6月3日、ル・アーヴルに、小さな金属会社に勤める会計係、レオン・マリウス・デュフィと、マリー・ウージェニー・イダ(旧姓ルモニエ)の次男として生まれる。家族はみな音楽を愛し、ラウルの兄弟のうち2人はのちに音楽家になった。
家庭の経済的事情により、サン・ジョセフ中学校をやめ、スイス人が経営するブラジル・コーヒー輸入会社、リュティ・エ・オゼールで働き始める。
ル・アーヴル市立美術学校に入学。オットン・フリエスやジョルジュ・ブラックらとともに、夜間課程でシャルル・リュイリエの指導を受ける。
兵役につく。
ル・アーヴル市からの奨学金を得てパリの国立美術学校に入学、レオン・ボナの指導を受ける。フリエスとコルトー通り12番地のアトリエで共同生活をする。
マティスの『豪奢、静寂、逸楽』を見て、フォーヴィスムへ向かう。
ブラックとともにエスタックへ旅行し、セザンヌ風の作品を描く。
フリエスとともにミュンヘンへ旅行する。
ギヨーム・アポリネール『動物詩集』のために木版画による挿絵を制作。
モンマルトル、ゲルマ小路5番地にアトリエを借りる。プティット・ユジーヌ(「小さな工場」)というテキスタイル工場で、ファッション・デザイナーのポール・ポワレのためにデザインの仕事をする。
リヨンの絹織物業者、アトゥイエ・ビアンシニ・フェリエのアート・ディレクターとして働く。
ジャン・コクトー『屋根の上の牡牛』の舞台装置を制作。
イタリアへ旅行。
ポワレとともにモロッコへ旅行。
パリ、ヴィアール博士のダイニングルームの壁面装飾の制作を開始(1933年に終了)。
電気館のための装飾を完成。多発性関節炎に苦しみ始める。カーネギー賞審査員としてアメリカへ赴く。
ニース、その後、ペルピニャンに移り住む。
アルマン・サラクルー『ル・アーヴルの婚約者たち』の舞台装置をデザインする。
ボストンでコーチゾン療法を受けるため、アメリカへ赴く。
第26回ヴェネチア・ビエンナーレの絵画部門で1位となる。
温暖な気候をもとめてフォルカルキエに移り住む。
3月23日、フォルカルキエで心臓発作のため死去。ニース、シミエ修道院墓地に埋葬。
Last modified: 2004-06-04