悲しいこと

釣り関係のwebを公開している者は、いかにメディア的ジレンマを克服すべきか。

以下は、改訂後のテキストです。改訂前はこちら

これは古くて新しい問題である。

もう故人であるが、テンカラの名手であり、渓流釣り(彼のことを紹介するのであれば『山釣り』と表記せねばならないか?)を語らせたら右に出る者がいないといえば、山本素石(1919-1988)であろう。彼も書籍の中で触れていたが、釣行記を雑誌に寄稿することにより、場荒れが発生することを嘆いていた。

これをとりあえず「メディア的ジレンマ」と呼んでおこう。web上であってもこの問題が発生することがある。私はこれを避けるため、自分の釣行記にはかなりの注意を払ってきたつもりである。魚のいる場所は限られているというわけではないが、以前も書いたように資源保護と己の釣れる魚を残しておきたいというエゴイズムを優先させるには、あけっぴろげに何でもwebに載せることは危険きわまりないということに随分以前から自覚的だったからだ。

その昔、たぶん10年以上前になるが、インターネットが普及する前の所謂キャラクターベースのパソコン通信の頃の話である。とあるページ(ニフティでは『フォーラム』と呼んでいた)で揉めたことがある。河川の実名表記は是か非かという話題がそのメインテーマであった。その当時でさえそうだったということは、通信インフラがこのように整った現在では、その危険度がもっと高いかもしれない。(もっとも釣り人口そのものが減少しているらしいので、多少の相殺があるのかもしれないけれど。)

ただし、ここからが重要な問題である。これは個人の自由の問題と重なってくるからである。自由主義の原則は大雑把に書けば「他者危害のない限り、たとえそのことがその当人にとって不利益なことであろうと、自己決定は最大限尊重されるべきである。」ということになる。「当人にとって不利益」とは「愚行権」ともいわれる。「酒に酔っぱらう行為」、「タバコを吸ってニコチン中毒になる行為」、「ポルノを観る行為」、「カラオケで下手くそな歌を公衆の面前で歌う行為」いずれも愚行である。(釣りそのものも愚行であると私は以前から思っている。)

今回のテーマであるメディア的ジレンマ→web上に釣り場の詳細をのっけてしまう行為だって愚行権としてお前は認めないのか?と批判されると私は言葉に詰まってしまう。その通りだからである。私はそのことを規制する権利があるわけではない。ただ、感情として「悲しい」と発することが出来るのみである。自分の流儀を他人に押しつける気もない。どうぞ御勝手にである。ただひとこと反論ができるとすれば、たしかに人は愚行をする自由もあるが、批判されたり、それはやめておいてほしいという要請からも自由であるわけではない。同時に、大人であれば責任を被らなければならない。

しかし、それは愚行であるからやめなさいと他者からたしなめられて平気でいられる人は少ない。普通は不機嫌になるだろう。この「あなたのためにならないからやめなさい」という批判を認める立場がパターナリズムである。法的には未成年を保護するような場合にそれが現れてくる。あるいはシートベルト着用義務もそれと同じである。何がいいたいのかといえば、パターナリズムは例外的な規制であり、判断能力があり、成人であれば極力自己決定を尊重するのが本筋なのである。

私の筆が重たいのも、これは一種のパターナリズムであるという自覚があるからである。「どうぞご自由に。ただし、私は悲しいです。」このふたことを述べるだけなのに沢山のいい訳をせねばならない。これもまた悲しいことである。