11
彼女は独りだった。
今更だが、以前から知っていたことでもある。意識したのは一度や二度ではない。そのことをはっきりと認識したのは、彼女の姉が結婚したときだろうか。中世ヨーロッパに生まれた双子の姉妹のうち、妹である彼女にだけ一族の力が極端に強く受け継がれた時から、その人生はほぼ決められていた。
彼女は一人で、そして独りだった。
家族はいる。父や母、姉のことも嫌いではない。姉の娘たちのことはみんな好きだし、可愛いとも思う。
しかし──
だからといって、彼女たちが自分の代わりになれるかといえば、それだけは決してありえない。
彼女という存在は、一族の仲では唯一絶対の存在なのだから。
そう──望んだわけではない。望んだことなどない。この場所で生きることを。自分の未来を他者に決められ、他者が引いたレールの上をただ歩く。そこに、何の価値があるというのだろうか。
彼女はただ、自由が欲しかった。
◇
「死ね」
唐突なまでに、その声は彼女の目前に出現した。視界の端で、こちらに向かい来る少年を見やる。口元は動いていなかった。それでも、声は確かな響を持って彼女の脳裏に響く。
突き出される拳を何とか紙一重で避けて、彼女は一気に後方に跳躍した。
少年が追ってこないことを確認して、息を吐く。
彼はそこにいた。ただ凄然と、静かにそこに存在している。さらに言えば、着地した少年はこちらを向いていなかった。冷たく凍てつくような空気が頬を撫で、冷や汗にも似た水分が額に浮かぶ。それが頬を伝わって地面に小さな染みができるのを、彼女は止めることができなかった。
二人がいるのは海岸だった。所々、黒く染まった砂浜。ヒールでいることが悔やまれたが、いまさらどうしようもないだけに、彼女はそのことを忘れることにした。
もう一度、大きく息を吐く。息を吸う前に自分の肺に残っている空気を全て吐き出して、彼女は少年を見据えた。
それに反応してか、ゆっくりと音もなく、ただそこに存在しているだけの置物のような瞳を、少年が彼女に向ける。その瞬間尋常ならざる悪寒を背筋に感じて、彼女は思わず両肩を抱いた。
(怯えるな! 怖がるな!)
自棄にだけはなってはいけないと自分自身に言い聞かせながら、彼女は少年を睨み返した。獣同士の争いならば、自分はとっくの昔に彼に殺されていただろう。だが、現時点ではまだ生きている。少年の真意はもとより、自分がどうしたいのかもわからなくなって、彼女は軽く首を振った。
と、不意に少年の口が開く。距離も風の音も飛び越えて、響きは確実な震動となって彼女に届いてきた。
「……何を見ている……」
「え?」
「お前は……何を見ているんだ?」
「何を……言ってるの?」
「無意識と言うわけもないだろう?」
「だから何を……!」
「……わかっていないのなら、お前はここで死ね」
瞬間、少年の姿が消えた。
意識する間もなく風の流れを肌で感じて、彼女は本能的に地面に伏した。後頭部の上を、とてつもない速さで黒い物体が駆け抜ける。それが蹴りを繰り出した少年の身体だと判断して、彼女は屈んだ姿勢のまま横に転がった。
体勢を立て直すまでに、意識を全身にめぐらせる。自分の反応速度では少年を視覚的に捉えることができないと考えて、彼女は少年の気配だけを追った。
空中を通り過ぎた黒い影は、そのまま地面に着地して砂塵を撒き散らしていた。その巻き上がった砂煙に、あっさりと少年の姿を見失う。
「くっ!」
迷っている暇はなかった。声を出しながらも、気配がやってくる方向に意識を向ける。右方向から煙を巻き込みながら伸びてくる腕をはじくと、だが一瞬後には逆方向に現れた存在に、彼女は対応できなかった。
空いている場所──つまりは前か後ろか、残るは上、その三択が頭に浮かぶ。どれでも同じかもしれないと思った瞬間、数度の衝撃で身体が宙を浮いた。
意識が揺らぐ。目の焦点がかすみ、そのまま前のめりに彼女は地面に突っ伏した。敵である少年の存在すら忘れてしまうほどの震動が、彼女を襲う。
彼女の脳裏に浮かんだ思考は、極めて単純だった。
痛み。全身が痛い。痛くて、だから悲しい。泣きたい。泣けばいい。けれど、泣いてもいいのだろうか。泣くことが許されるのだろうか。
「泣いているのか?」
抑揚のない声。それが自分のものでないことに違和感を感じて、彼女は身震いした。少年のことを思い出し、気力を振り絞って顔を上げる。自分の前方に無造作に、構えもせず、ただ佇むようにしてそこにいる少年を、彼女は睨み付けた。少なくとも、痛みが引くまではそれくらいしかすることがない。否、できることはあった。
「な、泣いて……ないわ」
否定しておく。それを見られるのも、自分で認めるのも、彼女は嫌だった。
「なら、その涙はなんだ?」
「錯覚よ」
きっぱりと言い切って、彼女は痛む腕の甲で目元をぬぐった。手に付いた砂が、濡れた頬にこびりつく。唇に伝わる滴はしょっぱかったが、それが汗なのか涙なのか、彼女には判断し損ねた。
「錯覚か……」
「じゃなければ、夢ね」
「夢? では何が現実だ?」
「え?」
「今のお前が夢だというのなら……、現実のお前はどこにいる?」
「……さぁ、案外ベッドの中でぐっすり寝てるんじゃない?」
憎まれ口を言う気力は残っているようだった。この少年と対峙した先に見えるのが確実な死であることを意識しながらも、彼女はゆっくりと痛みの引く身体を起こした。
引くわけには行かない。引けば、自分は一生、自分という存在を否定し続けるだろうから。
「エリザベート」
「え?」
名前を呼ばれて、彼女は思わず自分の耳を疑った。
「もう一度聞く。お前は、何を見ているんだ?」
「何って……」
彼の意図がわからなかった。自分が見ているもの。首をひねっても、現状は変わらない。
「聞き方を変えてやる。お前は自らが泣いていることすら気付かないままで、この先に何を望む?」
「私が……望むもの?」
「……それすらわからないか……」
嘆息して、少年は回れ右をした。まだどことなくおぼつかない足元で立つエリザに一瞥だけくれると、おもむろに歩き出す。
「ちょ、ちょっと! どこ行く気?」
「……やめた」
「え?」
少年は、彼女が声をかけるとあっさりと立ち止まった。顔だけを、軽く彼女の方に向ける。
「やめたと言ったんだ。殺す価値もない『敵』を殺しても意味がない」
「…………」
耳に届いた少年の言葉を、彼女は口元だけで、声に出さずに反芻した。幸い、理解はすぐにできた。
「わ、私が……?」
無意識の声。
「こ、殺す……価値もないですってぇっ!」
最後のほうは、すでに叫びになっていた。身体の痛み、心の傷。それら全てを塗り替えて、少年の言動だけが、彼女を支配する。
「ない」
自分の存在。それを全て否定された衝撃と葛藤。そして憤怒。
「神楽ぁぁぁぁっ!」
意識の喪失は、一瞬だった。急激な活動に、身体が圧迫感を感じて軋む。無視すると言う考えすら浮かぶことなく、彼女は一気に間合いを詰めた。
熱く燃える瞳。真紅に染まった双眸と鋭く伸びた爪をかざし、彼女はひたすら目の前の少年だけを見つめた。ただその死を願うかのごとく、眼前の少年の心臓めがけて腕を振り下ろす。だが──
だがそれは敵わなかった。
爪が、虚しく空を切る。眼前から消えうせると同時に風が巻き起こり、彼女の頬を優しく撫でながら後方で具現化した。勢いに乗って体勢が崩れた彼女の後ろから、そっと手が伸びてくる。その手が彼女の首元に添えられたのは、ほんの一瞬だった。
「終わりだ……」
声。殺気も何もない、感情全てが喪失したかのような無機質な声が、彼女を包み込む。
「お前は魔術師ではなかったのか?」
「!」
「感情に支配されて己を見失ったことよりも、最初に俺と接近戦を交えた時点でお前の負けだ」
「くっ!」
「いい加減に気付いたらどうだ?」
「……な、何を?」
延髄に力が加わる。失神しそうなほどの振動が彼女の脳を揺さぶるが、なんとか意識だけは失わずに彼女は呻いた。
「気付け。お前は──」
瞬間、言葉が消える。音声すべてが世界から消失し、一瞬後には色が消えた。
聞こえない。
何も。
(私は……?)
何だというのだろう。
「お前は──」
(私は──)
◇
「最悪だわ」
息を乱し、汗の臭いを実感する。
説明は必要なかった。見慣れた天井。白い壁。ベッドのすぐ横にある窓から入ってくる、まだ顔を出したばかりの太陽の光が、唯一いつもと違う空気を感じさせた。
「……」
本当にベッドで寝ていたことに多少の驚きを覚えながら、彼女は寝起きの倦怠感に身を任せていた。
夢の内容は覚えている。神楽双真との出会い。完全なる敗北。そして──
(彼はあの時、何て言ったのかしら……)
「私は……」
反芻してみるが、続きが出てくるはずもなかった。目を開けた先に見えるシミの数を数えてみる。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
やがてそれも飽きて、彼女は無表情のまま起き上がった。