12

 

 冬の到来。

 雪が街を白く飾る季節。

 まだ月初めだと言うのに、街はクリスマスの気配が漂い始めていた。子供から大人まで、皆がやがて訪れる祭りに心を躍らせる。

 毎年のようにやってくる光景。それでも行き交う人々の喧騒は、飽きることを知らず、そしてだからこそ年中変わらない人の群れ。

 そんな中で、ただ降り積もる雪を踏みしめる音が、耳に届いてくる。

 心地よい音。リズミカルで、だからこそ耳障りな音。

 サクッ……サクッ……。

 振り続く雪は、止む気配を見せようとはしなかった。冷たい風が頬を撫で、その痛さに身が震える。凍えた息だけが熱を帯びて、白く色づきながら立ち上っては消えた。

 

 融ける雪。

 

 愛でられる白い結晶。

 

 その存在を確かなものとして、大地に降り続ける雪。

 

 白く染まっていく空間の中で、誰もが彼女に気付かなかった。足跡を残し、雪の上にその存在を残す少女を、誰も気にすることなく通り過ぎる。

 ここは日本で、その九州地方。そして今いる場所は、商店街へと続く大通りのど真ん中。

 

 だというのに──

 

 赤い髪と赤い瞳。表情のない表情で、少女は地面に積もる雪をその手にとって、通行人に向かって投げた。バサっと、雪が人の顔に被る。

 怒る人。振り向き、雪がやってきた方向を窺う。

 幾人か、別の人間に向かって文句を飛ばす。だが誰も責めるべき相手がいないことにきづいて、少しずつ落ち着きを取り戻す。

 そして無言。

 しばらく見渡して。

 やがて諦めたように、雪を蹴り上げながら去っていく人。

 

(気付いていない)

 少女の思考は、ほんのわずかだった。すぐに、それも消える。

 

 彼女は、気付かれていない。

 否。

 気付かれる(・・・・・)ことができなかった。

 例え彼女が望もうとも、彼女は気付かれない。

 

 誰にも。

 

 永遠に?

 

 だとしたら彼女は。

 

(わたしは──)

 

 雪より劣る。この世の全てに劣る。

 

 そして響く声。

「邪魔だ! どけ」

 

      ◇

 

 ぼんやりとした意識のまま、リオ・カリスマンは目を開けた。

 三畳ほどの個室。そこに無理やり備え付けられた簡易ベッドの上。今の自分の状況を把握するのに、さほど時間は必要なかった。

 朝を告げる音が、壊れた窓から空気に混じってやってくる。散乱した窓ガラスについた赤い斑点を見て、彼女はようやく安堵した。

 甲龍のアジト。そのうちの、彼女に与えられた自室。海鳴市に来てから、毎日過ごしてきた部屋。

「邪魔だ! どけ」

 覚えているのはその一言だけだった。

 というのもそれが夢だったからだが、それでもあまりいい気分ではない。

 昔の自分。昔見た光景。忘れていた過去と、決して忘れたことのなかった言葉。いや、違う。忘れたことのなかった過去と、忘れていた言葉。

(どっちでもいい)

 軽く首を振る。夢の残骸を引きずりながら、彼女は身体をゆっくりと起こした。

 時刻を確認する。

 十月二十九日。午前九時。

「…………」

 考えるまでもなく、どうやら生きているらしいことにいまさら思い当たって、彼女は苦笑した。

「死に損ない」

 自分に向かって吐いた愚痴は、思いのほか心地よかった。

 部屋に誰もいないことを確認して、上着を脱ぐ。下着をつけていないために、少し小振りの、だが形のよい乳房が顔を覗かせた。

 おもむろに、みぞおちの辺りをさすってみる。

「………っ!」

 痛みはまだ引いていなかった。腹部にある違和感に堪えきれずに、彼女はベッドにうずくまった。

 だが痛覚があるということは、まだ生きている証拠だった。少なくとも、身体は死んでいない。痛みがあるからこそ、危険を察知することができる。

(まだ、戦える……)

 先日の戦闘で負った傷は、思いのほか彼女の身体を蝕んでいた。急所を攻撃されたのだから、むしろ死ななかっただけ運がよかったのかもしれないが。

 いや──

(最悪だ……)

 思いなおす。助かったことに、彼女は心底後悔していた。直接彼女を助けたのは、甲龍の部下だろう。結果、彼女は生きている。

 人気のない公園。神楽双真を目の前にしたときの感覚。胸が躍り、彼を殺すことに意識が飛び跳ねた。歓喜といってもいいかもしれない。

 そして今、彼女はここにいる。怪我を負って、ベッドで丸一日眠ってしまった自分が、ここにいる。

 二日前の夜。戦った神楽双真は本気ではなかった。手加減された。それが決して間違いではないという確信もある。あの男が本気を出せば、あのみぞおちへの攻撃をそのまま心臓部に持っていくだけで、女の細い身体なら容易く貫けただろうから。

 悔しさはあったが、それよりも彼女を包んだのは浮遊感だった。不思議。疑惑、とまではいかないが多少の疑問。違和感。だが、不快な感じではない。

 神楽双真。

 元「HELL&HEAVEN」特攻隊長補佐。『反力』の能力を有し、それゆえに『反力者』と呼ばれた男。チーム内の戦闘力最強を誇った、恐怖の根源。だが、実質の戦闘ではナンバー2だったという話もある。

 彼が槙原耕介などという普通の少年の下にいたことも信じられなかったが、それよりも疑問なのは本人の思考である。

 殺意。それに殉じて生きていたはずの彼が、何故二度の戦いで自分という『敵』を殺さなかったのか。

(女だから?)

 一瞬、脳裏にかすめた思考を、リオはすぐさま打ち消した。あの男が、自分の敵をそんな理由で見逃すようなことはしないだろう。

 彼は『敵』を見逃さない。過去、闇の世界に知れ渡った実績がそれを物語っている。とするなら、彼にとって自分は『敵』でないということになる。

 否。

(私は『敵』にすらなれていない。彼は私を……)

『敵』として認識していないではないか。だから殺さない。少なくともこちらの事情がわかるまでは、その決断を延ばしている。そういう気がしてならない。

 再び沸き起こる疑問。怒りと不満。悔しさが交じり合った非情な感覚が、リオを覆う。それを落ち着かせようと、彼女は痛みが残るみぞおちに手を当てた。ゆっくりと、撫でるように。おそらく肋骨の何本かは逝かれているだろうことを痛みから予測して、その分だけ余計に優しく、緩やかに。

 少女の身体。男にはなく、男にあるものがないこの身体。一月に一度、周期的にくる痛感に悩まされる身体。すべてが邪魔でしかない。少なくとも、これ以上の余分な女としての成長は、戦いに向いていないことは明らかだ。

 それでも、捨てるわけにはいかない自分の肉体を優しく撫でて、彼女は火照ってきた身体から、静かに溜息を吐いた。

 と──

「何を溜息なんかついている?」

 唐突に話しかけられて、彼女は慌ててシーツを手繰り寄せた。声から判断して男だと知れる。胸を隠し、声がしたほうを凝視した。

 気配を感じる。薄暗い部屋の奥。視線の先に、確実に誰かがいる。だがさっきまで、その気配は微塵も感じられなかった。部屋に入ってきたのなら気付くはずだ。だが現実として、彼はそこにいた。

 己の油断を後悔しながら、彼女は全神経を解放した。なにが起こっても対処できるように、気付かれないように態勢を整える。

「誰?」

 相手から、敵意は感じられなかった。だがいつでも戦闘に移れるように、リオは殺気をこめて聞いた。赤い瞳が、まだ日の光入らぬ空間の中でうっすらと光を放ち始める。シーツの裏に隠した手で、彼女は気付かれないように布団の下のナイフを取り出した。

「ふん。羞恥心か。そんな大層な身体じゃないだろう?」

 そう罵言をはきながら、男は悪びれもせず無造作に近づいてきた。少しずつ、相手の輪郭がはっきりと見えはじめる。

「貴方は……」

 その男には見覚えがあった。

「氷村……遊……」

 記憶の底から知識を引っ張り出して、リオはそれを目の前の男と照合した。

 夜の一族という西ヨーロッパ発祥の吸血種の一族。その一人である彼もまた、自分と同じ甲龍の協力者のはずだった。面識は一度。それもすれ違いに視線を交わしただけ。

「取り敢えず、その手にあるナイフをしまってくれ。君に危害を加えに来たわけじゃないんでね」

「…………」

 言われて、リオはひとまずその言葉に従うことにした。身体の緊張を解き、殺気も同時に消す。念のためにナイフは握ったままで、彼女は態勢を整えた。結局どうでもよかったらしい。彼女の手にあるナイフをまるで気にすることなく、氷村遊は部屋の隅においてあった椅子を引っ張り出してきて、そこに腰掛けた。

「何の用ですか?」

「俺にいて欲しくないようだな。まあいいか。君のような貧相な女を虜にしても楽しめそうにないしな。ま、その手の筋の人間にはたまらないだろうが……」

「侮辱しに来たのでしたら、お相手になりますよ?」

「君が僕の相手を? ベッドの中でか? それとも殺すという意味でか? どっちにしても無理だよ」

 きっぱりと言い切って、遊は続けた。

「まあいい。率直に話に入ろう、リオ・カリスマン。合計して二度。神楽双真と戦ってみてどうだった? 見事に負けた気分はどうだい?」

「くっ……!」

 明らかに侮蔑としか取れない言葉を、遊は臆面もなく言ってのけた。

 だがリオは言い返さなかった。いや、言い返せない。彼が言っていることは、紛れもなく事実なのだから。

「ほう……事実をそれとして受け止める殊勝さは持ち合わせているのか。人間にしては随分といい心がけだ。身分相応というべきか? ま、それなら話は早い」

 言って、遊はスーツの内ポケットから小さな封筒を出した。重なるようにして持っている写真とメモ用紙をリオに見せて、それを彼女に投げつける。

「さて。それが何であるかを言う前に。リオ、今の体調はどうだ?」

「最悪です」

 即答してみせたリオの態度に、遊は予想通りといった風に笑みを見せた。

「まあそんなところだろうな。憎む相手に負けて、同情されて命を助けられたのでは、笑い話にもならないよ。いや、家畜にはそれがお似合いか。ククク……」

「…………」

「フン。噛み付かないのもつまらんな。まぁいいか……」

 一人、納得した顔で、遊は続ける。

「それは餞別だよ。僕から君への」

「せんべつ?」

「そうだ。その情報は、まぁ夜の一族のちょっとした女のことなんだけどね。聞いているだろう? 神楽双真に協力している存在のことくらい」

「はい……」

「使う、使わないは君が決めろ。光栄に思えよ? 家畜に対してこれほど気前よく何かをするのは久しぶりだ。ぶっちゃけた話、これは僕の好意だよ」

「好意?」

「不服か?」

「いえ……」

 リオの反応を楽しむかのように、遊は視線を細めた。シーツ一枚でこちらを警戒している少女の肌は透き通るように白い。だからこそ、逆にその髪と瞳が際立って異色を放っている。

(まるでお化けだな)

 自身の的をえた表現に内心でほくそえんでから、遊は立ち上がった。

「さて。用も済んだ。僕はこれで失礼する」

「ま、待ってください」

 慌てて、リオが遊を止めた。写真を視線だけで確認する。写っているのは、リオほどではないが赤い髪の少女だった。着ている制服からすれば、どうもこの海鳴市にある高校の生徒の様である。そしてメモ用紙。こちらには電話番号が殴り書きで書かれていた。

 封筒の中身は、封がしてあるためにまだ知れない。

 聞かなければならない。理由を。彼が自分にこのような話を持ちかけてきた理由を、リオは聞く必要があった。

「なんだ?」

「どうして…これを私に……?」

「……邪魔だからさ」

「邪魔?」

 言いかけて、ふと口をつぐんだ遊の態度に、リオは眉をひそめた。

「人間に解釈しても理解できるわけがないし、僕がどういう考えを持っているのかなんていうことは、知らない方がいいぞ? リオ・カリスマン。ま、ヒントを上げるとすれば、その中にいる女は君の目的にとって邪魔な存在だということだ」

「邪魔……」

「後はない知恵を絞って自分で考えろ。何が、どう邪魔なのか」

 捨て吐くように言って、氷村遊は部屋を去った。今度は音を立てて。

 

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