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エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタイン。愛称エリザ。
『クイーン・ザ・ヴァンパイア』『夜を継ぐ者』──
数多く存在する彼女の呼称。二つ名。異名。畏怖と尊敬、憧れからそう呼ばれ、だがどれもが彼女の優秀さを表すもの。
夜の一族として中世の西ヨーロッパに生を受けた彼女は、その知能、魔力、運動能力全てにおいて、一族の中でも群を抜いて秀でていた。何が彼女をそうさせたのかは知らない。
天の恵み。そうでなければ悪戯か。
天才と呼ばれていた彼女は、その二つ名の通り、いつか夜の一族を継ぐ存在として育てられ、またそれに相応しい才覚を持ち合わせていた。一族の誰もが、それを信じた。
寿命。運動能力。知能。魔力。そして文化。全てにおいて人間に勝っている夜の一族においてさえ、生まれながらにしてのエリートとして彼女は君臨している。昔も今も。一族のカリスマ的存在として、彼女のリーダー的存在感は大きい。
吸血種という人外の生命体であることを差し引いても、彼女は優秀だった。それと同時に、彼女と言う存在そのものが純血の吸血種であることの凄さと恐ろしさを、否応なく他人に意識させる。
そのことを、氷村遊は痛いほど自覚していた。
一族間で起こった数十回にわたる後継者争い。その全てに、彼女は勝利してきた。誰も寄せ付けないほどの実力。時の権力者。野望に身を任せたもの。それら全ての敵を薙ぎ払ってきた。
些細な喧嘩から本気の殺し合いも含めて。
純血であるはずの自分を差し置いて、エリザベートという女性は存在している。一族の次期当主として。否、すでに実権を握った主として。
自分という存在が、エリザベートという名の吸血の魔女に敵わないことの証明。
「認めない!」
我知らず、遊は壁を殴りつけていた。
ぱらぱらと、上から鉄片が剥がれ落ちてくる。すでに廃屋として扱われていた甲龍のアジトは、一族の自分が本気を出せば生身で破壊できそうなほどもろく、寂れていた。
壁にひびが入っているのを横目で確認して、遊は深くため息をついた。気持ちを落ち着かせる。誰も今の自分の振る舞いを見ていなかったことを確認して、彼は自分でへこませた壁に背もたれた。
そして思索する。
(そうだ……認めるわけにはいかない)
純血という点なら、自分も彼女と変わらないのだから。
人狼の血を取り入れた綺堂や、魔力濃度の薄い月村の連中はともかく、氷村の家はただひたすら一族の純血を守り続けてきた。
確かに自分はエリザに比べれば遥かに若い。
そして若いということは、人生において積み重ねるであろう『経験値』が足りないということ。そこに差が生じる。その点については、現段階ではどうしようもない。
だが──
長い一族の人生の中で、その程度の年齢の差は大して意味を成さないはずだった。実力至上主義は、今も昔も変わらない一族にとって重大な要素である。
一時前ならいざ知らず、遊はすでに一族としての力と能力を百パーセント引き出すことに成功していた。自信がある。例え心臓を破壊されても、肉体全てが消滅しても再生できるだろう自分の能力に。
だから納得がいかない。
納得するわけにはいかない。
納得がいくわけがない。
(何故、あんな女が一族の長になるのだ)
低俗な人間との友情などを大切にするあんな雌犬に、何故自分が負けなくてはならない。
何故自分がその地位にいるかを理解していない女に。
自分の道すら見出せていない女に。
魔術師でありながら、それを否定する存在であるはずの超能力者たる神楽双真。そのような男に協力するような女に。
「負けねばならぬ道理はない!」
叫びは、うねりと震動を持ってビルをさらに破壊した。振るえ、響き、どこかで数人の男たちが声を上げている。
(くだらない)
愛や友情などという目に見えないものを、大切にする連中の心情が理解できない。その連中の一人として、堕落してしまった一族の女に負ける自分も理解できない。
「エリザ……」
彼女の名。もう何度目になるだろう。まるで愛しい人を呼ぶように、優しく呟く。
(僕を理解しない者に興味はない)
だから──
「君には失脚してもらおう」
誰が聞いているわけでもない。それは彼にとっての独白。
いままで何度となく繰り返してきた宣言。
彼にとって、全てにおいて劣っている人間とは家畜でしかなかった。生きていくうえで、一族は血液を必要とする。そのための生贄。
何故理解しようとしないのか。人間社会と共存の道を勧めた父も含め、普通の女の感情を持ち合わせてしまったエリザも。彼らは結局、分かろうとしなかった。
一族の優秀さに。一族がどれだけ優れているかに気付いていない。劣等種たる人間種族に媚びへつらう必要はない。こっそりと正体を隠して生きる必要性もない。
(くだらない人間たちに虐待を受け、蔑まされ、貶められていた時代は終わった。表に出るべきなのだ。そして弱く儚く、脆弱な人間たちに思い知らせてやればいい。誰が本当に優れているのかを。誰が本当の支配者なのかを)
「安心しな。父さん。エリザ。後のことは僕が全部面倒見てやる。これをきっかけにして、一族が人間社会に台頭する時代の幕開けだ。僕を筆頭としてな」
そのためのエサはすでに蒔き終わっていた。
館の襲撃事件で、遊は無駄に自分の存在を彼女に知らしめたわけではなかった。これで彼女が確実に自分を敵として認識するだろうことは、想像に難くない。戦っても勝てない。それは承知していた。だがそんなことは問題ではない。要は──
(これで、エリザは自分も当事者になろうとする。神楽の協力や、警備隊の依頼など関係なく、な)
そして。
リオ・カリスマンに渡した封筒。写真。そして電話番号。
リオがどういう行動に出るかはわからない。あの封筒など目にせず、ひたすら神楽双真を追うかもしれない。だが、遊にとってはどちらでも良かった。邪魔なのはリオ・カリスマンとて例外ではない。消えてくれることに問題はない。
肝心のエリザベートに関しては、
(勝つ必要はないな。いや、むしろ負けるべきだろう。彼女は知るはずだ。自分の存在意義と、一族や異能者が存在する理由を)
その先にある絶望を味わったときの彼女の顔を想像しただけで、自然と笑みがこぼれる。
(僕は高みの見物を決め込めばいい。計画に問題はない)
確信する。
(そう……問題ない)
何故なら──
(僕は正しいんだ。間違っていない。だって今、僕は十分に楽しいからね)
だからもっと。
(楽しくしてやるよ)
自らが踏み出そうとする策略。
その先にあるものを想像して、彼は嘲るように声を上げて笑った。
退屈のない世界。
それこそが、彼の望んだ結末なのだから。
◇
鳥肌が立つほど嫌悪感を抱きながら、それでもリオは平静を保っていた。ビルを襲った震動と、それに這うようにして伝わってきた憎悪にも似た悪寒。吐き気と眩暈、頭痛が一気に襲い掛かってきて、彼女はそのままベッドに突っ伏した。
(憎しみ、憧れ、悲しみ、歓喜。そんな矛盾した感情がすべて交じり合った感じ。これが氷村遊? まるで子供じゃないか)
もっとも、本当に子供なら彼に危険性などないのだろうが。それに、
(私の方が、子供だ)
自分の年齢を思い出して、リオは自嘲した。ベッドに寝そべったまま、先程手渡された封筒と写真、そしてメモ用紙を見つめる。
電話番号。最初の市外局番からすると、どうも海鳴市の隣、矢後市のものらしい。そこに住んでいる誰かのものなのだろうが、それが誰かはさすがに知り得なかった。少なくとも日本人でないリオの知り合いではないだろう。知るには、かけてみるしかない。
写真。写っているのは自分と同い年くらいの少女。だが制服姿ということは、少なく見積もっても高校一年生、十六歳以上のはずだ。ということは自分が老けているのか、彼女が童顔なのか。結局そんなのはどっちでもいい事に気付いて、リオは笑った。
赤み、というよりはピンクに近い。どちらにしろ、その青色の瞳と重なって日本人離れした美少女である。笑えば可愛いのだろうが、写真の少女は笑っていなかった。誰がこれを撮ったのか、ある程度の予測が付く。
そして最後に残った封筒。窓の方に向けてすかしてみると、一枚、これも写真大の大きさの紙が入っているだけのようだった。封筒の上からなぞってみるが、どうも間違いない。
氷村遊は言った。好きにすればいいと。なら──
(好きにさせてもらう)
封を切る。乱暴に、だが中の紙を傷つけないように。指の先で挟んで取り出した中身は、やはり写真だった。表を向けて、それが何なのかを確認する。
「…………」
目に入ったのはまず風景だった。西洋風の喫茶店。カラフルな飾り。ショーウインドウの中に並ぶケーキ。その奥、向かい合うようにして座る一組の男女。
一方はすぐに知れた。神楽双真。自分が狙う相手。
そしてもう片方は……。
黒髪の美女。困ったような、悩みを抱えた感じの普通の女性。それを隠すようにしてうっすらと笑いながら、向かいの相手を見る黒い双眸。
「……エリザベート?」
見識があったわけではない。が、すぐにそれが彼女だと直感した。
呼吸が止まる。血の気もよだつ思いで、リオは写真の中の彼女を見つめた。
悩み。
苦しみ。
迷い。
自分が進むべき道が見えていないかのような、そんな困った顔。それでも美しいと感じるのは、美形の特権だろう。だが──
「これが、エリザベート……なの?」
信じ難い思いで、リオは吐き出した。呼吸が再開する。それと同時に、記憶にあるエリザの情報が、とどめなく彼女の脳裏に浮かんだ。
才色兼備。一族の有史以来、稀に見る凄腕の魔術師。戦闘力も高い。一族から信頼され、その人望も厚く、他者から愛され、他者を愛し、誰もが憧れる存在。
そう聞いている。少なくとも、甲龍の情報によれば。
だが、写真に写っているのはまるで普通の女。悩みを抱え、男に恋して、やがては一族の後継者を生むただの女。
目の前の現状を理解するのに、リオは数秒かかった。
「邪魔だ……」
抑揚のない呟きは無意識のものだった。氷村遊の言葉の意味。邪魔といった相手が誰なのか。電話番号。そして写真。その意味を、そこに繋がる糸を理解する。
「……いてはいけない」
傍に。
神楽双真の傍に。
「彼のような完成された一個体に、貴方のような人がいてはいけない」
搾り出すように、リオは写真の中のエリザベートに向かって呟いた。
「邪魔なら潰せばいい。そう……そうね。でもそういうことを考える私は、やっぱり子供で、だから私は私が嫌いだ」
紡がれる言葉から、リオの感情が消える。包帯で胸部を覆ってテーピング代わりにすると、彼女は早々と着衣して部屋を出た。
◇
傍にいてはいけない。
彼は完全で、完成された個体なのだから。
完結した存在なのだから。
だからこそ、彼は少女に気付いたのだ。
全てに劣る少女に。
誰も気付かないはずの彼女に。
…
太陽が真上に昇る。秋風が吹き、木の葉が舞う。
秋。やがて来るだろう冬。
果たして自分の故郷ではどうだっただろうと、全く思い出すことのできない生まれた土地の光景を想像しながら、彼女は門をくぐって庭を歩いた。
老朽化した門。コンクリートと粘土の上に積まれた簡素な運動場。敷地内に入ってすぐ左手に見えるのは木造の旧校舎らしく、すでに使われていないのだろう。割れた窓ガラスやはがれた壁が、人気のなさを物語っていた。
それとは全く正反対に、校庭には十数人の生徒が昼休みの一時を穏やかに過ごしている。が、私服で赤髪、燃えるように赤い瞳の彼女を誰も気にする者はいない。彼女自身、そのことを微塵も気にすることなく、そのまま新校舎のほうに足を向けた。
校舎の壁つたいに裏手に回る。次第に耳に聞こえてくる猫の鳴き声。数匹の猫がじゃれついているのは、赤みがかった髪の少女だった。
脳裏で写真と照合する。間違いないことを確認して、彼女はうすく笑みを浮かべた。
と、その少女が気付くよりも早く、猫が敏感に毛を逆立てた。ざわつき。見慣れぬ侵入者の察知。落ち着かないように震えながら、猫たちは鳴き声を上げるよりも早く少女の後ろに回りこんだ。それに伴って、少女が顔を上げる。
その表情に最初に見られたのは、明らかな驚きだった。目を見開き、次第にその視線が警戒の色へと変わる。
至極もっともな反応だと、彼女は内心で頷いていた。目の前の制服姿の少女が驚いたのは、自分の髪と瞳の色だろう。一族によく見られる紅の輝きを見てどう思ったのか。正直気にはなったが、彼女にはしなければならないことがあった。
「綺堂さくら……さん?」
確認する。少女の表情に浮かぶ明らかな不信と不安。無言を肯定と受け取って、彼女は続けた。
「私の名はリオ。リオ・カリスマンと言います。綺堂さくら。貴方に……お願いがあって来ました」
「……お願い?」
(意外に落ち着いている?)
という印象は、だがすぐに撤回した。落ち着いているというよりは、どうにも所在無く佇んでいるといったほうが正しい。少女──綺堂さくらは突然の来訪者にどうしたものか困っている様子だった。
夜の一族と人狼との混血児。
例えばどんな理由でその異なる種族が出会い、交わり、子をなしたのか。普通ではない男女の出会い。思いつく限りの知識からパターンを検索してみるが、そのどれもが違う気がする。
恋愛の末なのか。はたまた政略的なものなのか。少女の母親は、ひょっとしたら一族の長になっていたかもしれない女性である。そのことを考えれば、後者のような気がしないでもない。現に、その妹の方は後継者としての立場を確立しつつある。日本、そして海外も含めた全ての同族たちを統べる者として。
異種族同士の配合。その結果である少女は、何を考えて今を存在しているのだろう。まさかこのまま高校を、そして大学を卒業し、一般社会に羽ばたくつもりでいるのだろうか。
だが考えてみれば、今ここにいることからして疑問でしかない。飼っているわけでもない猫にエサを与えるというその行為が、リオには理解できなかった。
(無駄な行動。結局はただの人に過ぎないということか。それとも……)
犬族と猫。似て非なる種族であるなら、意思疎通が可能なのかもしれない。
だがそれも──
(どうでもいいことだ)
頭を振る。少女の警戒心が一層強まるが、それすらリオには関係ないことだった。
そう、関係ない。これからすることも。しなければならないことも。そして、今から目の前に少女に言う言葉も。何もかも。
変わらないのだ。
もう一度復唱する。そこに自分の意思、全てを込めて。
「綺堂さくらさん」
「…………はい?」
首をかしげる少女。
それを見据えて、静かに息を吐く。
告げる言葉は一息で足りた。
「死んでください」
◇
「邪魔だ! どけ」
見上げた先には、赤いオーラを纏った青年が独り。
全てを否定するかのような殺気に包まれた存在がひとつ。
自分を見下ろしていた。
その瞬間から──
全てに忘れ去られた少女は、彼を求めた。
彼に求めた。
自分に気付いた彼。
全てに劣るはずの自分を見つけた彼。
自分の存在を確かめる唯一の術として。
己の全てを、少女は彼に求めた。
だからこそ彼を『殺す』。
それが、自分が唯一たどれる道なのだと気づいた。
その瞬間から──
彼はリオにとって『全て』となったのだ。