※注意。以下のテキストは、ある方が2000年にネット上に書かれたものである。それは、フライの雑誌に掲載された水口憲哉東京水産大学助教授(当時)の記事に対する痛烈な批判であった。今回それを一部抜粋し、掲載するものである。なおその記事は、今回出版された「魔魚狩り」へもそのまま再録されている。今回、批評者本人のから承諾を得て、著作権等に考慮し、一部改変させてもらった上でここに再掲した。なお、以下この斜体赤字のテキストは私Oritaが書いたものであるが、青文字で「私」とあるのは当然Oritaのテキストではないことにご留意されたし。

※※注意その2.このテキストの読み方
赤字>Orita
青字>ある人
黒字>水口氏

あるいは、背景色がこの鶯色になっている部分がほぼ原テキストに近いものと思って頂ければよい。

さて、なぜこのような批評をもう一度再掲しようと考えたのか。その理由を少々書かせて頂いても問題がないと思うので書いておこう。まず、勘違いをして頂いては困るが、当然私とこの批評者と意見が同一というわけではない。私は、バス問題はソフトランディングの方向で解決するべく、いままでずっと考えてきたし、主張もしてきた。それは今も変わらない。逆に云えば、「利用派(擁護派)」、「利用規制派(駆除派)」という両陣営の対立がますます深まってしまうような言説には絶えず批判的であったことも事実である。「対立」の関係性から「協力」の関係性への移行にはどうすれば良いのかということに関心を抱き続けてきたのだ。しかし、ときには事実として誤った主張や、ロジックとしておかしい主張をそのままにしておくことの弊害も同時に対処すべきではないかとも考えている。当然、水口氏の主張も全てが正しいとか、全てが誤っているとか、そのようなゼロサムで私は考えないが、どのような部分が不味いのかについては、下記に再掲するテキストが非常に鋭く指摘しており、既に5年以上前に書かれたものであるが、今後の議論のために大いに参考になると考えるのである。ある意味、今後これ以上の鋭い批評は出にくいのではないかとさえ考えている。

「利用派(擁護派)」にとっては耳の痛い話かも知れない。また、これを批判的に乗り越えるべきだとまではいわない。直視すべきであるとだけ書いてこう。

なお、この批評を書かれた方も、水口氏の人間的魅力は評価されているのである。ただ、そのことをもって批判が甘くなるというのは、クリティークとしては逆に失礼にあたるのだ。そんなことも配慮している方の批評であることを頭の片隅にでもおいて、読んでみて欲しい。(2005.02.16)


ある水産学者への抗議

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「フライの雑誌」46号にとんでもない記事がでていた。
ベテラン向けの非常に内容の濃い雑誌だったのに、なぜ単に自分の政治思想を語っただけのプロパガンダを載せたのか不思議でならない。著者は東京水産大学の助教授M氏である。

内容もさることながら、起承転結の全くなっていない悪文故、読むのが苦痛かと思われますが、バス問題に興味のある方は是非プリントアウトしてご一読ください。本当は、要点だけ掲載すればすむのですが、自分に都合のいいところだけ引用したと思われては不本意ですので、全文を引用します
(※)黒字が原文一番下の青字が私の感想です。1999/12/12

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「フライの雑誌」季刊第46号
釣り場時評 31
「 メダカ、トキ、ブラックバス、そして純血主義」


※原テキストでは、ここにフライの雑誌46号釣り場時評 31の全文が引用されるのであるが割愛する。「魔魚狩り」ではp123-129がそれに該当するので、出来ればテキストをお手元において参照して欲しい。一部原文を修正している箇所あり。


 余計なお世話かも知れないが、まずM氏はもう一度国語の勉強をした方が良い。順接、逆説の使い方がまるでなっていないので、読んでいて何が言いたいのかさっぱりわからない。起承転結の欠如は明瞭だし、例証のない断言、論理の飛躍、個人的意見と一般論の混同が多すぎる。「時評」と銘打っているからには、エッセイ・随筆の類とは違うのだから、もう少し論理的に書くべきだ。時評というのは、「時代を評する」一種のクリティシズムだ。専門用語で格好はつけているものの、これでは感想文か作文にしかなっていない。科学者らしく何らかのデータ、あるいは具体的根拠に基づいて語って欲しいものだ。

 まず、M氏の時評は、世田谷区にいたメダカが、実は関西型であったため、区が保護運動に乗り出さなかった言う事実から始まる。それに対する彼の腹立ちは良くわかる。しかし、それがどうして、「こうじゃなきゃいけない、こうするべきだ、と言う一種の純血主義が最近再び盛り返しているようである。」ことと即座に結びつけられるのか。氏は、最近の日本の右傾化、ナショナリズムの台頭と外来種排斥運動とを結びつけたいのかも知れないが、論理が飛躍しすぎなのはいうまでもない。

 さらに話はトキに及び、そのルーツが、必ずしも日本のものではないことを指摘したかと思ったら、即座に実は日本のトキと、中国のトキは遺伝的集団が違うという。そして、何が言いたいのかわからぬまま、今度はルーツの話が、天皇と日本人の起源に及ぶ。好意的に氏の論を辿れば、要するに、純血の日本人は居ないということが言いたいらしい。そして、氏の論理はさらに飛躍する。バス問題についての結論はこうだ。

ここいらのところ、日本における外来の民族、外来としてのブラックバスの見方などいろいろ重ね合わせて見てゆくと、ブラックバス排斥論者に、純血主義、国粋主義、民族主義などの片鱗が見られ、おかしくなると同時に背筋が寒くなってくる。

 私がもっとも強く抗議するのはこの一点に絞られる。M氏はブラックバス排斥論者と、ナショナリストを結びつけたくてしょうがないようだが、理由は提示されていないし、例証が全くされていない。これは科学者としては怠慢と言われても仕方がないのではないだろうか。もし仮に、百歩譲ってそれが事実だとしても、すべての読者に分かるよう何らかの根拠を示すべきだ。日本人の純血性を唱える人々と、魚の純血種を守りたい人々を単に並べただけで、バス排斥論者に国粋主義の片鱗が見えるとはちょっと唐突過ぎる。「日本人」という概念がはなはだ曖昧なことくらい今や常識だ。しかし、バス排斥論者のなかに日本人の純血性を唱えている人がいるのだろうか。もし居るなら、ちゃんと名前を挙げて、誰がそんな無謀なことをいってるのか指摘しなくては、バス問題に関心ある人にとっては迷惑このうえない。

 さらに、M氏の暴論は続く。

今の子供達にとって、求め得る自然や釣りとは何かを考えたら、関西弁であろうと目の前にいる野生のメダカであり近くの池のブラックバスとなるのはやむを得ないと考えるし、それが本来あるべき自然や研究者や環境保護論者やある種マニアックな人々の求める自然と違うからと言って、子供達に諦めろ、待てとは言えない。

もちろん人によって求め得る自然が違う云々はわかる。しかし、バス問題の重大性を考えて欲しい。絶滅の危機に瀕した、ミヤコタナゴが棲息するような野池にまでバスを放流する大馬鹿者がでてきている現在、そんな抽象論に徹してて良いはずがない。彼は、バス排斥論者を十把一絡げにしているが、とんでもない誤解である。「子供達に諦めろ、待てとは言えない。」なんて言っているが、なぜ「言えない」のだろうか。むしろ積極的に教育すべきではないか?好意的に読めば、純血主義云々よりも、環境破壊そのもののほうが深刻だといいたいのかも知れないが、彼は批判する矛先を間違っている。環境の整備を訴えるなら、建設省ゼネコン主体の行政に対して批判すべきだ。バス排斥論者ではない。彼の主張を見ていると、実はバサーなんじゃないの?と勘ぐりたくなるほど、バスの現実を見据えていないか、あるいは意図的に見ないふりをしているように思えて仕方がない。彼こそ、バス問題について、もうちょっと勉強するか、誌上で討論すべきだ。

 最後は、
「ともあれ、メダカやオイカワが今まで通り住み続けられるような状態に野川を維持することが大切である。」と締めくくっている。これだけ見ると、もっともなことだ。しかし、全体の流れで読んでいくと、全然結論になっていない。何が「ともあれ」なのか全くわからない。小学生が夏休みの宿題の締めきりに追われて、字数を稼ぐためだけにとにかく取って付けたような空虚な締めくくりだ。

 こうした学者が稚拙なレトリックをもてあそんでいる間に、バスは密放流され、在来種はますます危機的状況に陥っている。余計な時評を商業誌に掲載する前に、学者らしく、自分の専門の分野でしっかり研究して、社会に貢献して欲しいものだ。

外来魚の存在を危険視する人間を国粋主義者だと決めつけることは、絶滅危惧種が棲息するような湖沼に、ブラックバスを密放流するような人間に大きな資金援助をするようなものである。特にM氏のような著名な学者の場合その影響は計りしれない。M氏個人が別の場所では非常に立派な方だったとしても、私はこの点にかんしてだけは憤りを感じずにいられない。バス業界の代表的人物である釣り人社社長をして「東京水産大学には使える学者が居る」と言わしめた事実をM氏にはかみしめていただきたい。

これは極論だが、もしアングロサクソンが日本に大挙して移住してきて、日本国民のほとんどがハーフになったとしよう。それが民主的な手続きを踏まれてそうなったなら、私はそれでも一向に構わない。人間には意志が存在するのだから。しかし、生物には意志は存在しない。人間が金儲けや自らの楽しみのためだけに、好き勝手に生物を移住させ、結果的にそこにもともと居た生物が絶滅する。そんなことがあって良いものだろうか?私は絶対にあってはならないと思っている。(2000/7/29日加筆修正)

先日、ブラックバス問題の掲示板で、「タナゴやメダカがいなくなってもいいんじゃない?そのことで、どんな損失を人間が被るんですか?」と言う書き込みを見た。なかなか本質をついた、哲学的な疑問だ。「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と同じ質問だと思う。倫理的、法的、生物学的な解答を出すことは可能でも、残念ながらこれに哲学的な解答を出すことは難しい。ただ、これだけは言える。ある特定の種、系統を絶滅へと導くことは、ナチスドイツが行った、民族浄化とまったく同じことであり、それによって自分に損得が生じないからと言って、傍観するだけでなく、手を貸してしまうことは、もはや人間の行為ではないと言うこと。民族浄化を唱えるナチスドイツを批判することが、国粋主義のあらわれだと言うのであれば、私は喜んで国粋主義者になりたい。(2000/8/07日加筆修正)