◇
「全く。昔っから、わけわかんないのよ、アンタって!」
口上は続く。
「何を見ているのか、ですって? 私と戦ってるのがアンタなら、アンタを見てるに決まってるじゃない。なのに、何で言い返せないのよ! 私は!」
注文したコーヒーが冷めるのも、モーニングセットを頬張っていた客がこちらに視線をくれるのもかまわず、彼女はひたすら口を動かした。
「それで満足? ええ、満足でしょう。何て言っても、手も足も出せずに負けたのよ? このエリザベートが。一族の中でも隋一の戦闘力を持っていたはずの私が。悔しいったらないわよ、全く! 大体、天狗になりすぎなのよ。ちょっと長生きして魔術に長けているからって。いったい何様のつもりなのよ、私は!」
そこまでまくし立てて、彼女は一度深くため息をついた。冷めたコーヒーをブラックのまま一気にのどに流し込む。荒れる呼吸を整えようとして、だがあっさりと失敗した。
「ゲホッ! ゲホッ!」
「…………」
気管に入ったらしく、彼女はしばらく苦しそうに咳き込んだ。落ち着きを取り戻してから、さらに続ける。
「そもそも甲龍が動き出してからまだ五日よ? なのに、槙原耕介はもう『破壊者』との決着をつけたみたいだし! 遊の出現で事がややこしくなってるし! アンタはなんでか左腕包帯だらけだし! 香港警備隊からは途中報告してくれって要求されるし! 事態の展開についていけてないじゃないのさ。どうしてくれるのよ、全く!」
「どうでもいいが……」
再び呼吸を乱して叫ぶ彼女を尻目に、呆れたように双真はため息をついた。
朝。週明けの喫茶店は、出勤前のサラリーマンやらOLが忙しく出入りしていた。海鳴商店街、いつものように、いつものごとく、普段から行きつけにしている翠屋の一席。そんな喧騒感の漂う日常から一歩はなれて、双真は一人静かにコーヒーをのどに流した。
鼻腔をくすぐる香りは彼のお気に入りでもあった。翠屋だけの特製ブレンドコーヒー。砂糖もミルクも必要ない心地よい苦みが、舌を程よく刺激する。
その湯気立つカップから視線をはずして、双真は対面に座る彼女に目を向けた。
黒髪。黒目──のはずだが、今は赤く光っていた。周りの奇異な視線すら無視して、目の前の彼女、エリザベートはなぜか興奮している。いや、激昂していると言った方が正しいか。どちらにせよ、双真にとってはどうでもいいことではあったが。
「文句の対象は一度につき一人にしてくれ」
「そんな器用なことできないわよ!」
「……で? 結局、何が言いたんだ? エリザ」
「え?」
「現在、家族の法事で仕事を休んでいるはずの俺を朝から呼び出して、何の用なんだ?」
「……えーと……それはー……」
ばつが悪そうに、エリザは眉を寄せた。目が泳ぎ、額に浮かぶ汗が頬を伝ってテーブルに小さな水溜りを作る。
「まさかとは思うが。愚痴を言うためだけに呼んだなどということはないだろうな」
「……あー! そうそう。聞きたいことあったのよ」
「今、目の前で光った豆電球はなんだ?」
「……さ、さぁ? 気のせいよ。気のせい!」
どこぞの奥様のように口元を抑えながら、エリザはホホホと甲高く笑い声を上げた。
「で?」
「んー。なんというか、昔のことなんだけど……」
「……ああ」
「私と初めて会ったときのこと、覚えてる?」
「いや。全然」
「……即答?」
ピタっと、呼吸すら忘れて、エリザは停止した。一方の双真は、全く表情を変えずにコーヒーの香りを楽しんでいる。愛想笑いを浮かべながら、エリザはなおも食い下がった。
「ちょっとくらいは……」
「覚えてない」
「欠片くらいなら……」
「これっぽっちも」
「微妙に食い違っていてもいいから……」
「意味あるのか? それ」
「ホントに覚えてない?」
「だからそう言っているだろう」
「…………」
さすがに沈黙したエリザに、このとき初めて双真は眉間にしわをよせた。彼の知る限り、エリザベートという女性は理知的で頭の回転が速く、個人主義者な上に能力至上主義を公言する、基本的には有能な人物であるはずだった。──はずなのだが、今の彼女は、一見して普通の悩み多き女性にしか見えない。
それが悪いことだとは言わないし、思ってもいない。が、この調子の彼女の相手をしなければならない方は疲れることこの上ないだろうなと、双真は心中で脱力した。
「何かあったのか?」
「別に。ただ、あの時神楽君は私になんて言ったのか、ちょっと気になってね」
「俺が? お前と初めて会ったときに?」
「そう……覚えてる?」
「いや、きれいさっぱり」
「……そっか……」
ため息を吐いて、エリザは再び沈黙した。
「何かあるのか、それに」
「いえ、ただ夢で見て気になっただけ。思い出せないのよね〜」
あくまで表情だけは明るく、エリザは笑う。
「…………」
「ま、いいわ。それよりその左腕、大丈夫なの?」
目線だけで双真の包帯だらけの左腕を指して、彼女は聞いた。
「昨夜、耕介にやられたからな。回復はもうしばらくかかる」
「……うまくいったのよね?」
「多分。制御に成功したかどうかはわからんが、昔のあいつには戻れたようだ」
「ホッとしてるでしょ? 彼を殺さないで済んで」
「まぁな」
茶化したつもりの質問に素直に返されて、エリザは目を丸くした。それだけ、神楽双真にとって「HELL&HEAVEN」仲間が大事だということなのだろうが。
「甲龍との戦い、大丈夫なの? その腕で」
「問題ない」
「そう……」
短く相槌を打って、エリザはそのままじっと白い腕を見つめた。
戦い。彼らはその先に進む道を見つけている。行き着く先が天国だろうと地獄だろうと、彼らにとってはどうでもいいことなのだろう。自分の存在全てをかけて、彼らは戦い続ける。時として戦う理由すら、彼らには必要ないのかもしれない。そう思わせるほど純粋に、自分達の生まれた理由を求めつづけている。
それに比べて。
(私は?)
問い。自問。質疑。回転する不安。答えは──
思い浮かばなかった。自分が今いる場所。今していること。したいこと。しなければならないこと。立場。職務。仕事。使命。運命。存在意義。
そして生まれた理由。
それをすでに知っているだろう目の前の青年が、エリザはうらやましかった。彼は熟知している。享受している。自分の存在、能力、生きる目的と、生まれた理由を。だから彼は迷わない。
甲龍も、そして双真を狙う赤い髪の少女も。彼らは自分たちの目的を持って突き進んでいる。
迷っているのは。
(……私。私だけが──)
前に進めていない。そんな気がする。置いていかれることへの焦燥感だろうか。胸の奥にある違和感が、チリチリとしたトゲを持って彼女の心に刺さる。痛みと、それに伴う熱。それを御する法を、彼女は知らなかった。
そう──
「神楽君」
「ん?」
「私、これからどうすればいい?」
どうすればいいのか、彼女にはわからない。それは紛れもない、彼女の本音だった。
「…………何だって?」
質問の意図がわからず、双真は眉間のしわを深くした。エリザを、真正面から見やる。紅く灯っていた相貌は、すでに静けさを取り戻していた。魔力をもつ瞳。うっすらと、その瞳孔に揺らぎが混じっている。
うって変わって静かになった雰囲気を破ったのはエリザだった。双真が何か言う前に、立ち上がる。
「いえ、忘れて。朝からごめんね。それじゃ……」
…
「……悩み、ではないな。あいつ……何を考えている?」
一人取り残された彼の言葉は至極もっともだった。表情だけは、いつもと同じだったが。早朝にいきなり呼び出された結果がこれでは、彼女が何を考えているのか、それを窺い知ることなどできはしない。
いや。案外、本気で夢の内容が気になっただけなのかもしれない。
「だとしたら、やはり悩みというべきなんだろうな」
独り、呟く。それを聞いていたというわけでもないだろう。おずおずと、遠慮がちに店員が近づいてきた。普段見かけるウエイトレスではない。色素の薄い長い髪。一見すると学生にしか見えない若い感じを受ける。が、双真はすぐに彼女がこの店の店長だと思い出した。
「あのー……」
「……はい?」
「先ほど帰られた方は、お連れ様ですか?」
「いえ、違います」
「でも、お知り合いですよね?」
「それはそうですが。何か?」
「あー、よかった」
双真の質問には答えず、彼女はホッと胸をなでおろした。不安が一気に解消されたような、清々しい笑顔になる。
「これ、先ほどの方のお会計なんです。締めて五千四百円になります」
「……これを払えと?」
「よかったです」
「俺が?」
(朝から、五千円以上?)
思考はとりあえず、そこにたどり着いた。
「…………」
彼女は、ただひたすら笑顔だった。ニコニコと、擬音が聞こえてきそうなほどに。笑顔は続く。どこまでも。
無言の圧力に耐えかねて、双真は財布に手を伸ばした。
◇
魔術。
──は、決して万能ではない。なぜなら、あくまで魔術は人の技であり、人が行える範囲でしか現実化することはできないからだ。人が完全でない以上、人によって生み出された魔術もまた完全ではない。
魔術は学問であり、学問であるから日々研究されてきた。俗に言う魔術師たちの手によって。それこそ科学よりも古い時代から。
その魔術師たちの手によって解明された事実。つまり、魔術は現実空間に直行した現象であるということ。直行するからには必ず交わる点があり、その交点が原点、すなわち現実に言う『常識』である。
(それが原点。だから魔術は万能じゃない……)
加えて学問であるから、誰でも扱える。よく魔術には魔力が必要だといわれるし、実際それは本当でもあるが、それよりも重要なのは術の発生に至るまでの式であった。
式、つまり呪文と称される術の発動のための儀式。数学の問題で答えを得るためにいくつかの公式を使うように、魔術師は呪法を使うことで答え、つまりは術の発動を得る。
やり方さえ知っていれば、手の平大の炎を生み出すことは誰にでもできる。
(それが成功すれば、次は精度の上昇)
式の構成、呪文の詠唱、そして術の発動。自身にかかる術の負荷を制御し、霧散するエネルギーをどれだけ確実に集約できるかが、威力となって差を生じさせる。魔力が必要となるのはここからだ。
魔術師と呼ばれるもの達は多かれ少なかれ、そうした中で自らの能力を高めていく。炎を出すだけの簡単な代物から、物語に存在する竜を具現化させるような高度なものも含めて、魔術師に最果てはない。魔術は学問であるから、それを極めることは誰にもできない。世界が不完全であり続ける以上は、それを完全にするために生まれた学問に果てがあるはずがない。
そう──
(誰にも極められない。極めることは自身の不完全を否定することになる)
生命体は不完全でなければならないというのが彼女の持論だった。完全であってはならない。たとえ完璧であったとしても、完全だけは求めてはならない。
それに例外はない。例え、夜の一族を代表する魔術師たるエリザベートでさえ。
(だから私は……)
不完全。
(不完全?)
だがそれを認めることは、自己の否定になりはしないか。自分が完全であるかどうか、それは意識してはいけないことだ。自分の否定は、生の放棄なのだから。
ふと、彼女は駅に向かう足を止めた。自分の姿の映るガラスに視線を向ける。黒い髪。黒目。白い肌と細いあご。容姿だけでは、彼女が魔術師だとは決して知れないだろう。つまり、他者から見た彼女は魔術師であって魔術師でないことになる。
(もしそうでなかったとしたら……)
それを考えて、だがすぐに彼女は首を横に振った。ありえないことを考えるような余裕が今の自分にはないことを思い出して、再び歩き出す。
「何をやっているのかしらね、私は……」
本当に。
(わからない?)
疑問は、単純だった。明解な罠のようにぽっかりとあいた穴が、こちらをみつめている。誘惑するかのように。
(わかっていない。私は……)
今の自分。かつての自分。未来。過去。現在。そのどれか。もしくは全部。
(私は錯乱している。今、このときも。あの時と同じように)
夢の中を思い出す。神楽双真に負けた自分。戦闘だけでなく、精神的にも彼女は双真に負けた。あの時も、彼女にはわからなかった。
これからどうすればいいのか。
(……戦って。そして殺し合う)
それしか、方法はないのだろうか。氷村遊を許す気はないし、見逃す気もない。だが、それが彼女のやりたいことかと聞かれれば、それも違う気がする。
(あの夢は、私にとって何を意味するの?)
問いかけの答えなど、彼女が持っているわけもなく。
疑問は、薄暗い煙のように彼女の心に充満していた。こびりつく油のように。いっそ燃えてくれればいいのにとも思うが、それをどうやって燃やせばいいのかさえわからない。そのきっかけがない。
甲龍が神楽双真と接触を図ってから今日で六日目。事件の展開に、ついていけていない自分がいる。当事者の一人として自分がなすべきことが何なのか。彼女はそれが知りたかった。
◇
魔剣アスタリス。そしてグルームリング。
この二つの魔法道具は、ほとんどの場合においてペアで取り上げられる。何故なら、そのどちらが欠けても魔術的効力を失うからである。その点からすれば、この二品は完成品とは言い難い。
夜の一族が開発した魔法道具の中でも稀に見る戦闘用武器として、その存在を記録に残している。だがそれが災いしてか、その効力を完全に使いこなせたものはいない。
あまりにも巨大な魔力を消費するために、誰も扱いきれなかったのである。
アスタリスの全身は、刃渡りにして約四尺。百二十センチ程度の西洋風の刀剣である。黒塗りの鞘。黒い刀身には一匹の蛇の文様が刻まれていた。剣の峰、蛇の瞳にあたる箇所には青い小さな宝玉が一つ、埋め込まれている。そして何よりこの剣は軽い。水よりも比重が軽く、さらには石よりも硬度がない。つまり、非常に壊れやすいのだ。
その破片を操って攻撃することを、この剣は本質としている。故に剣には刃がついていない。魔力を帯びて白く輝く黒刃の破片。それらが空を切る様は、まるで天から星が降り注ぐかのように美しく、この剣が『星降る夜の剣』と呼ばれている所以はそこにあった。
名の由来が何であれ、剣がとてつもない魔力を必要とするのは間違いなく、だからこそグルームリングと呼ばれるサポーターが必要となる。
さて、グルームリング。
『闇の指輪』とも呼ばれる、魔力を外部から供給するための指輪である。だが結論から言えば、この指輪はアスタリス以上に欠陥品であった。魔力の供給に関して、一族の人間との相性が悪いのである。
こうなるともう使い道がなく、この二つはその威力と高度な魔術効果を発揮することなくお蔵入りとなった。
その魔法道具が今、彼の目の前にある。
アスタリスの美しさに当てられながら、甲龍は指で優しく面をなぞった。緩やかに。そして刃であるはずの部分を少し強めに。
「…………」
指は切れなかった。伝承にあるとおり、この剣に刃は入っていない。
黒い刀身。青く輝く蛇の目。これ以上の芸術など存在しないかのような滑らかな肢体には、目を凝らせばうっすらと小さな光点がちりばめられている。白い輝きは、この光点によるものだった。
「魔剣、アスタリス」
呟く。
答えはない。求めてもいなかったし、返されても困るだろうが。
小窓から入り込んでくる少量の日の光を浴びて、青い宝玉の内に紅い炎がともる。それを満足いくまで眺め終えて、甲龍は剣を鞘にしまった。
「これで、私は私の人生を完遂する」
満足げに頷く甲龍の視線の先には一冊の本──。
『汝が世界の全て』
そのタイトルを黙読してから、彼は静かに瞳を閉じた。
今はただ、眠るために。
アスタリスとグルームリング。
この両者が甲龍の手にあることを、エリザベートが知ったのはその日の夕方だった。