10
月が出ていた。
三日月の形をした月。
雲がかかっていないせいで、夜の空は一段と神秘的な闇色に染まっていた。いくつか輝いている星が、その闇をさりげなく装飾している。
その月の呼称と同じ名を持つ少年は、さざなみ寮の縁側でゆっくりと佇んでいた。宙に浮かぶでもなく、ただ座って、空を見上げる。
月は、この上なく綺麗だった。
誰も真似できない、蒼白色。自然界にあるすべての物が所有する色の美しさに当てられ、まだ幼さを残した黒髪の少年──御架月はホウッと短くため息をついた。
「御架月」
不意に名を呼ばれて、少年は後ろを振り返った。
そこにいたのは長身の男だった。黒いトレーナーにジーパン。この寮内の最年長者曰く、彼が実はひっそりと何着も持っているらしいこの組み合わせは、けれど一番彼に似合っていると御架月は思っていた。
神咲退魔道・霊剣『御架月』
その分身であり、本体である自分。
そして、後ろでその手に一振りの日本刀を持っているのは自分の主。
槙原耕介。
「もう身体のほうはよろしいんですか?耕介様」
「ああ、うん。昨日の夜からぐっすり寝かせてもらったしね。少し太ももが筋肉痛だけど、もう大丈夫。というか、だから逆に目が覚めちゃって」
御架月の横に腰を下ろしながら、耕介は言った。
「他の皆様は……」
「もう夜中の四時だからね。皆寝てるよ」
「そうですか……」
そうして、二人はまた黙り込んだ。
かすかに聞こえてくる虫の音は、少し前に比べてだいぶ小さくなっていた。もうすぐ冬の到来であることは、暦よりも早く山の空気が教えてくれている。
意を決して、御架月は耕介に話しかけた。
「耕介様には感謝しています」
突然の彼の言葉に、耕介は目を見開いた。
「何?いきなり」
「今年の春。耕介様に助けられなければ、僕は今、ここにこうしていることができませんでしたから」
「そのことなら、もうお礼は何回も言われたよ」
御架月は軽く首を横に振った。
「僕は四百年間、神咲の一族を恨んできました。それだけが僕の意思で、それだけが僕という存在の支えでした。でも薫様に会って、姉様に会って。そして耕介様に会って。それが勘違いだと知りました。でもその時、僕の意思はなくなりました。存在する理由がなくなったんです。恨みだけで存在した僕は、耕介様に助けられた後も、皆様の温もりというものを持て余していました」
言われて、耕介も思い出した。
御架月が来て数週間、彼がこのさざなみ寮に馴染むまではやはり時間を要した。そういう意味では、リスティと御架月は同じ立場と言える。最初は嫌悪して、けれど次第に慣れて心を開くようになった。
「うん。そうだったね」
「だから、思うんです。ここに来て、皆様とこうして暮らせること。それが僕にとっての幸せだと。そしてそれはとても大切なことだと、今ははっきりと言えます。だから、僕は神咲の霊剣として戦います。時の継承者と共に。僕が大切だと思う皆様を守るために。神咲を恨んでいた過去は消えないけれど。それを負い目にして、何もできない自分にはなりたくないから」
そう言って、御架月は耕介の顔を見た。
「御架月……」
「僕はここに来て人の温もりと、優しさを知りました。四百年前に死んで、生きているときには何一つ幸せを得ることができなかったのに。時を越えて姉様と再会でき、皆様に家族のように迎えていただきました。でもそれは、あの時耕介様がその身を張ってお助けくださったからです」
「あの時は無我夢中だったからね」
「だから、僕はその恩も貴方様にお返ししたい。今後耕介様がどのような道に進まれようと、僕は貴方についていきます。そうしたいと思っていますし。そう、させてほしいです」
「……ありがとう。でも、十六夜さんと折角会えたんだし」
「大丈夫ですよ。四百年我慢できたんです。例え耕介様がここを出られても、また会えます。必ず」
そう確信めいた瞳で頷く御架月の頭を、耕介は撫でた。
御架月は、今まで弟のように見てきた少年は、自分が思っていたよりも強くなっていた。そのことに少しばかりの驚きと、そしてたくさんの嬉しさを感じて、耕介は乱暴にその手を動かした。
「こ、耕介様?」
さすがに髪がぐちゃぐちゃに乱れてしまう。それでも、御架月は耕介の手を払いのけようとはしなかった。ふと、耕介がその手を止める。
「お礼を言うのは俺のほうだよ、御架月」
頭に手を載せたまま呟く耕介の顔を、御架月は真正面から覗き込んだ。
「俺は弱い。御架月よりも。さざなみのほかの誰よりも、弱い。肉体的なものじゃなく、心が弱い」
「耕介様……」
「俺が弱かったばかりに、『破壊者』が生まれた。俺が弱かったから仲間を失って、自分がどれだけ無力なのかを思い知った。そしてまた、俺は弱さのために過ちを繰り返そうとした。『破壊者』を制御できず、薫を殺そうとした。全ては、俺の意思が弱かったからだ」
「弱いことは、悪いことじゃありません」
「うん。俺もここに来て初めてそう思ったよ。俺の周りにいた連中は、全員化け物染みて強い連中ばかりだったからね」
昔の仲間の暴れ方を思い出して、耕介は苦笑した。自分も、その中に入っていたのだ。
不思議と、過去の自分に後悔はなかった。危惧したのは、あくまで現在の自分についてだ。
「…………」
「だから、今日の皆の言葉は嬉しかった。もうここを出て行くしかないって諦めていたから。本当に嬉しかった。それと同時に、俺は自分の本当の気持ちに気付いたんだ。ここにいたい。ここで皆と暮らしたい」
確固たる意思を持って、耕介は続けた。
「だから強くなる。強くなろうと思った。誰かを傷つけるための力じゃなく、守るための力がほしいと思った。今まで薫と特訓してきたのは、なんとなく霊力の素養があったからっていうだけのものだったけれど。本気で、俺は強くならなくちゃいけない。じゃないと、皆を守れない。守る資格すらない」
「耕介さまなら、きっと大丈夫です」
確信を持って、御架月が頷いた。
「皆を守りたい。こんな俺を受け入れてくれた皆を。だから俺は昔の約束を果たさないといけない」
「約束……ですか?」
「数年前にね。『破壊者』が制御できなかったら、昔の仲間──『HELL&HEAVEN』の誰かに俺を殺してもらうっていう約束をしたんだ」
「え?」
驚く。聞き間違いかと、御架月は思った。だが違う。耕介の目に、うそや冗談を言っている様子は微塵も感じられない。
「薫や真雪さんは、制御する特訓をすればいいと言ってくれた。でもおそらく俺にそんな時間はない。狙われていることは間違いないし、奴らがいつ襲ってくるかわからない。だから、俺は覚悟を決める必要があるんだ」
「耕介様……」
「約束のこともあるけど、俺は戦いの中で『破壊者』を制御しようと思っている。自暴自棄になって言っているんじゃないよ。昔誰かが言っていたんだ。一度の実戦は百回の特訓に匹敵するってね。今回のこれは命懸けだけど。それぐらいでないと、多分『破壊者』を御するなんて難しいと思うから。だから御架月……俺と一緒に戦ってほしい。戦ってくれないか」
耕介の瞳は真剣だった。本気で、彼は自分の将来を賭けた戦いに臨もうとしている。さざなみ寮の皆を守るために。自分を守るために。
その意思を汲み取って、御架月も心を決めた。
「先程も申しました。僕は耕介様についていきます。例え、耕介様がどの道に進まれようと」
「………ありがとう」
静かに、風が彼らの頬を撫でていく。
冷たい風。けれど、どこか懐かしさを感じる温かい風。
そして、それが過ぎ去ったと同時くらいか。国守山の頂上の方に続く林のほうから、小さく足音が鳴った。
落ち葉を踏む音。
気配すら絶たずに大胆に近づいてくるその存在に、耕介は心当たりがあった。
「決心はついたか?耕介」
庭には入ってくる気はないらしい。ちょうど林への出口付近で、侵入者が憮然とした口調で言った。風に乗って、その声はどこか不思議な響を持って、耳に語りかけてくる。
「ああ。そろそろ来る頃だと思ったよ。双真」
庭の向こう。月明かりに照らされて、ようやく見えるぐらいにうっすらと佇む神楽双真に、耕介は向き直って言った。
それと同時に、彼の姿に驚く。
(白装束?)
最初はそう思ったが、目を凝らしてみるとどうも違うようだ。白いコートのようなもの。それをもう一着手に持って、彼はそこにいた。
そして思い当たる。その服がなんなのか。
呆れたように、耕介が嘆息した。
「……まだ持ってたのか?それ」
「必要になる時があると思ってな。お前以外は皆持ってるぞ、多分」
「うそ!?」
驚く。処分したものだと思っていたもの。てっきり皆そうだと思っていただけに、すこしばかりショックだった。と、
「耕介様?」
この場で唯一状況を飲み込めていない御架月が、不安そうに耕介の傍に寄った。
「あ、ああ。大丈夫。昔の俺の仲間だよ」
「それではこの方が……」
「そう。それで今からだけど。御架月、大丈夫?」
それはつまり、今から戦いが始まるということ。耕介の顔は穏やかに微笑んでいたが、すこしずつその闘気が高まっていくのを御架月は肌で感じていた。ごくりと、つばを飲み込む。
いきなりではあったけれど、覚悟をしていないわけではなかった。深呼吸して、耕介に向き直る。
「大丈夫です、耕介様。行きましょう!」
「ああ。双真、こっちは準備オッケー!」
明るく言ってのける耕介に、だが双真は何が気に食わないのか、機嫌が悪そうにぼやいた。
「ふん。てっきりふさぎこんでるとばかり思ってたけどな。まあいいか。こっちだ、広い場所で……殺りあおう」
言って、双真は再び闇の中に消えた。
耕介もまた、その手に『御架月』を手にして庭に出る。
勿論、玄関経由で。
すでに姿の見えない双真の跡を追うべく、耕介は大急ぎで林の中に足を向けた。