◇

 

 昼食を終えた後は、早速仕事が待ち構えていた。自室で一人、香港警防隊への報告書と攻防する。パソコンに向かい、普段かけ慣れぬメガネを備えて、キーボードを叩く。

 

 十月二十四日。

 テロ組織『龍』の元幹部、甲龍が神楽双真と接触。二十三日に赤髪の少女による神楽双真への襲撃も彼の指示によるものと判明するが、少女の正体は現時点でいまだ不明。

 この直後、神楽双真よりこちらに調査依頼が入る。依頼内容はさざなみ寮女性陣の個人資料ならびに、甲龍の持つ戦力の把握。

 依頼を受諾。戦力を考慮した場合、夜の一族以上の戦闘能力をもつ神楽双真と協定を組むことは、確実な優位性をもたらすと判断した。

 が、以降三日間、敵側の動きが止まる。

 

 十月二十七日。

 こちらの資料が一通り完成したと同時に、神楽双真と槙原耕介が再会する。二人は長崎時代の旧友である。この点から考え、甲龍の目的が彼ら二人が元所属した暴走族連合「HELL&HEAVEN」絡みではないかと考察。可能性の一つとして、考慮しておく。

 神楽双真より、一年前のさざなみ寮襲撃事件の際の甲龍の逃亡に関して指摘を受ける。ならびに今回の事件に関する彼への協力者の調査を依頼される。こちらとしても必要な情報であるため、依頼は受諾。

 同日、九時頃。

 再び、赤髪の少女が神楽双真を襲撃。これを撃墜するも、取り逃がす。

 余談であるが。

 同時刻、槙原耕介が『破壊者』へと変移を遂げる。『破壊者』とは、彼の精神を破壊衝動だけを増大させた状態で、それにより戦闘力を飛躍的に増大する意識変革である(神楽双真の情報より)

 これにより、彼自身も多大な戦闘力を持つことが判明。戦力として、多大な期待が持てる。

 

 十月二十八日。

 

 と、日付を打ったところで、ふとエリザは指を止めた。

「…………」

 書くべきかどうか。迷ったのはその一点だった。

 二十八日。エリザは双真から死体処理の依頼を受けた。

 理由は槙原耕介の『破壊者』への変移。彼らがかつて交わした約束。耕介が人としての『過ち』を犯す前に、彼を殺すつもりだと言ったのは双真である。

 戦い。そして決着。それを彼らは望んだ。どちらが何かを言うまでもなく、彼らは通じていた。そして結果的には最良であったのだろう。槙原耕介は『破壊者』を制御し、双真は彼を殺さないで済んだ。

 しかしこれらは、全て彼らのプライベートなことだ。きっかけは今回の事件かもしれないが、決して直接的な関係はない。

「……迷ってばっかりね。私は……」

 自嘲気味に笑って、エリザはデリートキーを押した。一回ずつ、迷いをかみ締めるかのように。「十」の文字の手前で一度指が止まったが、それもすぐに消した。

 軽くため息をつく。ずり落ちてきたメガネを指先で元の位置に戻して、彼女は液晶画面に目線を戻した。

 もう一度打ち直す。

 

 十月二十八日。

 一族の魔法道具を収容している『倉庫』が襲撃を受ける。このとき残された血痕により、犯人を特定。容疑者は氷村遊。彼が甲龍の協力者だとも判明するが、証拠不十分により言及は一時中断。

 現在、盗まれた魔法道具を調査中。判明次第、別途で報告する。

 

 十月二十九日。

 

 勢いでそれを打って、彼女は苦笑した。二十九日。つまり今日。肩の力を抜きながら、文字を消去する。

 もう二十九日。この事件に関わったのが二十三日。

 たった六日間。だが、もう六日目だ。その間に起こったことの全てが、彼女を取り残している気がして、エリザは軽く首を振った。

(私は……何をしたいんだろう)

 結局、そこに行き着く。先日、遊への怒りに身を任せていたときは意識していなかったこと。夢を見たことでそれは具現化し、今も彼女の胸にシコリとして残っていた。

 八年ほど前の夢。

 神楽双真との出会い。

 当時はまだ、「HELL&HEAVEN」でなかった彼が言おうとしたもの。夢の中で繰り返し問いかけてきたのは、果たして本当に現実だったのだろうか。エリザ自身が望んだ空想なのか。

 それさえもわからない。過去の記憶。すっぽりと抜け落ちた時間。

「……さて!」

 気を取り直して、エリザは打ち込んだ文章を印刷した。保存して、ファイルを閉じる。印刷されてきた用紙をもう一度推敲し、誤字脱字がないか、表現が不適切でないかを錯誤してから、彼女はパソコンの電源を落とした。

 すぐさまファックスで香港へ送る。電子メールで直接送れないことはもどかしかったが、ピーという耳障りな電子音が今は何故か心地よかった。思考が乱されるだけで、気持ちが軽くなる。

 と──

 報告も終わり、一息つこうと椅子に座りなおした途端、前触れもなく電話が鳴って──実際電話とはそういうものであるのだが、エリザは投げやり気味に受話器を取った。きっと諜報部のくだらない報告だろうと思いながら、受話器に耳を当て、相手を確認する。

「もしもし?」

「……エリザ様、外線にお電話が入っていますが」

 相手は彼女に仕える給仕からだった。いわゆるメイドという職業の彼女らは、エリザの身の回りをする家政婦である。その彼女は、どこか不機嫌なエリザの心情を電話越しにも敏感に読み取ったのだろう。少しためらいがちに、要件を告げた。

「外線? 誰から?」

「さくらお嬢様です」

「さくら?」

 思っても見なかった電話の相手に、エリザは素直に驚いた。慌てて気分を切り替えつつ、メイドに指示する。

「あぁ、おほん! いいわよ、こっちでとるから。ありがと」

「はい、それでは」

 内線が切られ、エリザは電話機の外線ボタンを押した。

「もしもし?」

「…………」

「さくら? もしもし?」

「……先に謝罪しておきます。エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタイン」

「え!?」

 耳に聞こえた声は、エリザの知った音ではなかった。

「誰?」

 すぐさま思考を切り替える。電話の声は、少なくとも姪の声ではなかった。無機質な音。それを一字一句逃さず脳に焼き付けると同時に、電話の向こうにいる相手がさくらと名乗ったその理由を、エリザは考えられる限り想定した。無論、最悪の事態も含めて。

 想定した──はずだった。

「私はリオ。リオ・カリスマンといいます」

「……何の用?」

「綺堂さくらを殺しました」

「…………え?」

 思考が硬直する。発することができた応えは、ただそれだけだった。

「風芽丘学園。旧校舎の裏庭でお待ちしています」

 回線が切れる。切断音を耳にしたまま、エリザは反芻した。

「さくらを殺した」

 

 殺した?

 

 つまりは死。

 

 命の停止。

 

(さくらが……)

 

 死んだ。

 

 殺された。

 

「誰が……」

 

 決まっている。電話の相手だ。

 女。声質からすればまだ子供だろう。

 

 果てしない落下。

 何もない空間。

 最果ての無い闇の中、毒が回り、やがて精神は腐っていく。

 それが死という事象。

 

 たどり着いた結論は、一つしかなかった。

「さくらが死んだ」

 

      …

 

 不思議と、涙は出なかった。

 実感していないわけではない。死を理解できないほどエリザは幼くなかったし、体感した永遠の別れを悲しまないほど非情でもなかった。ましてや、別れを悲しめないほど無感情でもない。

 けれど涙が出ない。

(何故?)

 椅子に腰掛けて、エリザは呆けたように天井を見つめた。

 さくらが死んだ。

 それは真実で、それだけが現実。

 けれど悲しくならない。悲しむことができないのではなく、純然とした感情として、心に「悲しみ」が存在していない。

(何故?)

 何をすればいいのかわからずに、硬直する。

 頭痛がした。激しい眩暈に襲われて、机に突っ伏す。全身に広がる激痛。瞬間的に、視界に入る全ての景色が暗転した。痙攣を起こし、呼吸すら忘れて、エリザは本気で何もすることができなかった。

 声を出すことができない。誰かを呼ぶこともできない。

 悲しみから繰るものとは違う苦しみと痛み。

 何が自分をそうさせるのか。

 考える。だが考えるまでもなく、答えがやってきた。

 

 さくらが殺された。

 なら、これから自分がすることは決まっている。

 

 ──決まっている。

 

 死体。

 死ねば必ず残るもの。あるはずのもの。

 容れ物であるはずの身体。

 抜け殻であるはずの肉体。

 それを自らの瞳で確認していないうちはまだ、認めるわけにはいかない。

 

 さくらの死を。

 

 そしてもし──

 もし現実が本物であるなら。

 

 後はもうどうでもよかった。

(さくらを殺した奴を殺して。それで終わり)

 

 甲龍も双真も、槙原耕介も関係ない。

 そこで彼女は──

 

(私は……)

 

 終わる。

 

      ◇

 

 そこにあるのは、怒りでもなく、悲しみでもなく。

 何をすればいいのかさえわからないまま。

 だが確かな意思として。

 大切なものを取り返しにいく自分がいる。

 

 感情に突き動かされることの心地よさを感じながら。

 走る先に見える風芽丘学園を、彼女は赤く燃える瞳で臨んだ。

 

      ◇

 

 風芽丘学園、旧校舎。

 使われなくなって何年経つのだろうか。湿気を帯びた木板。閉じられた空間に漂う水の気配。灰とカビ、そしてホコリ。それらが交じり合い、人の立ち寄らない過去の存在を覆っていた。

(誰かいる……)

 異質なのは、何も建物やそこに漂う空気だけではなかった。人ではない何か。だが確かな視線と気配を、リオは感じ取っていた。宙に浮くような、エレベーターに乗ったときの下降感にも似た感覚。意識の先にある存在がなんであるかを確かめようと、彼女は旧校舎を見上げた。

 リオがいるのは旧校舎側の庭先だった。ここからは新校舎は見えない。ということはつまり、ここは新校舎からも見えないということになる。人がこの場所を歩いた形跡はない。植物と虫、そして動物、人を寄せ付けない何かがここにはあった。

 が、結局のところその疑問は晴れないまま、時刻は二時を回ろうとしていた。ここにきたのが三十分前。そろそろ現れるころだと踏んで、リオはその詮索を諦めることにした。

 自分を物色するかのような視線を甘んじて受けながら、彼女は隣にいる少女に視線を向ける。

 眠っているように、ただ地面に転がる肢体。せめてもの気遣いにと、リオはうつ伏せに地面に付している少女を仰向けにした。

 少女──綺堂さくら。

 人形のように微塵の動作もない。触れると壊れてしまいそうなその身体に持ってきていた毛布をかけ、リオは彼女を担いで旧校舎に足を踏み入れた。

 カビとホコリの臭い。歩くたびに床がきしみ、腐った板の割れた隙間から闇が姿をのぞかせていた。それを避けながら、適当な教室を選択する。新校舎から見えない位置に少女を寝かせる。

 と──

 静かなエンジンの音が、校庭のほうから聞こえた。見逃せば他の車と区別できないほどの微小な音。だが同時に風に運ばれてきた異質な気配から、リオは瞬間的に悟った。

「……来た」

 緊張していたわけではなかったが、自然と手のひらに汗が浮かんだ。もう一度、床に転がる少女を見やる。綺堂さくら。今はただ、その名前がついた人形にしか過ぎない少女を取り返すために。

 否。正確には自分を殺すために。

 

 彼女が──

 エリザベートが来たのだ。

 

      …

 

 黒髪。白い肌。輝く赤い瞳。そのミスマッチな容姿でさえ、エリザベートという女性はひたすら美しかった。薄手のブラウスにジーンズパンツといったラフな服装でさえ、格好良さが際立っている。人体そのものの素材の良さを実感させる存在。

 神の悪戯か。さもなくば悪魔の趣旨か。そう思わせるほどに美しく、完成された造形美として彼女はそこにいた。

 怒りのこもった瞳を、確実にこちらに向けながら。

「はじめまして」

 とりあえず、リオが言うことはそれだけだった。後は、エリザが勝手に解釈してくれるだろう。

「さくらはどこ?」

「殺しました」

「答えなさい! さくらはどこにいるの!」

 語気を荒げて、エリザは一歩、その足を前に出した。距離にして数メートル。決して遠いわけではない。が、息と体温を感じ取れるほど近いわけでもない。だというのに、リオにはエリザの瞳が揺れているのが見えた。ゆらゆらと、まるで根無し草のように。

「知りたければ……」

 一歩、また距離が縮まる。構わず、リオは続けた。

「死んでください。死ねば会えます。あの世で」

「目的は……私?」

「そうなります」

「なら、何故さくらを巻き込んだの?」

「殺したの? とは聞かないのですか?」

「答えなさいっ!」

「貴女が邪魔だから……です、エリザベート。それでは不満ですか?」

 あくまで感情を表に出さないリオの態度に、エリザはさらに眉を吊り上げた。殺気が彼女を覆い、それに反応してか、周りの空気がざわつきを持って揺れた。

「もう一度聞くわ。さくらはどこ?」

 どうあっても認めないらしい。エリザの言葉は、もはやただの確執だった。自分の目で確認するまでは綺堂さくらの死を認めない。それは賢明な判断だろう。

 だが──

「それはきっかけでしょう?」

 答えになっていないはずの応えに、エリザは明らかに表情を変えた。

 そう。きっかけにしか過ぎない。

 何が理由であれ。

 彼女はここに。

「私を殺しに来たのではないのですか?」

「アンタを殺すのは、さくらの死を確認してからよ」

「もし生きていたら、そのままここを去るつもりですか?」

「……アンタがそうさせてくれるなら……ね」

 一瞬だけ、エリザの殺気が緩む。だが逆に、リオは心底呆れたようなため息をついた。それと同時に、表情を一変させる。

「それが貴方の結論なら、やはり貴女は私にとって邪魔だ」

「……え?」

「貴女のような何もわかっていない人が、彼の傍にいてはいけないんですよ、エリザベート」

「……彼?」

 すぐに思い当たる。神楽双真。この少女が命を狙う相手。

「……」

「嫉妬……って受け取ってもいいのかしら? それは」

 皮肉のつもりの質疑は、だがあっさりと切り返された。

「そうですね、嫉妬です。私は貴女が邪魔です。彼を殺すために」

「本気で殺せると思っているの? 神楽双真は、そう簡単には死なないわ」

「問題ありません。私が必要なのは彼を『殺す』ことであって、彼の『死』ではないですから」

「…………え?」

「貴女は考えたことがありますか。彼がどうして生きているか。何を考え、何を思って生を送っているのか。考え、想像して、それが理解できますか? できていますか?」

「…………」

 黙りこんだエリザの反応を、リオは否定と受け取ったのだろう。ゆっくりと視線を地面に移した。

「それが答えです。結局、貴女は神楽双真のことを何も理解していない。だから彼のやろうとしていることも。生きている理由も。この街に来たわけも。何も知らない。そしてだからこそ、私がやろうとしていることなど理解できるわけがない」

「…………」

 黙ってそれを聞くエリザに、クスっと笑ってリオは続けた。

「滑稽ですね。夜の一族の次期当主になろうとしている人がこの程度なんて。これでは氷村遊が貴女に反旗を翻したのもわかります」

「…………」

 ただ無言で、エリザはリオを睨み付けた。言いたいことを視線に含めて、敵意を持って目の前の少女を見やる。

 反論できないわけではなかった。だが彼女の言うことが半分以上正しいこともまた事実だった。

(私は理解していない?)

 そして考えたこともなかった。神楽双真が何故生きているのかなど。

 いや、そもそも。生きることに理由が必要なのかどうかさえ疑問だった。生まれたのであれば生きる権利は誰にでもある。

 生まれた理由。生きる理由。

 果たして、生命体にそれが必要なのだろうか。それすら、エリザにはわからない。

 この街に来た理由を、自分を殺せる存在と会えそうだからと彼は言った。それがこの少女のことかどうかはわからない。だが元々の答えを、エリザは理解したわけではなかった。

 

──生まれた理由を知りたければ死ねばいい。

 

 彼はそう言った。

 

──自分を殺せる存在がいるなら……俺はそいつのために生まれたということだ。

 

 では生きる理由は?

『反力』という異能力を持つ彼が見出した理由。誰のために。何のために。

(世界のため?)

 

──世界が必要としているなら死ぬことはない。

 

 それなら、今まで生も半ばで死んでいった者たちは必要とされていなかったというのだろうか。可能性として、もう死んでいるかもしれないさくらのように。

 けれど──

(私はさくらを必要としている!)

 それすらも無視して。

 世界は少女を否定したのだろうか。

 だとしたら、世界とはなんと非情で無常なのだろう。

 ならば──

(私はきっと、神楽君を理解できない)

 死を受け止めることならできる。

 だがそれを受け入れることは絶対にできなかった。自分の内に在る、ありとあらゆる感情を掘り返してみる。喜怒哀楽。おおよそ人としての、人らしい感性を総動員させて、エリザは目の前にいる少女を見やった。

 赤い髪。赤い瞳。薄く発光する双眸を見て、すぐに思い当たる。

「貴女、薄いかもしれないけど一族の人間ね?」

「……そうですか? 自覚したことはありませんが……」

 この少女は苦手だと、エリザは認識していた。どこまでが本心なのか、その外見からは想像できない。

「なら、これが最後の宣告よ。同族のよしみで殺さないであげる。さくらを引き渡しなさい」

「……それが、貴女の結論ですか?」

「そうよ。私は彼のことを理解しているわけじゃない。いえ、何も知らないのと同じでしょうね。貴女がそのことに遺憾を感じても、それは仕方ないわ。けれど私がここに来た理由は、綺堂さくら──私の姪を取り返すためよ。彼のことなど関係ない」

「…………」

「私は、私の家族のためにここにいる。私はさくらが好き。あの子はいい子よ。これから先、いい人を見つけて幸せになれる。だから……」

 言葉を切る。呼吸の音すら聞こえそうなほど、目の前の少女は肩を上下していた。決して相容れないであろうその少女に向けて、確かな意思を持って言葉を紡ぐ。

「それを壊そうとする者を、私は決して許さない」

 

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