9
──汝は誰がために生きる
その質問に、彼は答えられなかった。
沈黙。
問いかけは、続く。
──汝は誰がために生まれた
そんなのは知るわけがない。自分を生んだのは母親だし、それから後の人生で、自分が誰かのために生まれたかなど、考えたこともない。
彼は皮肉った。
なんなのだろう、これは。
それは──いや、それらは、いわゆる疑問符ではなかった。問いかけ。ただ、それはそう語りかけてくるに過ぎない。返答を求めてこないそれは、本当にただそこに存在するだけの言葉。
だというのに。
何故にこれほどまでに、その答えが気になるのか。彼にはわからなかった。
さらに、続く。
──汝は誰がために死ぬ
それこそ愚問だと思った。
何故他人のために死ななければならない。昔と違い、自分の国はもう戦争などしていない。国のために生き、国のために死ぬなどという愛国心もない。国のことは、嫌いではないけれど。
それとこれとは話は別だと、彼は思った。
愛する人間がいても、その人のために死ぬというのは間違っている。愛するなら、自分も生きるべきだ。ああ、もしかしたら、それが誰かのために生きるということかもしれない。
だとしても。
死ぬのは嫌だ。自分はまだ二十数年しか生きていない。例え愛する者ができたとしても、その存在のために死ぬのは怖い。
身震いして、彼は視線を落とした。
問いかけは、なおも続く。
──汝は誰がために……
五月蝿い。
彼の心に、言い様のない不快感が生まれる。それは明らかな拒絶。問いかけを聞くことなく、彼はそれを跳ね除けた。
続く。
──汝は……
「黙れ!」
そう言って、彼は本を閉じた。彼の心に問いかけてくる声が、ぴたりと止む。
それは──
ただの本だった。すこし分厚目──といっても百科辞書ほどではないが──の、一冊の本。硬い表紙で製本されたそれは見た目にも重そうだったが、彼はあっさりと片手でそれを投げ捨てた。
どさっという音を立てて、本は絨毯に転がった。滑ったといったほうが正しいか。どちらにしろ、床に投げられたそれは、抵抗することなく彼の手元を離れる。
その本を遠目で見つめながら、彼は呆然と部屋を見渡した。
赤いカーペット。柄も何もない無地のそれは、高価なものと聞く割には肌触りが悪い。土足で家に上がる我が民族の習慣に、それは耐えられなかったらしい。その繊維の隙間のいたるところに、土と砂の跡が残っている。
その両脇にそびえたつ古びた書棚には、分厚い背表紙の本がずらりと並んであった。質のよい紙でできているはずのそれらは、長い年月放置されてすでに黄色い光沢を帯びており、近づくだけで異臭が鼻につく。そのために、部屋全体が埃っぽいのはある意味当然だった。彼が知る限り、十数年は掃除の手が入っていない。
何にせよ、ここは書斎──かつて、祖父が生きていた頃はそう呼ばれていた部屋。
だからだろうか。壁に貼られてあるポスターなどは、反日運動のものと思われる広告のようなものがいくつか見受けられる。それらも今では、見る影もなく寂れてしまっているが。
そうして部屋を見渡して、彼はもう一度本に向き直った。
声は聞こえない。
否。聞こえてきたそれは、声であって声ではなかった。
自問自答する。
本は語りかけてなど来ない。
祖父の書斎に来て、ふと手にとって見た本。そして何の考えもなく開いたページ。
そこから聞こえたそれは、声などと呼べるものではない。
だがそんなのは当たり前だ。
しゃべる本などありはしない。
意識して、本を見つめる。
ふと──
再び声がした。
はっきりと、明確な。女性か男性か、はっきりとはわからない。けれど、間違いなく人の声。
──汝は……
「五月蝿い、黙れ!」
叫ぶ。力の限り。
声は止まらない。
──汝は誰がために夢を見る
それは、もはや彼にとって拷問に近いものだった。ただの問いかけ。けれど、誰が、何のために、どこから話しかけてくるのかわからない恐怖は、彼の心を必要以上に締め付ける。
声は響く。彼の心に、脳に、すべての毛細血管の先端まで余すことなく、響き渡る。
──汝は……
「黙れぇっ!」
叫んで、彼は本を蹴り上げた。がんっという本らしくない音を立てて、それは宙に舞う。
それでも──
声は、続く。
──汝は誰がために混沌を望む
バタンと重い音をたてて、本は床に落ちた。
同時に、声も止む。
それを、彼は見つめた。息を切らせ、肩を上下に往復させながら。
本を蹴り上げたときに舞った埃が、部屋中に充満する。
そして静寂。
その中で、しかし彼は本から視線を外そうとしなかった。
本の表紙には、ただ一言、こう書かれてある。
『汝が世界の全て』
その本を手にとって、彼は再び声を聞いた。
──汝は混沌たる我がために生きよ
それが、彼の人生の全てを決めた。
…
暗闇。
といっても、そこは見慣れた景色だった。何のことはない。自分の部屋だ。
そう自覚して、甲龍は身体を起こした。椅子に座ったまま寝たせいか、身体の節々が不必要に痛む。
けれど不思議と寝覚めは悪くなかった。心地よいまどろみと疲れを感じて、彼は椅子を引いて姿勢を正す。と、
「目覚めたかい?」
部屋の隅に控えていた黒服の男が、静かに言った。
「ああ……」
端的に答える。男の方を見ると、彼は簡易の組み立て式の椅子に腰をかけて本を読んでいた。暗闇の中、苦もなく文字を読んでいる。
「何を読んでいるんだ?」
「弟切草という現代ホラーだよ。人間が書いたわりには、それなりに楽しめる代物だ」
こちらに顔を向けることなく、男は答えた。
自然と意識する。
あれは夢。
そう──夢だ。
「君は……」
「?」
「君は、自分の未来を見たことがあるか?」
「予知夢でも見たのかい?」
「いや、見たことはない。先程見た夢は、私の過去だ。だが、それと同時に未来でもある」
そう言われて、初めて男は顔を上げた。
「言っている意味がよく……わからないのだけれど」
本がパタンと閉じる音が響く。
「ふむ。では聞き方を変えよう。君は、自分の未来を知っているか」
「さあね。ま、いずれは人間社会を支配する気ではいるけど」
確たる意思を持って答える男に、甲龍は笑って見せた。
「ははは。まあ確かに、君ならやりかねないな。だが、違う。その間のことだよ。自分が目標を達成する、或いは死ぬまでに体験するであろう未来を見たことはあるかい?」
「そういう意味だったら……、勿論ないね」
「そうか」
そこで、甲龍は黙り込んだ。一人納得顔で、頷く。さすがにその態度が気になって、男は聞いた。
「甲龍?」
「ああ、いや。すまない。一人で納得してしまったね。私はね……知ってしまったのだよ」
「自分の未来を……?」
「そうだな。あれを未来と呼ぶのならそうなのだろう。過去、現在のどれでもないのだから、やはり未来なのだろうな。ああ、うん。君がわからないのは当然だ。私は、私にしか分からない未来を見たのだから」
「…………」
「未来を知ることは、実はこの上なく残酷なことだ。そして絶望なのだよ。なにせ、自分でどう行動しようと、それはあらかじめ決められているのだから。そこに自分の意思などない。そう感じる。だから、予知する悪魔を捕らえた時の権力者たちは、その欲に負けて未来を知り、例外なく自殺した。自分の破滅を知って絶望してね」
「甲龍………」
「私はこうして生きている。だがね、逆を言えば、生かされているのだ。私の人生を決めた何者かによって。そう考えれば、怖いことこの上ない。だが私は死なない。死のうとも思わない。何故なら、世界はまだ私を必要としているからだ」
そこで、甲龍は言葉を切った。男の顔を、真っ直ぐに見つめる。男は──その本名は甲龍も知らなかったが──かつて甲龍が所属した『龍』をも一目置く存在だった。正体すら知れぬ彼は、十ヶ月前に自分がいた組織が壊滅した事件で、香港特殊警防隊の襲撃を教えてくれた人物でもある。
だが、彼は協力者ではなかった。ただ、こちらの結果を知るためだけに甲龍の下にいるだけの、観察者とでも言うべきだろうか。どちらにしろ、同じ目的のために協定を組んでいる赤髪の少女とも立場は違った。
「だから私は生きる。そのために日本に来た。予知された未来どおりに……」
「その先にある結末は、知っているのか?」
男の問いに、甲龍は笑って答えた。
「知っている。だが聞くのはやめたまえ。それを知るべきは今ではない。結末は、望まずともやってくる。だから、君は君の任務を果たすべきだ」
「なるほど……」
本を置いて、男は立ち上がった。その彼に、甲龍は静かに告げる。
「君に動いてもらいたい」
「それは命令か?」
「頼んでいるのだ」
「僕は君の協力者ではないんだけどね。まあ、いいだろう。人間は嫌いだけど、君という存在は気に入っている」
「ありがとう……」
素直に、甲龍は頭を下げた。男が、嘲笑する。それが彼の癖みたいなものだということは知っていたので、甲龍は差し当たって気にしなかった。
「神楽双真は、夜の一族の次期当主、エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタインに協力を求めたらしい。彼を張らせていた手の者からの情報だ。さらに彼女は現在、仕事で自宅を留守にしている。今後のことを考えて、タイミング的に『あの場所』を襲撃するなら今だろう……」
「それを僕にさせたいのか?」
「やってくれ」
「方法は?」
「君が考えるとおりに……」
それはつまり、好きなように暴れていいということ。
「了解だ。ま、朗報を待っていてくれ」
そう言い残して、男は部屋を去った。それを見送って、甲龍は軽くため息をつく。
「そう。君は、君の望む結末を手に入れる。それが、私を勝利に導く」
変わらぬ姿勢で呟いて、甲龍は再びその瞼を閉じた。