかない。


p.s.うううん。なんだかマギョ本の感想というよりも、スケープゴート論みたいになってしまったのは私がヘタレなためです。すんましぇん。それとこれはまた別の話なのだが、なぜ水口氏がバス利用派に利用(^^;)されてしまっちゃったのかという謎は、やはり謎のままである。いや、正確には分からないが、想像することならできる。

この本の中でも分かることなのだが、水口氏は単純的バス擁護派というわけではない。以前はバス釣りやバス、ギルの存在に対して否定的印象をもっていた(る)ことも読みとれる(第1章、特に37頁あたりを注目)。琵琶湖で目撃した多数のバス、ギルに対して「いやになるほどいた」、「うんざりした」、「淡水魚相のコカコラニゼーションが現実化」との感想を述べている。また琵琶湖は外来魚を駆除する水体だろうとも述べている(147頁)。

むしろ、訳知り顔で外来魚問題を皮相的に取り上げるマスコミ人(例:本多勝一親子)への義憤や、長良川河口堰がらみで、建設省からの横やりでサツキマスをレッドデータブックから削った環境庁(というか国家)への怒り、それらに関連しての(もし水口氏が書いていることが事実なら、けっこう酷い)研究者への批判(180頁あたり)など、色々な要素が、水口氏を結果として擁護派サイドの主張とシンクロさせるような地点へ駆動してしまったのではないかと想像する。

ただ、今はたまたま利用派とシンクロしてるけど、水口氏は「荒ぶる神」のようなところがある。個人的には憎めないキャラだったりするのだ。だからそのうちそっち側も飛び出しちゃうかもしれない。などと無責任な感想も書いておこう。

2005/02/25加筆

 

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