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「どういうおつもりですか?」
部屋に入ってくるなり、彼は静かに、だがはっきりと怒張を含めてそう聞いた。
年の頃は三十台半ば。ほどほどの身長に、筋肉質でない程度に引き締まった身体。実際にはまだ二十台で通るような風体の彼は、今は怒りのためか、かなり険しい表情をしていた。
が、それを向けられた四十代後半らしき女性は、涼しい顔であっさりとそれを受け流した。
「どうもこうもないわね」
言い切る。その言葉に、彼は一瞬躊躇してしまった。その隙を狙って、彼女の言葉は続く。
「今回の件について、部隊を日本に送ることはできない」
「だから、どういうつもりかとお尋ねしているのです」
彼の怒りの度合いがさらに上がったようだった。彼を知る者にとって見れば、普段笑顔でいることの多い彼のこのような表情をみるのは珍しかった。それだけに、もう少し見てみたいとその女性は思ったが、そんな余裕はないなとすぐに思い直す。
「司令!」
まだ理解していない彼に対し、司令と呼ばれた彼女は、ふうっと小さくため息をついた。
「一週間後に本国で行われる政府主催の会議とその後のパーティ。そのための政府要人の警護の予定が入っていることは君も知っているはず」
「それはわかっていますが……」
「その件に関しては『龍』の動きがあるとの報告も受けている。当然知っているわね。なら、より一層警備の強化は必須。現時点で、日本に人員を回している余裕はないわ」
「しかし……十ヶ月前の事件。日本の海鳴市さざなみ寮をおそった組織の残党が、甲龍という男を筆頭に再び活動を開始しています。甲龍とて元『龍』の人間です。僕らが動かないと……」
「なら、誰が行くの?」
「僕の小隊が行きます」
そう言い切る彼に、だが彼女は、再びため息をついた。
「情報では『鴉』も動いていると聞いてるわ。それに加えて警備と『龍』対策。現在稼動可能な部隊はあなたの小隊だけ。なら、あなたに『鴉』の迎撃をしてもらわなければならない。人員的な余裕は今の私たちにはないわ」
「『人喰い鴉』ですか……」
「そうよ。現在まで、私たちの同胞も幾人か彼女に殺られている。あなた以外に『鴉』と渡り合える人は、少なくとも私の記憶にはほんの数人しかいないわね」
「けれど……」
なおもしつこく食い下がろうとする彼に対し、彼女は今度は呆れたようにため息をついた。そして、有無を言わせない口調で言い切る。
「あなたは私にこう言わせたいの?樺一号。これは決定事項だ。いますぐ任務につきなさい、と」
「くっ!」
何も言い返すことができなくなって、樺一号と呼ばれた彼はあえなく沈黙した。そんな彼の様子を伺いながら、ふと彼女の表情から険しさが消える。
「……あなたが心配するのもわかる。向こうに娘と家族同然の人がいるのでしょう?だが、だからと言って、君はここでの任務を放棄するのか?」
「……それは……」
答えあぐねている彼に対し、彼女は冷静だった。
「違うだろう?君がこの部隊に来たのは何のためだ?法の下に、人の人生を弄ぶ外道どもを根絶やしにするためだろう」
「はい」
「君の気持ちもわからなくはないけれど、ここは自重しなさい。わかったわね?」
「わかりました」
言って、彼は軽くお辞儀をして部屋を去ろうとした。が、
「手は打ってあるわ」
彼女の口から発せられた次の言葉に、彼はその行動を間一髪で中断できた。勢いに任せて部屋を退室しなかったことに安堵しながら、彼女の方に向き直る。
「司令?」
「このまま家族が心配で任務に身が入らないと困るから教えるわ。甲龍を逮捕する手は打ってある」
「え?」
彼女のいっていることがあまりに唐突だったため、彼は間の抜けた返事しか返すことができなかった。
「いくらなんでも、甲龍とその配下の連中を野放しにしておくほど私は愚かでもなければ、だからと言って、自分の部下をそれに割ける人員的余裕もないのに回してあげるほどお人よしでもないわ」
彼女が何を言いたいのか分かりかねて、彼は怪訝そうな表情を見せた。それを見て、何が可笑しいのか、うっすらと笑みを浮かべながら、彼女は続けた。
「要するに、奴らを捕まえるための手段は既に投じてあるということよ」
「手段?」
「企業秘密」
「え?」
「詳しくは教えられない。悪いけどね。ただこの件に関しては私の知人に頼んでいるから、その点は問題はない」
「問題ないですか?」
「ないわね」
押し問答ともいえないやり取りだが、彼女ははっきりと自信を持って答えている。
この時点で、彼は思考を仕事の方にシフトした。
仮にも彼女は自分の上司。信じるに値するからこそ彼女の元に就き、彼女の指示に従っていままで数多くの戦場に赴いた。
ならば……。
「信じます」
その言葉に、彼女の表情に柔らかさが戻った。
「ありがとう。なら、もう行きなさい。任務の方、よろしくね」
「はっ!」
敬礼をして、彼は部屋を出て行った。
その後姿を見送りながら彼女は、独りごちる。
「本当に心配性ね。情報に頼らずとも、さざなみ寮がちょっとやそっとの戦力で落ちるほどやわではないことは、その管理人だった自分が一番知っているでしょうに」
そこまで言って、彼女は一度言葉を切った。
ふと、その海鳴りで活動を開始した組織のこと考える。
その頭である甲龍という男は、情報ではかなりの切れ者だということだ。
彼には、樺一号にはああ言ったが、彼女が講じた手段があくまで時間稼ぎにしか過ぎないことは、彼女自身自覚していた。彼の言っていた甲龍という男が、危険だという認識は彼女にもある。だからこそ、一週間後の仕事が終了次第、速攻で日本に部隊を送ってやつらを殲滅するつもりでいる。
彼には言わなかったが。
「今は彼女に任せるしかない。それでも、今の私にはこの程度のことしかできないわね」
香港特殊警防隊の司令である自分にできることがその程度でしかないことに、彼女は今日何度目かわからないため息をついた。