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彼がさざなみ寮に来る少し前──
知佳は神奈と愛から、事前に今度来る管理人の代理が男性だと聞いていた。
名は槙原耕介。愛と従姉弟というだけあって、苗字が同じだったことに何故か感心した覚えがある。聞くところによると、神奈の姉である槙原彰子が切り盛りしている洋食屋サフランでコックをしているらしい。
その他、家事関係についても、小さい頃から姉さんが仕込んであるから万事大丈夫、というのは出かける前の神奈の台詞。
だから、料理についてとその他仕事については心配していなかった。
問題は自分たち寮の住人とどう付き合ってくれるか、である。
神奈が旅立つ前日、知佳は彼女に呼び出された。そして、愛にも秘密の話を神奈から聞くことになる。
耕介が『HELL&HEAVEN』で暴れていたことは神奈も知っていたはずだ。いくら解散して三年経ち、随分大人しくなっているとはいえ、それでも心配して損はないと神奈は踏んだのだろう。
「耕介ちゃん、結構昔ブイブイ言わせてたのよ。今は落ち着いてるし、頼りがいのあるお兄ちゃんに育ってるけどね」
「大丈夫なの?そんな人に女子寮の管理人まかせて」
「うーん。まあ、根は真面目だし、基本的に優しいことには違いないからね。昔から年下には好かれていたし。大丈夫よ」
「なら、いいけど……」
「けれど万が一ってこともあるから。知佳坊にこの話をしたのはね、つまりあの子がここでやっていけるかどうか、少し見張っててほしいなって思ったからなの」
「見張るって……」
「知佳坊が人の心を読むことを好きじゃないのはわかってるけどね。愛ちゃんは従姉弟だし、まゆ坊はああでしょ?美緒や薫ちゃんに頼むわけにはいかないし」
そう言われて知佳も納得した。確かに他に人材がいないことを考えれば仕方ない。
まず人見知りの激しい美緒。それから、硬派で真面目な薫。このふたりとは間違いなく衝突するだろうと、知佳は密かに確信していた。
それから、姉の真雪。
根本的なところで人間嫌いの傾向があり、さらには傍若無人な性格をしている真雪とどう付き合ってくれるのか。
心配の種は尽きなかったが、その数日後、神奈と入れ替えに耕介が来て──そして初日。
予想通り二人が反発。姉の真雪ですら、マスターキーに関しては反対した。結果は知佳が提案した、「耕介が管理人に相応しいと判断したら、キーを各自で渡す」ということになった。これ以降、実は数年に渡ってこのシステムが継承されるとは、さすがに予想はしなかったが。
実はこの時も含め、知佳は幾度か耕介の心を読んでいた。
困惑。不安。自分の居場所がないことへの戸惑い。それと同時に存在する、羨望。この時はまだ、何故彼が自分たちを羨ましく思っているのかわからなかったけれど。
それからまもなくして、美緒が耕介に心を許した。その時彼の心にあったのは、紛れもなく少女に対する愛情だった。
何故だろう、と知佳は考えてみた。代理にしか過ぎないこの人が、何故一時しかいることのないさざなみ寮の皆に優しくするのだろうと。後で聞いたところでは、美緒のために子供用の食事を作って置いたらしい。仕事のために不規則になっている真雪にも、わざわざ食事を作ったりもしている。
彼がそんな気配りをする理由がわからなかった。
仕事だから?いや、それもどこか違う気がする。彼の心はもっと温かいものだったから。
そして美緒と耕介が仲良くなった翌々日、考えすぎたこともあってか、知佳は熱を出して倒れた。
寮には耕介と美緒、十六夜しかいない。十六夜はまだこのとき耕介の前に姿を見せるわけにはいかなかったから、結局耕介に世話になることになった。
熱を出して寝込んだその時以前から、耕介が自分の病気に疑問を持っていたのは知っていた。あれほどの投薬と定期的な通院をしていると知ればそれも無理はない。
けれど、耕介は聞かなかった。話してくれるまで待つという彼の言葉が、知佳には素直に嬉しかった。
火照った身体と、朦朧とする意識の中で考える。猫の耳と尻尾をもつ美緒の存在を、いとも簡単に受け入れた耕介のことを。
そして、信じてみようと思った。
耕介という一人の男性の心の大きさを。性別よりも先に、まずその人そのものを見ることのできる感覚を持っていることを。
だからその翌日。知佳はお世話になったことを口実に彼を外に連れ出し、自分の病気について語った。変異性遺伝子障害病、その中でも特殊な高機能性。ピアスをいじって、フィンを広げる。
彼は驚いていた。それは当然だろうと思う。拒絶されても仕方ない、自分はそういう存在なのだから。
けれど、耕介から出た言葉は、
「綺麗だ」
というものだった。それは昔、姉からも言われた言葉。
彼の心が自然と自分の中に入ってくる。彼の気持ちが真実だと切実に語りかけてくる。
嬉しかった。
どんな病気だろうと、どんな能力を持っていようと、耕介は仁村知佳という少女を見てくれている。その言葉と気持ちを含めて、今この時、彼がこのさざなみ寮にいることが嬉しかった。
その後マスターキーを渡して、知佳は自分から切り出す。
それは以前から思っていたこと。優しくて、天然の気がある愛のペースについていけて、真雪の世話ができるような兄がほしかったと、彼に言ったのは紛れもなく彼女の本心だった。
だけどそれ以上に、家族として、この人の妹になりたいと思った。
そして管理人代理最終日、耕介が正式に管理人としてさざなみに残ることになって。
それがまた嬉しくて、知佳は一層彼に甘えるようになった。それは姉の真雪が人前で甘えられることを苦手にしていることもあったけれど。
それがいつからだろうか。純粋に好きという気持ちが、一人の女性として恋に変わったのは。
いや、きっとあの時。熱で倒れて、昔のことを思い出した時。
だれにも相手にされず、いてもいなくても変わらない。何もできない、迷惑をかけるだけだった頃の自分を思い出して、自暴自棄になりかけていた時。
強く抱きしめて、いい子でいなくても知佳が必要だと励ましてくれた耕介の胸の中が温かくて。
血が繋がっていなくても、妹として大事にしてくれることが嬉しくて。
いつか、一人の女性として彼の隣にいたいと思った。この場所を、彼の妹の位置を誰にも渡したくないとまで思った。
だからより一層彼に甘えて、心地よい日々を送って……。
けれど、結局告白はしなかった。
耕介が自分を妹としか見ていないことも知っていたし、それでも好きという気持ちを持つことは素敵なことだと思ったから。
それからしばらくして、リスティがさざなみ寮に来て。リスティやそのクローンであるフィリスやセルフィを助けることで、知佳は生まれて初めて、能力者として生まれた自分を好きになった。
夏休みに感じた、自分の能力で人助けができるなら、自分が傷ついても構わないという意思の下に。
未来を決意する。
自分の能力をレスキューに役立てることを。
その話を知っているのは、耕介と心が読めるリスティだけ。
この話をしたとき、耕介は「好きなようにやってみなさい。知佳が危険な目にあうのは正直怖いけど、知佳の誰かを助けたいと思う心は大事だと思うから」と言ってくれた。
耕介は知佳にとっては何よりも心強い見方だった。
だから、今日の耕介の話を知佳は信じられなかった。
あの優しい兄が。
自分だけでなく、寮生みんなから慕われている耕介が。
そんな過去を抱えていたことが、薫を自らの意思で殺そうとしたことが、知佳には信じられなかった。
愛の質問に、黙っている兄の次の言葉がとても怖い。
もし耕介が出て行くことになったら、どうすればいいのだろう。自分はどうしたいのだろう。
わからない。
彼がいなくなることなんて考えたくない。
そして、知佳は泣いた。
声を出さず、静か涙した。
…
自分がここに来て──
初めて優しさを知った。
初めて家族の温かさを知った。
教えてくれたのは耕介。そして愛。かつて、シンクレア・クロフォードの姓を名乗っていた少女は、この二人によって心を救われた。
他の住人が何もしなかったわけじゃないことは、リスティも十二分にわかっている。
けれど彼女にとって、耕介と愛は特別だった。
研究所にいた頃、自分が生まれた素性について、リスティは一種の諦めを抱いていた。
高機能性遺伝子障害病。通称HGS。
念動者としての能力値が高い自分は、その能力を高めるために戦闘訓練を受けた。相手は自分そっくりのクローン人間。表社会ではいまだ発展途上の技術も、裏においては可能なのだろう。かなりの高性能を受け継いで誕生させられた彼女たちに、オリジナルとして倒されるわけにはいかないという周りの大人の言うとおり、彼女は何人もの人工生命を倒してきた。
そして、戦闘人形になるべく課せられていた多種にわたる投薬と、数え切れない手術。
いつしか記憶が混濁し、生きることへの執着すら失われつつあった頃、彼女は仁村知佳という少女に出会った。そして、自分が属していた研究所の連中の真の目的である、TE−1エンジェル・ブレスのコードを与えられた少女の能力奪取のために、リスティはさざなみに預けられた。
さざなみ寮の第一印象は変なところ。
だがその変なところの、そのまた変な管理人の言いようのない執拗なおせっかいを受けて、いつの間にか彼女の表情に笑みがこぼれるようになった。
デパートで小鳥のウインディを買ってもらってから、彼女の頑なな精神は徐々に歳相応の少女のものになっていく。
皆とも打ち解け、次第に自然と笑うようになっていった。
けれど、そのリスティの変化に戸惑った組織の連中は、その後強硬手段に出た。フィリスとセルフィを使い、リスティの奪取と知佳の誘拐を決行する。
そのことで、彼女は自分の生まれた理由がただの営利目的だったことを知る。
自分という存在を生み出した世界への失望。そして絶望。
自分に生きていく価値があるのかさえわからない。いや、価値なんてないのかもしれない。
そうして自暴自棄になった彼女がたどり着いた先は、何故かさざなみ寮だった。自分の行動に驚きながらも、恐る恐る玄関をくぐる。
けれどそこは、何も変わっていなかった。
自分が人を殺すことができる能力者であるにも関わらず、温かく迎えてくれる場所。
その中心に、耕介と愛がいた。
嬉しさと悲しさ。そして他人を思いやる優しさ。
そう言った感情が一気にあふれ出して、彼女は泣いた。
そして戦うことを誓う。
さざなみ寮を守るために、襲ってくる組織の連中と戦うことを決意する。
結果は知佳と共にフィリスとセルフィを退け、香港特殊警防隊の暗躍もあって、組織は壊滅した。
その後は自分も保護されて、さざなみ寮を去る。それは予想していたこと。悲しくはあったけれど、嬉しくもあった。皆を守れたことに悔いはない。
けれどそうはならなかった。海鳴大学病院の矢沢医師とさざなみの皆の弁明、そして裏での陣内啓吾の働きで、リスティはさざなみ寮にいられることになった。
フィリスやセルフィも、いずれは保護観察を終えて、普通に暮らせるようになることも決まった。
奇跡。
リスティはそう思った。今、こうして生きていることすら、奇跡のような気がしてならない。
槙原愛の娘として。
そして、槙原耕介の娘として。
今というこの時を、彼らとこうして生きていけることが、嬉しくてたまらない。
薫曰く、だからってそんなにやんちゃになるとは思っちょらんかった、そうで。
とは言え、性格はそう簡単には変わらない。
普通の少女として、けれど少し普通じゃない能力者として。
彼女はさざなみで人生を楽しみ始めた。
そんな少女の当初の望みは、愛と耕介がくっつくこと。愛が耕介を一人の男性として好いていることは知っていたから、ふたりがくっついて本当の親子になることだった。
けれど、今は違う。
自分も耕介が好きだし、HGSとしてライバルに当たる知佳もまた恋敵には違いない。
ゆうひや薫、普段気にも留めていないような態度をとる真雪だって耕介のことを好きなのはわかっていた。唯一、除外されるのはみなみぐらいか。
今は彼の娘でもいい。いつか、もう少し大人になってから彼の気持ちをこちらに向けさせればいい。そういう方面に鈍い耕介だから、今のうちに甘えられるだけ甘えておく。
そんな算段の下に、同じく耕介に甘えたい知佳との衝突は頻繁に起こったけれど、リスティは幸せだった。学校に通い出し、初めて友達ができた。嬉しいことだけでなく悲しいことも経験した。
そういった生活全てが、リスティにとっての宝物になっていく。
充実した日々。
つらい過去については、全てが万事終わったのだと思っていた。
けれど──それがただの思い込みでしかなかったことを知った。
しかも、今度狙われているのは耕介だという。そして、彼の精神的な問題。そのきっかけを作った組織の連中に対して、再び言い様のない怒りがこみ上げてくる。
彼が自分たちを守るためにさざなみを去るかもしれないと聞かされてはなおのこと。
許せない。
だけどその意思を彼がどう感じるか、彼女は不安だった。
今こうして耕介の言葉を待っている間にも、能力をつかって心を読んでしまいたいという衝動に駆られる。もし彼がここを出るというのなら、自分もさざなみを出る決意で、耕介の言葉を待つ。そして組織を今度こそ壊滅して、彼の後を追えばいい。
湧き上がる激情を抑えようともせず、リスティはその瞳を静かに燃やしていた。