gaia …生物多様性雑感

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COP10@2010

CSチャンネルの影響もあり、最近読み始めているのが「ナショナル・ジオグラフィック=ナショジオ」です(もちろん日本語版)。科学的な好奇心を満たすために、なにかきっかけとなるようなネタがあればと思い、読み始めていますが、2009年10月号はなかなか充実していました。

そこでは「生物多様性」の特集を組んでいたからです。地球温暖化のテーマ同様に、生物多様性は各国で問題になっている事柄でもあり、たしかに国際的自然科学メディアでもある、ナショジオの取り上げていくテーマとして相応しいものです。(今号によれば、十年前からナショジオ日本版では、このテーマを取り上げ始めたようです)

このテーマを取り上げていく場合、まず先に話しておかねばならないことは、来年、名古屋で開催される「COP10」についてです。これは
生物多様性条約の締結国が開催する、第10回目となる国際会議の略称です。2010年というのは、国連の定めた「国際生物多様性年」であり、さらには、オランダ・ハーグで、1992年に開催された「COP6」で採択された方針「各締約国は現在の生物多様性の損失速度を、2010年までに顕著に減少させること」、これの目標年度でもあるので、かなり重要なタイミングでの会議開催になります。

それでは、これほどまでに国際的に注目されている「生物多様性」というテーマを、あんまり大袈裟ではなく、小生なりの目線でかじってみたいと思います。




生物多様性って何?

巷でよく使われている「多様性」という言葉は、その表現通りに「さまざまのものが並存している状態」つまり「種類が多い様(さま)」ということになるのでしょう。反対の言葉は「均一性」や「単一性」ということになります。そして、今いろいろな場面で云われている「多様性」という概念は、主として生物生態系のようなものを対象にして使われているようです。

小生がよく引用する言葉の一つに「森羅万象」というのがあります。これは、この地球や宇宙に発生し、存在する、ありとあらゆる事柄、とかいう意味合いですが。生物の多様性とは、もう少しダイナミックに、生き物同士のつながりも意識した「混在状態」をポジティブに捉えた概念、というのでしょうか。個体間あるいは種間の、さまざまな相互関係がバランスされている状態の価値を意識した言葉だと思います。

生物多様性という概念には、以下の三つの切り口があるそうです。

種の多様性(生きものの種類の違いの多様性)
遺伝子の多様性(同じ種の中の個体差的な多様性)
生態系の多様性(環境がつくるシステムの多様性)

夜の林。ヒトの知らないところで、小さな生き物たちの営みが続いています。彼等は昼間と夜間、それぞれの環境で棲み分けをしています。これも多様性とみなされるでしょう。
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たくさんの種類の生き物がいること、同じ種でもいろいろな特徴をもつものがいること、生き物を育む様々な自然環境があることなどを「価値」として、それを生物多様性と呼んでいるようです。それぞれの局面で「違っていること」の重要性を訴えているわけです。私自身、全てにおいて、この「違っていること」はとても大切だと思って、今までの人生の中でも、「違い」を尊重するような生き方をしてきました。これはどうやら生態学的にも間違ってはいなかったようです。

ところが、翻って見てみると、いま私たち人間が進めている経済活動の多くは、グローバリズムとかデファクト化とか、何か優越な一つをモデルにして、それに特化していくことなど、まるで正反対のことを、ひたすら進めてきてしまいました。生産性や、経済合理性などから見ると、それが最も効率が良いのでしょう。こういった歴史の中で、人間の意識からは「違うこと、あるいは異種への敬意」などは薄れてしまい、価値観なども単一化が加速しているような印象です。

従って、生物多様性の議論も、ある程度進めていくと、私たちの日頃の営みと相反するような事柄が、次々と出てきてしまいます。哲学とか云うと構えてしまいますが、一人一人の考え方もしっかりと持つことが求められてきます。私たち「ヒト」という種も、生物多様性のなかでの一員であり、これを考えることは、すなわちヒトの未来を考えることでもある、と言っても差し障りないと思います。




どうしたら良いの?

よほどのへそ曲がりでない限り、生物多様性の大切さについては、誰しも同調できると思います。多様な生態環境を出来れば壊したくはないでしょう。ただ、ちょっと難しいのはその守りかたです。

同じような、地球的環境テーマの一つに温暖化対策があります。でも、温暖化対策は、その道のりの険しさは別として、やるべきことは比較的分かりやすいです。とにかく二酸化炭素排出を、あらゆる手法を用いて地球規模で低減させていく。このことが温暖化の対策として有効であるからです。そして、対象となる二酸化炭素排出量は数値として把握することが出来ます。指標も数値も具体的だからです。

ところが「多様性」というのは、なかなか指標化しにくいところがあります。例えば、種の多様性について「とにかく、生きものの種類が多ければ多いほうが良いんだー」ということでしょうか? 反駁するために物事を極限まで単純化します。例えば珍しいトカゲとチョウとセミが三種類も住んでいる森が、アブラゼミしか鳴かない林より価値があるかどうかなんて、神さまでもない限り明白には言えません。

ガマ君をじっと見ていると、こちらが見透かされたような気になります。ガマ君が何を考えているのかは分かりませんが、環境が自分に合わなくなると、いつの間にか消えて居なくなってしまいます。
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どうも、生物多様性が優れている状態という定義は、そう単純な話でもないと思います。おそらく、その場、その生態系で限定される許容量のなかで、「多くの種が混在し、且ついちばん自然なバランス」で、生き物たちが棲み分けされている状態を指すのだと思います。でも、これを普遍的に定義することは、ほとんど不可能です。個々の生態系にとって「しかるべき種の数」「いちばん自然なバランス」は異なるわけで、つまり「解」は千差万別ということになります。

求める解は、指標として明確でないので、例えば「××川の生物多様性を守ろう」とか言って、何かの活動をやろうとしたら、おそらく人によって、かなり違った計画になるのではないでしょうか?ある人はサケが上がっていた、先ずは古きよき生態系を志向するかもしれません。別の人は最近増えてきた外来魚の駆除を叫ぶとしましょう。何となく似たような方向性をイメージしているのでしょうが、具体的アプローチにはかなりの温度差が生じます。つまりベクトルがまとまらないという懸念があります。

そうは云っても、小田原評定を繰り返して、このままズルズル無策のまま、事態をさらに悪化させるようなことは避けねばなりません。また、理念だけでは生物多様性を救うことは出来ません。生物多様性の瓦解が、私たち人間の営みで進んでいるのでしたら、それを是正するのもまた、人間の活動ということになるでしょう。そして、私たちがすぐに出来ることは、大仰なことではなく、足元から見直していくことだと思います。近所の公園でも緑地でも良いのです。もっと身近な、自分の家の庭でもベランダでも良いのです。野鳥や小動物が増えていくような仕組みを、少しずつ整えていくことだと思っています。

そのやり方は、じつは小生自身も始めています。それが模範解答かどうかは、小生もよく分かりません。分かりませんが、小さな命の火が、少しでも増えていくこと、そうすることで命のつながりも、小生もまったく掴んでいない形で、少しずつ広がっていくものではないかなと想像しています。スケールはとてもプチですが、それこそ生物多様性の綻びを直していく出発点のような気がするのです。




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