◇
「受動力……呪縛者か!」
悲鳴にも似た叫びを、双真は姿の見えない敵に向かって吼えた。
返答はなかった。唯一、肌にまとわりつく攻撃的意識を感じて、双真は後退りした。
受動力。
その名のとおり、受動的な力である。本来『能力者』が持ちうる能力とは全く正反対の代物。その総称。
能力とは、完全に私的に行使できる力のことである。その定義には威力の大小、精度の有無、そもそも制御可能であるか否かさえ関係ない。
対して受動力とはその逆。他者、および外界から成される力のこと。自らの意思、思考、身体組織とは無関係に、外部が対象者に力を及ぼす。
言葉として考えればいい。受動態。動詞未然形の最後に「れる」「られる」がついた状態。受動力を言葉で表現する場合、すべてこう言われるからだ。
──られる。
(いい例が呪いだ。呪われている者。だから、彼らは呪縛者とも呼ばれる)
かつて得た知識を総動員させる。結論を出すのに、ためらいは必要なかった。
彼女は受動力によって何らかの力が作用している呪縛者。
この場合、つまりリオ・カリスマンの受けている力は忘却への作用なのだろう。全てに忘れられる力。そういったものが存在することさえあやふやだが、目の前の現実を受け入れるべきだとして、その思考は遮断した。
そして──
ならば納得がいく。エリザが彼女を忘れた理由も。姿が見えないことも。気配が感じられないことも。
忘れられる。
つまりは記憶の再生が不可能になる。記憶とは情報であるから、情報を再生できなければ、また再生できても再認できなければ、それこそ彼女が誰だか分からなくなるのは当然だろう。エリザが数度にわたり彼女を忘れたのにも納得がいく。
だが、リオ・カリスマンのそれは、ただ再生・再認不可というだけのものではないことはすぐに見て取れた。それだけでは姿が消える理由にはならない。
世界は全て情報で生成されている。社会情勢から何から、原子と分子にいたるまで、それら全ては情報であるといっていい。人間であるという情報がなければ、人は人の姿を保っていられないように。遺伝子という情報を環境という情報に適用するよう組み替えながら、生物が進化してきたように。
そこに姿が消えることを当てはめると、あっさりと結論が出た。そこから派生する、少女が受けてきた苦しみと痛み。双真を狙う理由。理解する。
(なるほど……そういうことか)
考えがまとまれば、それと同時に対処法などいくらでも思いついた。頭部を動かして三百六十度回りを確認する。いまだやってくる気配の見せないリオの動きを読むことはできなかったが、その居場所を察知して、双真は不意に体勢を変えた。つまり、回避から攻撃へ。移行する。意識もろとも。
「え?」
何もない空間。その先に、見えない敵の声が上がる。ほんの一瞬、それも吐息のような音だったが、腕を伸ばして、標的を捕まえるには十分だった。
「捕らえた」
告げる。手の中にある、少女の肢体。どこをつかんでいるかは見えないのでわからないが、腕か足か、手の中に納まる棒状の部位といえば、さほど多くない。
「!」
少女の動揺が、接触部位を通じて手に取るようにわかった。痙攣にも似た震えが伝わってくる。
チラリと後ろを見やる。双真の行動を疑問視しながらも、必死に記憶を呼び戻そうとしている黒髪の女──エリザベートは、ただ呆けているわけではなさそうだった。無意識に口元が緩む。
(そろそろ思い出すな……)
頃合を見計らって、双真は力ずくで手に掴むものを地面にたたきつけた。砂塵を巻き上げて、少女が苦痛の声を上げる。波が引くようにうっすらと、リオ・カリスマンが姿を現した。
「くっ!」
苦悶に表情を歪めながらも、リオはすぐさま身体を起こした。双真との間合いを計ろうと後方に跳躍して、ふと後ろにいる存在に気づく。
「しまっ……!」
黒髪の女。失念していたのだろう──もう一人の敵を見つめて、リオは驚愕していた。浮いた身体は、だがすぐに沈めることなど出来はしない。変えることの出来ない体勢のまま、彼女は浮いている。
その間隙をぬって、双真は間合いを詰めた。踏み出すのは、ほんの小さな力で足りる。
ゆっくりと、少女の顔がこちらを向いた。驚きと不覚、不安、迷い、それらが入り混じった顔。だが双真を見た途端、また得も言えぬような嬉しそうな表情を浮かべる。
その顔を見て、双真はほぼ直感的に察していた。今までの二度の襲撃で、何故この少女を殺すことに戸惑いを感じたのか。敵を見逃すという愚かでしかない行為を、何故自分は許容したのか。答えは、極めて単純だった。
(コイツは敵じゃない)
笑顔を返しながら送り出す。少女の細い肢体を折りたたむように、拳がみぞおちに決まった。
エリザをも巻き込んで、二人が絡み合うように倒れ込む。
「ちょっと……何するのよ! さっきといい、今度といい!」
愚痴りながらも、エリザは記憶を取り戻したらしかった。どの程度忘れていたのかは予想するしかなかったが、こうしたちょっとしたショックで思い出せるところを見ると、リオ・カリスマンに作用する受動力は魔力を持つ者には効果が薄いのかもしれない。
「忘れて呆けているお前が悪い」
きっぱりと言い切って、双真はエリザの後ろで悶絶している少女を見やった。リオは腹部を押さえ、苦痛に顔を歪めている。と、
「がはっ──!」
口元から少量の血を吐いて、リオは地面にうずくまった。顔を敵であるこちらにむける気力さえないらしい。痛みに振るえ、発狂したい精神を何とか理性で押さえ込んでいるかのように、汗が浮かんでは滝のように流れていく。
「痛みでそれどころじゃないだろうが、よく聞けよ。聞いて、答えられるなら答えろ」
エリザがこちらに歩いてくる。自身が呆けている間に何があったのか知りたそうではあったが、無視して続けた。
「受動力が働く者。お前は呪縛者だな」
「…………」
無言のまま、リオは答えなかった。痛みに。もしくは故意に。どちらが原因かはわからないが、少女はひたすら沈黙を保っている。
「受動力?」
一方、こちらは初耳だったらしいエリザの声。説明するのが面倒ではあったが、リオが回復するまでの時間稼ぎにはなりそうだった。
「能力の反対。能動によるものではなく、受動による力。他者、もしくは外界から成される力の総称。「 」られる、という受動力が働く者は、総じて呪縛者と呼ばれる。祟られた者や呪われた者がいい例だ」
「だから……忘れられる?」
「言葉の問題だが、その通りだ。力は全て受身で作用する。能力者と違って、呪縛者が可能なのはその受動力の効果を薄めることだけ。決して強めることなど出来ないし、それを動作不能にすることもできない。その効果には条件や制約もあるようだが、大抵生きている間は絶えず作用する」
「……姿が消えるのも?」
「受動力だよ。忘れるという行為は記憶の再生が不可能となり、その情報を見失うことだ。リオのことを忘れる。つまり彼女の存在そのものの情報を見失う。新たな情報さえ得られない。情報がなければ、視覚で捉えられないのも当然だ」
「…………?」
だんだん理解しがたくなってきているのか、あからさまにエリザの眉が歪んだ。
「受動力は外部の力が作用しているものだから、基本的に制御能力や容量の問題はない。俺の反力のように制御する必要もなく、発動条件もいらない。だから、彼らが気にするのは受動力の作用をどれだけ失わせるか。この一点に限られる。姿が消えたのは、力の効果を少しだけ強めたんだろう。現象としてはマイナス・幻覚に近い」
「マイナス?」
「幻覚って言うのは、あるはずのないものが、まるで実在するように視えることだろう? マイナス・幻覚はその逆だ。あるはずのものが視えなくなる。この場合、視るとは視覚的なことではなく、情報としての認識だ。街ですれ違う人間を全て覚えてなどいないだろう。脳が情報として捉えていないから、『見て』いても『視て』いないんだ。光の屈折や反射など関係なく、情報としての視認。それを不可能にするのが『マイナス・幻覚』……って、ここまではいいか?」
まるで授業だなと心中で愚痴りながら、双真はエリザを見やった。コクリとうなずくのを確認して、視線をリオに移す。
「リオ・カリスマンという情報を見失うから、肉体そのものさえ視えなくなる。実像にしても脳の記憶にしても、全て情報だからだ。故に気配を掴むことが出来ない。それが彼女のものだということがわからないから」
見ると、リオは顔をこちらに向けていた。震える唇を懸命に動かし、小さく、声を紡ぐ。
「……何故……」
「?」
「何故……私を……」
「……ああ。俺がお前を見つけることができた理由か?」
なんだとばかりに、双真は続けた。
「お前が姿を消すのが幻覚に因るものだとわかった時点で、それが受動力に寄るものだと理解したからな。位相がずれたわけでも異次元に隠れたのでもない。お前はここにいる。なら後は簡単だ。その力が能動であれ受動であれ、力があるなら熱が発生する。運動すれば汗をかくように。効果を変化させればなおさら顕著に。俺はただ、探しただけだ。俺の周りで不自然に暖かそうな場所をな」
「…………」
驚きか、それとも納得したのか、リオは答えてこなかった。
「さて。ここからが本題だ。よく聞けよ、リオ・カリスマン」
言葉を切る。沈黙を守る少女を見据えて、双真は吐き捨てた。
「お前は俺に何をどうして欲しい?」
◇
目に見えるもの全て。正確には、視覚で得た情報全て。
物は光に反射して色を彩り、眼球を通りレンズ向こうで像を結ぶ。視界に入る全ての存在は、情報として脳に送られ、それが何であるかを知識として判断する。
判断する。
神楽双真。
見た目は二十歳前にも見える。とはいえ、身長が低いわけでも童顔でもない。老化という万物共通の観点から見れば、彼はまったく衰えていない。若々しいともいえる。そして異様なほどの目つきの鋭さ。決して悪いわけではなく、自然な雰囲気としてそう感じる。
鋭く尖った意識。群れを好まない獣のような性格。
今年二十七歳になるはずの、一度会えば、二度と忘れないだろうと思わせる人物。
意味消滅を仕掛ける『反力』と呼ばれる能力を有し、戦闘という一面においては驚異的な才能を発揮する者。
全てを否定する者。
だがなによりも、自分という存在を見つけた人。見つけてくれた人。
なればこそ──
「殺されてください」
呟きは、リオにとっての希望だった。彼が何故あのようなことを言ったのかはわからない。だがこれは彼に対する明確な応えでもある。
そして確固たる意思。彼を殺すことが、自分の存在意義であると。揺ぎない決意が、リオを支配する。
だが。
「ああ、いいよ」
「…………え?」
それが自分の声であることは間違いなかった。随分と間の抜けた、拍子抜けの声。反芻する。彼は今、何と言った?
「……今、何て……」
「殺しても構わないと、そう言った」
「本気ですか」
「ああ」
「正気ですか」
「ああ」
質疑と応答。疑問というよりは確認に近い。繰り返すことで何かが変わるものでもなく、得られたのはあくまで同じ内容、同じ答えだった。
「ちょ、ちょっと、神楽君?」
彼の隣で、エリザベートが慌てている。それもそうかもしれない。彼の言葉を受けた自身でさえ、理解はしても納得は出来ていないのだから。
どれもこれも、至極当然の反応だろうとも思う。落ち着いて──内臓の痛みは未だ続いてはいたが──省みる。どこか他人事のように現状を受け入れている今の自分もまた、当然の反応を示しているだろう。
「何故……ですか?」
立ち上がる。脚部に全神経を集中させなければならないほど、リオはダメージを追っていた。息を吐き、静かに深呼吸を繰り返しながら、彼女は双真を真正面から見据えた。
肩の怪我。腕の刺し傷。双真のほうも、傷は深い。痛みを感じていないのか、それともたいした痛みではないのか、彼の表情には曇りが無かった。汗もない。息ひとつ乱さず、こちらを見ている。
「理由が必要か?」
「え?」
「……お前は俺の敵じゃないからさ」
「…………」
今更──
(何を……言っているの? この人は)
敵でないなら何だというのだ。命を奪いに来た相手に、敵でないという。抗わなければ、その先に待っているのは明確な死だというのに。
「殺せよ」
双真の声。だというのに、身体がすくんで動かない。痛みのせいではない。傷のせいでもない。
(何故……?)
何に対して疑問を抱いたのかさえ、把握できない。
「殺せ」
その言葉をきっかけにして、足に力を入れる。ただそれだけの動き。単純な動作を命令として脳に送る。歯を食いしばらなければ動こうとしない足を無理やり引きずるようにして、リオは地面を踏み切った。
目に見えて遅い。自覚する。こんな動きでは避けられて当然だ。だが、目の前にいる双真は動く気配を見せていなかった。彼を押して、絡まるように地面に倒れこむ。
双真の上にまたがる形で、リオは彼を見た。
(何故……!)
迷いは行動に不純を生む。言葉と行動。その細部に、微妙な狂いが生じる。
リオは動けなかった。
彼を押し倒し、その上にまたがり、いつでも殺せる状況は完成している。腕を振り上げ、彼の血がついた右腕を高く振り上げた。そこで、止まる。睨み付けても、どれだけ殺気をぶつけても、彼は動かない。こちらを見据えて、動かない。なら、自身も止まるしかなかった。
「殺さないのか?」
「何故……」
唇をかむ。血がにじみ、口の中に痛みが走った。小さな痛み。針で小突くように、チクチクと、シクシクと痛む。
神楽双真と、自分。振り上げた右手。動かない彼。どうしたらいいのか分からなくなって、リオは震えた。彼の胸倉を掴む左手に自然と力が入る。唯一、声を大きくすることだけは出来た。
「何故……何故……何故、何故! 何故ぇっ!」
でたらめな言葉だった。それはわかっていたが、どうしようもなかった。どうしようもない。震えは止まらない。彼は動かない。まくし立てることしかできない。
泣いた。涙が止まらない。泣いて、何がどうなるわけでもない。けれど泣いた。もはや何のためにこうなったのかさえ分からなくなって、リオは泣くしか出来なかった。
涙が、双真の頬に水溜りを作る。
「お前は敵じゃない」
「敵です」
「違うな」
「敵です!」
「敵じゃない」
「では私は何なのですか! 貴方の敵でない私は、一体何者ですか?」
神楽双真の敵でない自分。
「私は敵です! 貴方の敵! 敵で! 貴方を! 殺しに来て! 殺して──!」
衝動。心に浮かんだ言葉。単語。支離滅裂に鳴って叫ぶ。口だけが動き、それに反して身体はさらに硬直していく。
「俺を殺して、どうしたいんだ?」
「殺して──!」
「無意識のうちに理解しているはずだ。お前は俺を殺す。そうすることでお前は俺の敵になる。敵になれる」
「──!」
震えは止まらない。双真の射抜くような視線も、全てを理解したような声も、止まらない。かぶりを振る。叫ぶ声さえ、止まらない。
「全てに忘れられるという受動力が働くお前が、唯一その存在価値を見出したもの。見出せたもの。姿さえ情報として不可知なお前を見つけた神楽双真。つまり俺だ。その敵となることだった」
「私は──!」
「俺を殺すこと。もしくは俺に殺されること。そうすることでお前は唯一、例外的に忘れられることなく結末を迎える」
「!」
結末。生か死。それとも何か別の終わり。
「受動力が発動して以来、親兄弟、自分の見知っていた全てに忘れられたお前に居場所なんてなかった。何もかもを失い、忘れられ、生きることさえ苦痛だったのだろう。その中で見つけた最後の糸口が俺だ。自分の存在意義、生まれた理由が何であるかを知るために、俺を殺すという行動をとるしかなかった」
「貴方に何が分かる!」
「分かるといったはずだ。世界から独立した者。根源に覚醒した者。全てを『否定』するという能力を持っている俺は、お前の『忘却』さえ否定する。いくら姿を見失おうとも、受動力が働こうとも、以前に得たお前の情報を失うことはない。だから俺はお前を忘れない」
「分かったような口を利かないで!」
「もう一度言う。俺はお前を忘れない」
「────っ!」
ふと、脳裏によぎる景色。
思い出すこともない。思い出す必要もない。それは幻影。
見慣れた景色。
(知っている)
美しい思い出だった。
美しい思い出があった。
それがどこの風景だったか。覚えていたわけではなかった。
そう。覚えていたわけではない。湖。レンガ造りの家。公園。滑り台。シーソー。砂場。だがむしろ、目に映ったのはそこで戯れる一人の少女だった。
(あれは……)
赤い髪。水のうねりと共に、風が少女の髪を優しくなでていく。
(私……?)
少女は砂場で山を作っていた。スコップもなく、ないから手で土を掘る。指と爪の間に砂が入り、少女の手を黒く汚した。だがそんなことはお構いなしに、少女はただ無邪気に砂を積み上げ、山を作り上げていく。
静かだった。思い出の中だからか。それともここがそれほど静寂な場所だったのだろうか。それはもう思い出せない。
静かだった。だから余計に、人の声はよく響いた。
「リオ」
声のしたほうを向くと、精悍な顔の青年がいた。
「こっちへおいで」
「お父様!」
青年の下へ、少女が走りよっていく。抱き上げられる。抱擁。父親のぬくもりを感じながら、少女は笑った。
(あれは、私の……)
優しい父。誇らしい父。家の庭先で、こちらをまぶしげに見つめているのは、まだ生まれたばかりの妹と、赤子を優しくあやす母。
笑い声。乾いた土。ほころぶ砂の山。水の匂い。
風が止む。充満していく。凍り付いていく。景色の中で小さく音がなった。
カラン──
「ただいまぁ!」
ドアを開けることさえもどかしく、少女は家の門をくぐった。たちこめる香ばしい匂い。母がよく作るピザの匂い。かまどから立ち上る湯気がゆっくりと家中に広がっていく。それを楽しむように、父がおなかを鳴らした。
暖かい家。家族。愛してくれる人たち。
ふと、母が何か呆けたようにこちらを見た。暖かさが消えた双眸がこちらを向く。
「貴女、誰?」
「────え?」
ガチャン
ガラスが割れた。
弾け飛ぶ欠片をその身に浴びながら、クラリと──眩暈を覚える。
それでも精一杯、視線をそらさずに、少女は目の前にある光景を見つめた。
家がある。家族がいる。何もかもが、そこにある。
かつて失ったもの。
割れる。割れていく。何もかもが。
手を伸ばしても届かない。
(私の家。私の家族。私の……)
居場所。
家があった。家族がいた。何もかもが、そこにあった。
失っていく。
光の満ちた空間。
両親はあんなにも優しかったのに。
世界はあんなに輝いていたのに。
自分独りだけが、忘れられていく。
割れていく。
失われていく。
「貴女は誰?」
──私はリオ。
忘れられていく。
「どこにいるの?」
──私はここにいる。
世界はあんなに綺麗だったのに。
──私はここにいる。
世界はあんなに愛してくれたのに。
──だから私を見て。
世界はどこまでも無常で、だけど優しくて。
──だから私を……。
「もう一度聞く。お前は、俺にどうして欲しい?」
──だから私を……。
「忘れないで!」
生きる限りどこまでも続く忘却の力。
目の前の反力者に──唯一自分の存在を認めてくれた彼に向かって、リオは力の限り叫んでいた。
…
世界は優しく、だけど無常で非情なもの。
そんな世界でただ独り。
自分を見つけてくれた人。
「言ったはずだ。俺はお前を忘れない」
神楽双真は、ただ独り、ここにいる。
目の前にいる反力者の名を冠する者。
今この時、自分だけを見つめて、自分を忘れないでいてくれる存在。
涙に霞んで見えなくなる。彼は今、どんな顔をしているのだろう。
「嫌だ! 忘れないで! 忘れて欲しくない! お願い、貴方だけは私を見て!」
「俺は忘れない」
「お願いだから! 私を見て!」
「ああ、見ている。忘れてなどいない。だからリオ……」
髪を優しく撫でてくれる手のひらの感触。懐かしさを感じるほど、遠い感覚。
「だからリオ。今は眠れ。全てが終わるまで」
「でも……でもっ! もう忘れられたくないの。貴方にだけは、忘れられたくないっ」
「ああ、忘れないよ。大丈夫だ。目が覚めたら全て終わっている。悪夢も、今回の事件も、何もかも」
彼の手が視界に被さる。ゆっくりと闇に包まれていく。
闇。
けれどそれは、暖かな闇。全てを許してくれる、安らぎの闇。
双真の中に、確か存在として自分がいることを、教えてくれる闇。
「──ぁぁぁ」
意識が虚無へと落ちていく中で、リオは双真の笑顔を見たような気がした。