Carp-Box …The spirit of the pond

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コーンウォールの池のほとりで

心より釣りを趣味とする人ならば、トム・オライリーの「コーンウォールの池のほとりで:The spirit fo the pond、翔泳社刊」を手にした方も多いかも知れませんが、小生はこの本を読んで、深い感動に包まれた一人です。
どうして英国人は、このように釣りに対する哲学というものが、しっかりと持っているのでしょう。

さて今回は、この書の中であげられる、印象深かったいくつかのフレーズを紹介して、小生のコメントをつらつら話してみたいと思っております。すでに読まれたアングラーも、まだこの名著を手にしていない東洋の釣師も、トム・オライリーの世界を楽しんで頂ければ、これに勝るよろこびはありません。



魚釣りの神髄は学ぶことにある

本は、このフレーズから始まるわけですが、この精神は全章を貫かれております。「魚釣りの精神は学ぶことにある。魚のことだけではない、自然やまわりの世界について学ぶ、それが釣りだ。」

この言葉の背景にある、美しい英国南西部コーンウォール州の田園風景に勝るものは、そんなに多くはないでしょうが、釣りを通して魚や自然と会話している限り、それは場所を選びません。たとえ濁った水が蕩々と流れるような大都会の河川でも、それは同じ事なのです。

職漁師ではない我々にとっては、釣りは単なる目的ではないと感じております。あえて申し上げれば自然と会話するための手段やツールなのかも知れません。ビッグフィッシュを釣り上げて「俺はもうこれで釣りは卒業だ」と言える釣り師がいくらいるのか? なお、もとめて止まぬものがあるのから、人はまたフィールドに出かけていくのでしょう。




浮木は現実と夢をつなぐ命綱だ

小生も含めて、近年は釣り技法の発達によって、魚との会話もデジタルになってきております。「コイ釣りを楽しむいまの人たちはどうだろうか?ものものしいバッテリーやロッド、リールと万全の仕掛けをととのえて、三オンスの錘で水底に固定した鉤餌に獲物が食らいつき、電動アラームが鳴るのをただじっと待つ。きょうびのコイ釣り人は、浮木のもつ隠れた力を忘れている。」

これは耳の痛い話、小生自身は電動アラームを使った釣りをしているわけではありませんが、釣り道具となると新しいタックルに目移りしてしまうし、浮木なぞは久しく棚の奥からは出されていません。

人生も半ばをすぎたいま、これからは、長い間忘れられていた浮木釣りの世界に、また回帰してしまおうかとも、最近は思っております。

たしかに水面に浮かぶ浮木を見つめているとき、そこには生涯の幸福につらなる別世界との接点になっているような気がしてまいります。浮木の動きを何時間でも追ううちに釣り人はますます深い陶酔にのめり込んでいくのでしょう。素朴な道具で会話をする。これが釣りの原点を知る術になるのかも知れません。



「いろんな人間がいて、いろんな釣りスタイルがあるとすれば、どんな方法や道具を使うかで、その人なりも分かってしまう。きょうびのコイ釣り師をみるにつけ、誰かが目新しいことをすると、我も我もと、その後追いに走る向きがあまりに多い気がする。」

この言葉は、今日の日本の他の釣りでも同じ、情報が多すぎて、自分の頭で考えることをしなくなってしまっている釣り人が大勢おります。自分自身への反省も含めて考えてみたい内容です。



釣りの基本はストーキング

トム・オライリーの釣法は「待ち釣り」ではなく、魚にそっと忍び寄る「ストーキング」であるそうだ。日本語では別の変なニュアンスが強くなってしまうので、適当な和訳となると「サグリ釣り」とでも云えるのでしょうか?
トムの挿し絵
釣りの時間の六割を獲物を探すことに費やしているそうで、池の畔の木の上によじ登って、沈木や水草の脇にいるコイを探す。そしてパンやフレーク、注射器で空気を入れたミミズ(!)などを魚の鼻先に落とし込んで釣る、といった独特のスタイル。

これで20ポンド強のコイを、10ポンドテスト程度のラインと、お気に入りの細い特注竹竿で釣り上げるという。使用するリールなどは小型のスピニングリールやタイコリールというのだから凄い話です。



気の短い小生も「待ち釣り」は苦手で、このスタイルは好きです。ただ、小生の場合は池ではなく、川ということになりますので、変化が大きく魚の回遊範囲も広い、このため下手にさぐるとコイの群とすれ違いになり続けるという、トレンディドラマのような展開となってしまう危険もありますが(笑)。

「ストーキングの極意は五感を研ぎ澄ますことにある。魚を見つける為に、目で見て、耳で聴き、肌で感じること。そして、すべての釣りに共通することだが、今期と粘り、それに少しの幸運があれば鬼に金棒だ。」



釣り人と直感

釣りをしていると、不思議な第六感もときどき感じてしまいます。「僕が思うに、釣り人の成功の秘訣は、体力・感受性・ひそかな自信の三つである。僕は自信不足の釣り人たちをたくさん見てきた。釣り場は正しいか、餌は正しいか、道具は最適かなどと、いろいろ心配ばかりしている。一日あるいは一週間の釣りのしょっぱなからおぼつかないのでは、結局<坊主>に終わるのも無理はない。」

こんなことを云われると、小生なぞはいつもBOZとなって当然という感じになってしまうが、トム・オライリーが云いたいのは「一旦フィールドに構えたらには、自信をもって事に臨め!」ということではないでしょうか。
自然相手の釣り、心配したらキリがありませんので、そこは割り切って、手持ちのカードでベストを尽くすこと、ということは、釣りに限らず絶対必要なスタイルでしょうね。



池の精

この「池の精」というのは、彼がしばしば取り上げる概念で、池に宿る生命体のようなものなのかも知れません。よほど気に入っているとみえて、馴染みの釣り具ショップに特注して作らせた愛竿にも、この名を与えております。

トムの挿し絵
「熱心な釣り人は環境保護論者より、よほど野生動物をよく見ていると、僕は信じて疑わない。池や川や湖は自由奔放な生き物たちの聖域だからだ。」

このように自然と会話するチャンスが最も高いのが、釣り人です。熱心な釣り人は、「池の精」とすら会話が出来るようになると、彼は感じております。池の周りに散乱しているゴミを拾ったり、池の魚たちを手荒く弄ばず、優しく返してやることで、やがて「池の精」から御褒美(獲物)が来ることもあるのです。

時として穂先を折るのは、釣り人の過ちだけではなく、「池の精」のメッセージなのかも知れません。聖域に集う一員としての釣り人に、彼等が時として「奢り」をもってしまったときに、自然界のルールを知らせるメッセージなのかも知れません。



本の「あとがき」にも載っておりましたが、英国コーンウォール州といえば海釣りが相場なのに、トム・オライリー氏は自宅そばの小さな二つの池を、その舞台にしております。
しかも、このエッセイの流れには、とりたてて大仰なところもない、地味な展開なのですが、その醸し出す味わいは、かのウォルトンの「釣魚大全」にもつらなる空気を感じさせます。

流行のハイテク釣法やフライフィッシングなどにも目もくれず、ひたすらオールドスタイルの釣法を極めていく。このようなスタイルを見るにつけ、英国文化の底の深さを伺い知ることができるわけです。

英国の偉大な画家、Jコンスタブルの「干し草車」。英国の田園風景は、我々日本人にも深い感動を与えます。

「干し草車」
さて、小生の筆力では、この本の素晴らしさの、ほんの一端しかご紹介できません。少しでも気になった方は、一度手に取り、ごらんになれば、敢えて小生がご紹介した意味をお分かりになって頂けるでしょう。

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