14
美しい思い出があった。
◇
「神楽双真……」
自分が紡いだ声さえ他人のような感覚に襲われる。はたして呟いたのはどちらだったのか。声は、もしかしたらリオ・カリスマンのものだったかもしれない。
だがどちらにしろ、エリザは無防備に彼を見つめた。
驚きというものが予期せぬことに心の落ち着きを失うことをいうのなら、彼女は決して驚いてなどいなかった。
心は果てしなく静かだった。心臓の脈動も、肺が酸素を送り出す行為も。波立つ全ての生命活動が、ただ優しく満ち干を繰り返している。
死の気配。有限の最果てにある闇。否定という名の存在。
それを目の前にしても、不思議と恐怖はなかった。違和感もない。包み込むような安堵感が、彼女の心を支配する。何故ここにいるのかという疑問さえ浮かばないほど、彼は自然だった。
死を意識させる存在──神楽双真は、ただ静かにそこにいる。
「どうして……」
「……ここは街中だぞ? 異質な殺気が二つもあれば感知もするさ」
飄々と答えながら、双真はエリザにむかって歩を進めた。
秋物のコート。渋いこげ茶色のそれは、だが彼の容姿には似合っていた。中身の性格を知っているだけに多少の違和感はあったが、それも含めて左手に見える包帯の白は、明らかに不純だった。
「さて。随分押されているようだが……」
視線をリオのほうに送りながら、双真は言った。軽く笑みを浮かべて、ポケットに入れていた両手を出す。が、別段意味のある行動ではなかったらしい。無造作に胸の前で腕を組んで、彼は立ち止まった。
「悪かった……わね…」
かろうじて働いた思考で言えたのはそれだけだった。何もかも見透かしたような双真の態度に、今度は一変して不快感を覚える。睨み返すと、それこそ彼の皮肉な笑みは深まった。
「で? あれが何なのか、理解できたのか?」
「神楽君にはわかるの?」
「今さっき来たばかりだぞ? だがまぁ──」
「…………?」
「じきにわかるさ。『同類』だからな……」
「え?」
不敵な笑みを浮かべて、双真は見据えた。赤髪の少女。二度、戦った相手。いまだ結界の中にいる少女は、エリザから双真に意識を移していた。
距離にして約十メートル。一息で接近できる程度である。
そしてぐらりと──
薄く青い光を放っていた立方体が、まるでゼリーのように流体的に形を崩した。間を空けずに結界が霧散する。これで、少女を遮断するものが無くなった。
「神楽君」
震えから、声がうまく出てくれない。
自分独りだけ、位相がずれてしまったような不安。疎外。空疎。孤独。剥離された距離は、だが手を伸ばせば届きそうではあった。けれど結局、何も出来ずに見送る。
満ちる殺気。これから目の前で行われることを想像して、エリザは身震いした。今までのリオ・カリスマンとの諍いも忘れてつばを飲みこむ。手から力が抜け、だというのに硬直が解けない。
「わかるさ……」
歩き寄りながら確認するかのごとく、双真が視線を細めた。決して厳しいわけでも睨んでいるわけでもなく、ただ懐かしむように、心待ちにしていたように。
記憶に沈殿していた不純物を、再び浮き上がらせるために混ぜ返すように。
うっすらと、彼を通して視えたのは見たことのない街並みだった。
そこにある光景。
冬。
雪。
赤い髪の少女。
忘れていた者。
忘れ去られていた者。
すべからく、そうなるように制御されていた者。
「わかるさ。俺たちは同類だから。だろう? リオ・カリスマン」
◇
反力によって『否定』し続ける者と『忘却』に黙する者。
◇
声は無慈悲だった。問答無用で心臓に衝撃を与えてくる。鼓動が高鳴り、脈々と身体に送り出される血液が音を立てて流れていく。
彼は知った。自分の名前を。そして知ったなら、それをきっかけにやがて思い出すだろう。いや、すでに思い出しているのかもしれない。
「神楽君?」
疑問符を浮かべてきたのは、だが双真の後ろにいるエリザだった。
「思い出したのさ。ただそれだけだ」
ドクン!
「思い出した?」
「赤髪に赤い瞳。長崎で俺が耕介の下についてしばらくたった頃に一度、俺はアイツに会っている。名前を聞いたわけでも、何か話したわけでもないから、知り合ったわけじゃないんだが……」
ドクン!
「あの子に?」
「ああ。これはもう完全に俺の不注意だな。うっかりしていた。今まで襲撃が二回。別段、アイツが誰なのか考えたことも無かったし……しかしそうなると、アイツが俺を狙う理由に心当たりが全く無い」
「……どうして?」
聞こえてくる会話。
神楽双真を目の前にして、自分が何故こんなにも鼓動が高鳴るのか。
わからない。
「俺があいつに何もしていないからだ。そしてつい一週間前、再び俺の前に現れたアイツは俺を『殺す』ことが自分の存在意義だと言った。俺がやらかした犯罪はその約九割が殺人だ。だがその仇討ち程度のことで、存在意義なんて哲学的な自己満足を達成することが出来るか?」
「……それは……」
「なら、仇や憎しみ、そういった感情論とは別の何か。俺を殺したがっているその理由は、まぁ聞くしかないんだろうな、直接」
殺したがっている?
そう。殺したい。
殺すために、今自分はこの場にいる。
少女が欲するのは、『殺す』という過程。
高鳴る鼓動。脈打つ血液。沸騰して、逆流して、やがて破裂して。肉を突き破り、そして空高く噴出す鮮血。赤い息吹。生きている証。
心臓が圧迫される。
ドクン!
「あの子の能力は多分……記憶の操作。精神感応の一種かしら? 結果的に、私はあの子を忘れたの。忘れてしまった」
「…………」
「忘れられたのは自分であって、忘れてもらったのではないって言ってはいたけど。とにかく忘れてはいけないのに、私は忘れた。忘却があの子の全て。忘れられるために生まれたのだと。彼女は確かにそう言った。ねぇ、神楽君?」
「何だ?」
「結局、貴方たちって何者なの?」
「さぁな。神様にでも聞いてみればどうだ? いればの話だが」
「私、クリスチャンじゃないんだけど……」
「自分の正体がなんであるかなど、それこそただの自己満足の粋に過ぎん。俺がいかに反力で他者を『否定』しようと、あの女がいかに『忘却』に殉じてようと。そんなものはただの定義だ。理由にはならん」
言葉を切る。エリザからの反論がないのを読んで、双真は続けた。
「人が動くのは定義ではなく欲求だ。俺が敵を『否定』してきたのは、そうすることでしか自分を保てなかったからだ。だからアイツが何を望んで俺を殺したがっているのか。何故お前にまで手を出したのか。その理由に、定義や根源は関係ない。関係していても、関係ないんだ」
そう──
関係ない。
今この時点で。
少女にあるのはただ、彼を殺したいという欲求だけ。
「でも!」
「だから結果論だ、エリザ。殺しの過程、殺したくなった理由がある。行動に移したくなった原因が必ず存在する。時間移動でもない限り、その因果律が狂うことは決してない」
「さくらが殺された理由も?」
「さくら?」
「私の姪」
「殺されたのか?」
「でなければ、私がここにいる理由が無いわ」
「……そう言えば、お前が何故あの女と対峙していたのか理由を聞いてなかったな。で、確認したのか? 死体を」
「まだよ。そんな暇はなかった。リオは私が邪魔だと言った。つまりは私をおびき寄せるためにさくらに手を出した」
殺した。
綺堂さくらを。
だが彼女を殺しても、意味は無い。
意味はない。
「なんだ。理由、わかっているじゃないか」
「でも、何故あの子が! 何故さくらが殺されないといけないの? 関係ないのよ! 何も! 神楽君が言った「生まれた理由が死ぬことで知りうる」なら、さくらが生まれた理由って何? まさかそんな程度の理由で死んだの?」
「…………」
「世界が必要とすれば死なないって言ったよね? ならさくらは必要とされなかったってこと?」
「必要じゃないのか?」
「私には必要なの!」
「なら、それでいいだろう。そもそもそんな議論が必要なのか?」
「え?」
「お前の姪の生死に、そんな議論が必要なのかと聞いている。あれは俺の持論だよ、エリザ。神楽双真という一人の人間が辿り着いた小さな結論だ」
小さな結果。
辿り着いた結論。
何故殺したいのか。神楽双真を殺したくなった理由。殺すことで、自分の存在意義が満たされると信じた理由。
知っているはずのもの。けれど、考えたくないもの。
何故?
「お前がそれに左右される必要性はどこにも無い」
「……でも……」
「ま、その話は後だな。さて、そろそろ話せ、リオ・カリスマン。俺を狙う理由があるんだろう? 根本に存在する欲求が」
聞こえない。彼は何を言っているのだろう。
話せ? 何を?
理由? 何の?
(ああ……私は……)
「おい……?」
もう──
抑えられない。
「ああああああああああああぁっ!」
それはすでに、叫び声でさえなかった。音。鼓膜を振動させるだけの、ただの波動。
そして不意に──
少女は消えた。