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Chronology

1877年

6月3日、ル・アーヴルに、小さな金属会社に勤める会計係、レオン・マリウス・デュフィと、マリー・ウージェニー・イダ(旧姓ルモニエ)の次男として生まれる。家族はみな音楽を愛し、ラウルの兄弟のうち2人はのちに音楽家になった。

1891年

家庭の経済的事情により、サン・ジョセフ中学校をやめ、スイス人が経営するブラジル・コーヒー輸入会社、リュティ・エ・オゼールで働き始める。

1892年

ル・アーヴル市立美術学校に入学。オットン・フリエスやジョルジュ・ブラックらとともに、夜間課程でシャルル・リュイリエの指導を受ける。

1898年~99年

兵役につく。

1900年

ル・アーヴル市からの奨学金を得てパリの国立美術学校に入学、レオン・ボナの指導を受ける。フリエスとコルトー通り12番地のアトリエで共同生活をする。

1905年

マティスの『豪奢、静寂、逸楽』を見て、フォーヴィスムへ向かう。

1908年

ブラックとともにエスタックへ旅行し、セザンヌ風の作品を描く。

1909年

フリエスとともにミュンヘンへ旅行する。

1910年

ギヨーム・アポリネール『動物詩集』のために木版画による挿絵を制作。

1911年

モンマルトル、ゲルマ小路5番地にアトリエを借りる。プティット・ユジーヌ(「小さな工場」)というテキスタイル工場で、ファッション・デザイナーのポール・ポワレのためにデザインの仕事をする。

1912年

リヨンの絹織物業者、アトゥイエ・ビアンシニ・フェリエのアート・ディレクターとして働く。

1920年

ジャン・コクトー『屋根の上の牡牛』の舞台装置を制作。

1922年

イタリアへ旅行。

1925年

ポワレとともにモロッコへ旅行。

1927年

パリ、ヴィアール博士のダイニングルームの壁面装飾の制作を開始(1933年に終了)。

1937年

電気館のための装飾を完成。多発性関節炎に苦しみ始める。カーネギー賞審査員としてアメリカへ赴く。

1940年

ニース、その後、ペルピニャンに移り住む。

1944年

アルマン・サラクルー『ル・アーヴルの婚約者たち』の舞台装置をデザインする。

1950年

ボストンでコーチゾン療法を受けるため、アメリカへ赴く。

1952年

第26回ヴェネチア・ビエンナーレの絵画部門で1位となる。

温暖な気候をもとめてフォルカルキエに移り住む。

1953年

3月23日、フォルカルキエで心臓発作のため死去。ニース、シミエ修道院墓地に埋葬。

Last modified: 2004-06-04
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