0  ─プロローグ─

 

 深夜、午前二時。

 この時間にもなると、さすがに表通りから離れた住宅街に、人気を見かけることもない。

 そんな静まり返った路地をゆっくりと歩きながら、彼は夜の散歩を楽しんでいた。

 年の頃は二十歳前後。少々目つきの悪い彼は、黒のスーツに白いシャツ、ネクタイなしといった、社会人としてみれば比較的ラフな格好をしていた。シャツのボタンの上のいくつかが外れており、それが彼をさらにワイルドに見せている。

「静かだな」

 ふと呟く。

 が、すぐに今の台詞が当たり前のことなのだと気付いて、その可笑しさに冷笑した。

 彼は疲れていた。身体的なものだけでなく、精神的にも、珍しく遅くまで仕事がかかったことが早く帰宅して療養したい気分に駆り立てる。普段ではありえない帰宅時間になってしまっていたことも、疲労の原因の一つだった。

 それでも気分は悪くない。そうした気持ちに落ち着くのは、こうして夜独特の世界に触れているからだと、彼は本能的に気付いていた。

 夜は人間の感覚をシャープにするとはよく言ったものだと、彼はその身と精神を開放しながら、そう思った。

 だから夜は嫌いじゃない、とも思う。

 そんなことを考えているうちに、彼は自宅付近の公園まで来ていた。

 職場からの帰路の途中にある、どこにでもあるような一般住宅街の外れにある小さな児童公園だった。

 壊れかけの街灯。端の方が腐ったベンチ。錆びて塗装が剥げてしまった滑り台や鉄棒。砂というよりはごみ溜めと言った方が正しいと思えてくるほど汚れた砂場。

 が、昼間ですら子供が寄り付かないこの公園が、実は彼はお気に入りだった。ここまで寂れていては、そうそう人が来ることはない。比較的、というよりはかなり孤独を好む彼にとって、家以外に落ち着く場所のひとつがこの公園だった。

 その公園に入りかけて、ふと彼はその歩みを止めた。

 いつもと違う何か──違和感。それを感じて、彼は公園に入るのをやめた。

 人がいる。

 パチパチと点いたり消えたりする街灯の下に、明らかに人の物と思える影が見えた。

 自然と彼の視線が鋭くなる。

 と、向こうも彼に気がついたらしい。電柱に身を預けていた人影が、ユラリと揺れた。

 そして、そのままゆっくりと彼の方に歩み寄る。

 その人影がどうやらまだ子供らしいと分かったのは、その影が随分と小柄であったからだった。少しずつ、はっきりと姿が明らかになるその子供の方を見つめながら、しかし彼はその場から動くことができずにいた。

「こんばんは」

 そう言って姿を現した人影の正体は、まだ中学生ぐらいの少女だった。黒いレザースーツに身を包んだその少女は、どうやら日本人ではないらしい。端正な顔立ちは間違いなく美少女の部類に入る。またそのロングヘアーと瞳は、人工では作り出せない純粋な朱色に輝いていた。

 その少女の挨拶には答えず、彼は一転して不機嫌そうに口を開いた。

「子供がこんな時間まで何をしているんだ?」

「待っていました」

 静かに、だがはっきりと言う少女に対し、彼はさらにその視線を険しくした。

 流暢な日本語。顔立ちからして北欧の人間に見えなくもないが、外国との接点がない彼にはそれを知るすべはなかった。

「何を?」

「貴方を……待っていました」

 少女の返答は、彼にしてみれば予測のついたものだった。公園に立ち寄ったときの違和感は、この公園に少女がいたからではない。今もなお、この少女から強く感じる異質な気配。彼が知る限り、その気配の呼び方はひとつしかなかった。

 殺気。

「いいから、子供は帰って寝ろよ」

 それには気付かない振りをして、彼は怒気を含めてそう言った。が、少女はまったく動じず、ゆっくりと首を横に振る。

「帰れません」

「なぜだ?」

「それが私の宿命だからです」

「…………」

 その意味を計りかねて、彼は眉をひそめた。

 『使命』というのなら話は分かる。誰かに依頼されたか任命されたのであろう仕事、または任務のことだ。だが『宿命』。この少女は確かにそう言った。

「宿命?なんだ、それは」

「私が生まれた意味を知ること。そのために……」

 さも当たり前と言った風に、少女は言った。それと同時に、重心を落とすように少しだけ足を開き、彼に対して半身に構える。

 そして、少女はその冷淡な声で、静かに告白した。

「貴方を殺します。神楽双真」

 

      …

 

 ダンっ──という音は、少女が地面を蹴ったものだった。彼──神楽双真までの距離は少女の歩幅で約十歩程度。その距離を、一回の踏み切りだけで詰める。

 前傾姿勢で間合いに踏み込み、未だポケットに手を入れて仁王立ちしている彼の胸部に、少女はその拳を打ち込むべく腕を振りかざした。時間にして、一秒にもならない刹那の瞬間。

 当たる!

 少女がそう思ったその拳は、だが虚しく空を切った。

「え?」

 思わず、声を上げる。勢いで前に倒れそうになる身体を、少し無理なステップで何とか立て直し、今まで彼がいた方を振り返った。その瞬間、

「その程度じゃ、俺を捉えられねぇよ」

「!」

 突然背後に出現した気配に、少女は身を固くした。視線だけをその声の方向に向ける。が、それすらも間に合わず、ガンッ!という衝撃と共に、少女は数メートル先まで吹き飛ばされた。

 そのまま地面に突っ伏す。が、その反動を利用してすぐに少女は起き上がり、彼の方に向き直った。

 背中に感じる痛み。

 自分に痛覚があることを実感して、少女は少しだけ安堵した。それと同時に、言い様の無い不透明な感情が少女にわきあがる。目の前の男の動きが、少女には信じられなかった。

「よけた……?」

 呆然と呟く。

 呟いて、そんなはずはないと思い返した。よけられるはずがない。あの速度に反応できるとなれば、それはもう人間業ではない。

 だが事実として、少女の拳は彼にはあたらなかった。

 それだけではない。体制を崩して一瞬の隙ができたとは言え、さらに彼は自分の背後に回り、こちらが反応するよりも早く攻撃を入れてきた。

 その彼の方は、先程の場所から一歩も動いていないようだった。視線は獣のように鋭いものの、両手をポケットにいれているのは相変わらずで、構えとも言えない姿勢で少女と対峙している。

「今、どうやってよけましたか?」

 その少女の反応に満足したのか、彼は少しばかりその視線を弱めた。

「別に。ただ上に跳んだだけ」

「え?」

 あまりの簡潔な返答に、少女は一瞬自分の耳を疑った。

 上に跳んだ。しかし自分には見えなかった。前傾姿勢になっていたこともあって上空は確かに死角だったが、そんなこととは関係なく、少女は彼の動きを見ることができなかった。

 それはつまり、彼の方がさらに動きが速かったと言うこと。それは戦いにおいて、致命的なまでの実力の差になる。

 まだ信じられない少女に、彼は諭すように、だがはっきりと言った。

「今ので分かっただろう?君では俺には勝てない。確かにさっきの動きには驚いたけど、見切れないほどのものでもない」

 淡々と言う彼の言葉を、少女はただ黙って聞いていた。信じられないという気持ちに変わりは無い。人間のレベルを超えた動きをした、いや、その動きができるはずの自分を、この青年は見切ったと言っているのだから。

「さて、通告だ」

 そこで、彼は一度言葉を切った。

「引け。もし本気で殺り合う気なら、確実に君を殺すことになる」

「…………」

 その彼の言葉に、少女は一瞬迷ったようだった。だが一度、心を落ち着かせるように深呼吸すると、彼を真正面から見据えて言った。

「わかりました。今日はここで引かせていただきます」

「今日は?……また来る気か?」

「はい」

 きっぱりと少女は断言した。どうやら言っても無駄らしいことに気付いて、彼は諦めたようにため息をついた。

「貴方を殺すことが私の存在意義ですから」

「わかった。だが狙うなら俺が一人のときにしろ。事後処理が面倒くさいから」

「……それは、私がまた貴方を襲う条件ですか?」

「ああ、もう好きに解釈してくれて結構」

 どこかやり投げに言う彼に、少女は軽く一礼した。そのままきびすを返し、この場を去る。

 一方後に残された彼のほうは、優位に立っていたにも関わらず、随分と疲れたようにもう一度深くため息をついて、ゆっくりと再び帰路についた。



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