◇
美しい思い出があった。
家族。父と母と、生まれたばかりの妹。それを臨む自分。
それは思い出すことも敵わない過去。
優しさと暖かさ。必要とされること。そんな安堵感に包まれた自分。
そこには思い出があった。
美しすぎるほどの思い出が。
◇
「神楽君?」
自分を呼ぶ声を聴いて、双真はそちらを振り返った。
エリザベート。夜の一族。その次期女王がいる。が、すぐにそれを視界からはずすと、双真は何も無い空間に意識を受けた。
否。何も無いわけではない。ここは風芽丘学園の旧校舎、その裏庭。草木も、校舎も変わらずそこに存在している。無いのは──
注目しなければならない何か。それが無い。
「ちぃっ──」
小さく舌鼓を打って、双真は忽然と姿を消した相手を探した。無論、有視できないなら、気配で捉えるしかない。
と──
眼球の奥にチクリと痛みを感じて、双真は息を詰まらせながら身体をよじった。次の瞬間、眼前を空気の刃が通り抜けていく。その派生先を見据えて、彼は誰もいない空間に蹴りを放った。かすかに、布の感触を足先に感じる。それが誰のものであるかなど、考える必要も無い。
リオ・カリスマン。自分の命を奪いに来た少女。
目を凝らしても何もいない。
体勢を整えると同時に、双真は思いっきり後方に跳躍した。とにかく、考えるだけの時間が必要だった。
(エリザは忘れたと言った。リオ・カリスマンを。だが俺は……)
覚えている。忘れてなどいない。記憶は、確かに存在している。
だが先ほど彼を呼んだエリザの顔は、何故自分がここにいるのかわかっていないような、そんな不自然に呆けた表情だった。そのことを思い出して、再び首を振る。
(エリザは忘れている)
ヒュンっ!
と、思考が決着する間もなく、威圧的な気配が左方向からやってきた。相手の呼吸音を察知する余裕もなく、空気の流れだけでは動きを読み取れずに、双真は一撃食らって後方に突き倒された。
「くっ!」
地面をこすり、先日傷めた左腕が悲鳴を上げた。痛みに視界が揺らぐが、すぐに跳ね起きる。
痛みの消えない左肩をさすってみると、手のひらにベトリと冷たい感触があった。ぶあつめのコートさえ突き破って、服と包帯の下に見えたのは焼きただれた左腕。その赤く染まった肌である。
出血はかなりのものだった。コートを脱ぎ捨て、動きやすいようにスタンスを取る。
(行動に迷いの無い者。純粋に自分の感情に支配された者。後のない者)
リオ・カリスマンはまさにそれだと、双真は認識していた。以前とは比べ物にならない動き。そして覚悟の上の強さ。なによりもその迅さ故に、本体を掴むことさえできない。
殺気は存在する。攻撃を仕掛けてくるその瞬間だけではあったが。そして普段なら、敵に意味消滅をしかける『反力』を発動させればそれだけで敵の動きは止まる。だが──
姿が見えないのであれば、たとえ発動させてもリオはその標的にならない。双真に出来たことは、ただ攻撃を避け、カウンターを繰り出すだけだった。
出来る事がないのなら、少なくとも考える必要があった。少女を倒す方法はもとより、今の状態。そして彼女の能力。
忘却。忘れられる少女。姿を消した赤い瞳の敵。
(赤い瞳?)
真正面に風の流れを感じながら、双真はつぶやいた。
(コイツ、夜の一族か!?)
普通の人間のそれを遥かに上回る身体能力をもつ一族。もしそうだとしても、彼女の動きは速い。
それが何を意味するのかを考えながら、双真はかかとを浮かせ、半身を前に送り出した。攻撃を繰り出せる姿勢。とりあえずの致命傷は避けられると踏んで、突進してくる気配の動きを読む。
動作は単純だった。急所めがけての攻撃は、しかしそこを防御すればいいだけのことで、故にその行動は極めて単調になる。
無防備に、双真は一瞬だけ構えを解いた。その隙を狙って、殺気だけが増大する。どうせ傷物だからと左腕を心臓部にあてがうと、見えない敵の、見えない指が彼の腕に食い込んだ。だがその瞬間、血飛沫が飛ぶよりも早く、眼前にいるはずの少女に手を伸ばす。
そして今度こそ、彼はリオを捕らえていた。そのまま強引にエリザのほうに投げ飛ばす。
「エリザ!」
「──え? って、きゃあぁっ!」
巻き込まれて倒れこむエリザと同じように、そこに不自然な境界ができた。人の形をしたもの。透明人間に近い──実物を見たことなどなかったが──感じだろうか、エリザの上に、紛れもない人型がいる。
「捕まえろ!」
それだけで、エリザは意味を解したようだった。瞳に力が戻り、自分の上に在る少女に向かって意識を飛ばす。両手で物理的拘束を達成しながら、彼女は次いで魔力を開放した。
──Give him the morning star!
「Gain!」
紡いだ言葉がエネルギーの帯となって人型を覆い、そこでやっとリオが姿を現す。魔術の式を意味する呪文。それをたった一言に集約して、エリザは魔術を発動させた。
「また忘れていたみたいね、私は……」
自嘲気味に笑うエリザと、それを睨み付けるように赤い瞳を向けるリオ。対照的な二人を眺めながら、しかし双真は釈然としないものを感じていた。
忘却。エリザは忘れ、だが双真自身の記憶には何の異状のなかった。そして姿の消失。
見ると、左腕を貫いた少女の指は赤く染まっていた。ならば、彼女はこの場所、この空間には存在していたということだ。異次元に姿を消したわけでも、位相のずれた場所にいたわけでもない。
ふと、双真は貫かれた左腕を見た。
痛みの残る腕は、肩を含めて二箇所、かなりの深手を負っている。先日の耕介との戦いの傷さえ癒えないまま、少しずつ神経が希薄になっていくところをみると、どうにも早急に手当てをしたほうがよさそうだった。
その腕の傷。そこにある熱。肉を破り、骨にまで達しているかもしれないその殺傷に、だが肉体が持つ治癒熱とは別の何かを感じて、双真は眉間を寄せた。熱は湯気を帯び、微かな生臭さを香らせながら、少女の指に、身体に、まとわりついた双真の血へとつながっている。
「邪魔をしないで」
ゾッとするほど低い殺気の帯びた声を上げ、リオがエリザを睨んだ。先ほどの結界と同じように、再び少女を捕らえる帯が揺らぐ。だが帯はそのまま形を変えながら、少女を放そうとしなかった。
「無理よ。今度の結界は単調な分、ロジックなんて必要としてない。その形状を絶えず変化する。たとえ貴女の存在を忘れても、今その内にいる対象を離しはしない。貴女がいてもいなくても、その機能を変わらず発揮する魔力の鎖」
「忘れて……お願いだから」
「おとなしく負けてくれるなら忘れてあげる」
「……忘れて……」
か細い少女の声。その言葉に疑問を持つよりも早く、背筋に走る悪寒は丁度この数秒後にやってきた。
「エリザ! 離せ!」
「え?」
白濁。
間をあけず、閃光が走ったように視界が白けた。白い空間。満ちる光の中で、だがこれがただの発光ではないことは、すぐに見て取れた。どこにも影が存在していないのである。これが現実でないのなら──
(幻覚だ、間違いなく。だが、あいつの姿が気配もろとも消えるのはどういうわけだ?)
疑問に思いながらも、双真は早急にその場を飛びのいた。光がはじける瞬間、リオがエリザの呪縛から逃れたところを見た気がする。あくまで勘ではあったが、今は信じるしかなかった。相手の居場所がわからない以上、そしてこちらの位置が知られている以上、同位置にいるわけにはいかない。
エリザの所在も気にはなったが、この際どうでもいいだろうと割り切って、思考から除外した。リオ・カリスマンが狙うのは、あくまで自分一人なのだから。
(能力を使ったのか? だが一体何の?)
とにかくそれを考える必要があった。戦闘体勢はあくまで崩さず、こちらも気配を消す。敵の攻撃を避けるのに必要な意識だけを残して、双真はひたすら考察した。
視界の白はいまだ変わらない。
風が流れ、はっと顔を上げると、その先にうっすらと一人の人間が立っていた。赤髪。赤い瞳。じっとこちらを見据え、笑っているようにも見える少女はひたすら美しくもあった。整形された人形のように。不気味なほど真顔で、リオはこちらを臨んでいる。
「リオ……」
「はい」
名前を呼ぶと、少女が返事をした。意味のあるようで、意味のない行為。戦闘という最中に、こうして見詰め合っているほうがよほど不自然だということに気づく。笑ってやると、少女はうれしそうに頬を染めた。
そして静かに、告げてくる。
「貴方を殺します」
「やってみろ」
視界がはじけ、白ける景色が消失する。それと同時に、リオの姿も消えていた。気配も感じない。そして今度こそ、
(やってくる)
確かな敵として。少女は双真を殺しにやってくるだろう。
ふと視界の端にある肢体を見やると、エリザが地面に倒れていた。意識を失っているわけではないらしい。不自然にあたりを見回しながら、またこちらに視線を向ける。迷子になった子犬のように。
「また忘れたのか……」
呆れたようにため息をつく。忘れられる方も可哀相になと、そう思った瞬間、双真はある種の違和感を覚えた。
(俺は今何を言った?)
忘れられる方。確かにそう言った。無意識ではあったが。忘れられるのは誰かといえば、一人しかいない。リオ・カリスマンである。
(忘れられる。忘れてもらうでもなく、忘れられる?)
エリザの言葉を思い出す。
──忘れられたのは自分であって、忘れてもらったのではないって。
もらったのではない。なら、少女は──リオ・カリスマンは、望んだわけではないということになる。そして姿の消失。それが示唆するもの。白ける視界。幻覚。決して透明になったわけではなく、それこそあるはずのものが見えない状態。
(あるはずのもの。忘却。忘れられる。消失)
──られる。
キーワードが集約していく。
「まさか……お前……」
湧き出た結論は、あまりにも唐突だった。それ故に疑惑が強まる。ありえるわけがないという意識の隅で、少女がニコッと笑ったような気がした。
「受動力……呪縛者か!」
迫りくるリオの攻撃を跳躍して避けながら、双真は悲鳴にも似た叫びを上げた。
◇
忘れるという行為は、脳における記憶のどの機能にも当てはならない。だがあえて言うなら再生ができなくなるということだ。もしくは、銘記があやふやであるために、再生すべき記憶がどれかわからないとも言える。
世界を構成する物理法則が情報による産物であるとするなら、記憶とは全ての存在に許された情報保存機能のことである。生命が有る無しに関わらず、有機物であるかないかなどに関係なく、その機能は全てに存在する。そこに個々の差は存在しない。差があるのは、その情報を呼び出す機能であり、保存自体には変則も例外もない。
『忘れる』とは、言うなれば情報を呼び出す機能が凍結することである。保存した情報──記憶を呼び出せない。再生が出来ない。再生しても、それが正しいかどうかを認識できない。故に思い出せないという現象が確立され、そこで初めて忘れるという事象が生じる。
記憶は決してなくならない。情報は失われない。見たもの触ったもの。自分の周りにある全て。経験した全て。情報として脳が取り込んだなら、それはすでに記憶なのだ。脳というハードディスクの中に、幾億もの記憶が自動的に銘記され、保存されている。
故に、忘れるという行為は記憶の喪失とは異なる。脳が何らかの障害を持ってしまったなら話は別だが。健全であるなら、記憶は決してなくならない。
忘れるのは自分であり、決して他人ではない。脳にパスワードなしでログインできるのはあくまでその所有者。本人のみなのだ。
ならば当然、他者の記憶を操作することは困難となる。不可能ではないが、あくまでそのレベルを逸しない。幻覚や刷り込み、催眠によって、記憶の再生をジャミングするのが関の山だ。限りなく万能に近づこうとしている魔術でさえ、自由に記憶の操作を出来る術は存在しない。その片鱗に触れる術は、限られた先天的能力を持つ一部の者たちが残した記録にのみ在る。
情報の再生の妨害。
ただ忘れさせるだけなら、それで十分過ぎる効果がある。保存された情報の場所、存在があやふやになれば、後は各々の裁量で勝手に解釈するのが人間だ。故に、忘れさせるなら問題はない。
そう──問題はない。
それがあくまで、忘れさせるだけならば。
だが彼女は──リオ・カリスマンは違う。
彼女は忘れられる。
──られる。