◇
考えてみる。
自分という存在。自分という生命体。何故生まれたのか。何故生きているのか。その理由を。こじつけでもいい。見出せたものが間違いであってもいい。考えるということが糧となるのだから。
歩みを止めてはならない。
だから考えてみる。
吸血種。血液を力の源として存在する者。異能者。およそ存在するどの種よりも強靭な生命力を備えている者。
生命維持に血液摂取を必要とするものの、だがそれさえ供給できるならば永遠にも似た寿命を持つ存在。
なんと素晴らしい。
これほどまでに生命として洗練された存在が他にいようか。いや、いまい。それこそが自分たちが最強の存在であるという証明ではないのか。
別に視点からも考えてみる。
神という存在がいたとして、ならば何故に神は自分たちをこのような存在にしたのか。答えは単純だ。単純かつ明瞭であるが故に、美しくすらある。
神は支配者を求めている。
世界は強者を欲している。
何人にも犯すことの出来ない絶対的な存在を必要としている。
ならば示して見せようではないか。それに値するのは我らしかいないことを世界に知らしめてやろうではないか。
そう。愚かな弱者に。数が勝るだけの猿に。誰が真の支配者になるべきかを教える必要がある。
そうすればきっと、世界はより素晴らしくなる。こんな退屈な世界はもうたくさんだ。
今日はそのための一歩。まずは人間と共存する道を選ぶ同族を一掃する。その先導たるエリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタインを舞台から引きずりおろす。
甲龍がどうしようが関係ない。
彼女の聡明さを逆手に取れさえすれば、ジ・エンドだ。彼女は立場を──次期当主という立場を追われるだろう。失われたのは警備部が数十人。その命は決して軽くない。加えて『アスタリス』と『グルームリング』というある種最悪と呼べる魔道具を盗まれたこと。それらの責任は重い。
この件で例え自分のことが明るみに出ても関係はない。エリザベートが力で劣るはずの自分の所業を防げなかったと知れば、一族を束ねる長老連中の信頼は薄れるだろう。
「さぁ。素晴らしい終末への幕開けだ。誰が真に優れているか。その身をもって思い知らせてくれる」
目の前の銅像は何も言ってこなかった。
彼──氷村遊がいるのは自分の屋敷だった。父が建てた屋敷。自分という存在を目の前から排除したかった事の証がここにある。現にこの屋敷はすべて彼のものだった。敷地に存在するありとあらゆるもの。あてがわれた使用人も全て。
その玄関口。洋館らしく、かなりの広さを誇るその空間の中央に、入るものを拒絶するかのように鎮座された巨大な銅像があった。
女の像である。長い髪。ミロのヴィーナスほどではないにしろ、十分な美しさが感じられる造詣。これを造った者が人間であるということに少なからず驚嘆を感じられるほどの洗練された線形。もったいないとは思う。芸術という点においてのみ、人間の才能は認めるべきだろうか。
「だが所詮は弱者だ」
独り言のようにつぶやく。と──
「本当にそう思うの?」
唐突な返答に、遊は身を硬くした。今、この屋敷には自分以外誰もいないはずだった。使用人も含め、全て暇をだしている。
だがすぐに硬直は解けた。声には聞き覚えがあった。
「不法侵入とはね。いつから君は礼儀を忘れたのだ?」
「……礼儀ね。同族を殺した男の台詞とは思えないわ」
鼻で笑うかのような台詞に、彼は顔には出さずに怒気を強めた。
「フン。証拠のないことでとやかく言うのはやめてくれ。いや、まぁいいさ。で、僕に何の用だ、エリザベート」
像の肩にのっかかり、悟りきった面持ちでこちらを見下ろす黒髪の女に向かって。
これ以上ないほどの嫌悪を感じながら、遊は赤い双眸をぶつけた。
◇
「何の用って、そんなのは貴方が一番よく知っているでしょうに」
挑発じみたこちらの言葉に、遊はあからさまに機嫌を損ねたようだった。ねめつけるように視線を細め、だが心中では冷静に言葉を選んでいるらしく、殺気だけが先行してこちらに向けられる。
「何を考えている」
「話がしたいのよ。貴方と」
「話?」
像から飛び降り、彼と真正面に向かいあう。
「貴方が何を考えているのか、ってね。この世に同じ人はいない。なら、心も違う。貴方と私も、当然違う。違うから、どれだけ親しくなろうとその心はわからない。なら、何を考えているか手っ取り早く知るには、聞くしかないじゃない?」
「話すと思うのか?」
「話さないなら、それでもいいわ。別に」
あっさり言ってのけると、遊は今度こそ訝しげに眉をひそめた。
「エリザ。何を考えている」
同じ質問を返されて、エリザは微笑んで見せた。遊の双眸が、さらに赤く強まる。肩をすくめて見せながら、彼女は続けた。出来る限りおどけたように。
「思い出したのよ」
「何?」
「今回の件で、まぁ間違いなく私は降格処分でしょうね。次期当主って言ったって、最有力候補ってだけだもの。別にそんなのに未練はないわ」
「それは本音か?」
「ええ、もちろん。私はね、遊。思い出したのよ。自分がしたいこと。やりたかったことを」
「したいこと?」
「そう。自分が何をしたかったのか。当主は魔力の強弱だけでなれるものではないわ。そりゃあ、選考の判断材料くらいにはなるけれど。一番重要なのはそこじゃない」
「初耳だな」
長い前髪をかきあげながら、キザったらしくぼやく遊に、エリザはそうだろうとばかりに語気を強めて言った。
「そうでしょうね。貴方が知らないのも無理はないわ。他者を見下し、人間を見下し、自身のみを信じる貴方では、決して理解できないもの」
「…………」
「他者を思いやりなさい。人を慈しみなさい。家族を信じ、愛しなさい。それが出来て初めて、それ以外の能力が問われる」
「くだらない」
「だから貴方には無理だって言ったでしょう?」
遊は答えてこなかった。
「私たちは子供ができる確立が低い。だからというわけでもないけれど、本当に少数なのよ。だから一族全体が家族になれる。例え形だけでも」
「そんなものに意味はない」
「意味がなければ作ればいいとは思わない?」
「……それこそ意味がないのではないか。こじつけではないのか?」
「そうかしら。でもそれのどこが悪いの?」
「真実から目をそらしていることの、どこに正義が存在する」
「視野を狭くして憎しみを増殖するよりははるかにましよ」
「……くっ!」
会話をしながら、エリザは密かに半歩だけ身を後ろに引いた。悔しさに顔をよじる遊に気づかれないように。すばやく、さり気なく。
「ねぇ、遊。自分を愛してくれる人がいるってすごく幸せなことなのよ。私は私を愛してくれる人たちを守りたかった。愛している人たちを守りたかった。下心があってもなくても、それも真実よ。そして私にはその力があった。私にある魔力で、一族の皆を守れる。なら、すべきことは一つしかないじゃない?」
「…………」
「父の跡を継いで、一族を治める。皆を守りたいから。もちろん、貴方も含めてよ」
フゥと、ため息を吐いたのは遊だった。顔を下にしているせいで表情は読めないが唇の形を見る限りでは笑っているようにも見える。肩を微小に震わせ、握った拳、その手の甲には血管が浮きでいていた。
「守ると言ったな。では聡明なエリザに尋ねよう。一体何から守るのだ」
「……私たち一族を脅かすもの……かしら」
「つまりは外敵のことだろう」
「そうね」
クククと、笑って遊は続けた。
「我ら人外の存在にとってその敵となるのは、『人外』であることを拒絶する人間種族ではないのか? 貴様らが共存しようとしているあの猿どもに他ならないではないのか? 現に過去、幾度となく彼らは我らの種族を狩り続けた。自然と共存し、ひっそりと暮らし、「生」に必要な下僕からしか吸血しようとしなかった先祖が、一体どれだけの迫害を受けたと思っている!」
「言われなくても、知ってるわよ。そんなことは」
はき捨てるように言うと、我が意を得たりとでも言うかのように、遊の唇が歪んだ。
「それでも貴様は一族を守り、敵と仲良しこよしで生きていこうというのか!」
「人間の中には、確かに私たちを敵視している連中も存在するわ。でもそんなのはごく一部よ。決して全体じゃない」
「だから見逃せと? 彼らの所業を。罪を。見逃せというのか? 自然を食い荒らし、自身が世界の王者のように振舞う連中だぞ。壊れかけの地球を見て、ようやく環境問題などと手遅れなことを始めた愚者ではないか」
「その人間の創った環境で生活しておいて、文句言える義理じゃないでしょう? 私も、貴方も」
「…………っ!」
「ねぇ、遊。さっき貴方は人間のことを弱者と言ったわね」
「ああ、言った」
実にあっさりと、遊は認めた。その彼に、改めて聞き返す。
「本当にそう思う?」
「何だと?」
「人間が弱者だと思うのかって聞いているの」
「フン。何を言い出すのかと思えば。決まっている。答えはイエスだ。群れを成さねば生きていけず、他者に依存した生命体。寿命も短い。肉体も弱い。知能指数も低い。個々の持つ力は脆弱すぎて笑う気も起きん。そんな連中が弱者以外の何物だというのだ」
「そう……なら、私たちはどう? 『夜の一族』である私たちは、人間に対して、強者だと思うの」
「当然だ」
即答してくる遊に、今度はエリザが嘲笑した。
「それが本気なら、笑うしかないわね。それじゃあ質問を変えるわ。なら何故私たちはこうしているの? 人間が弱者で、私たちが強者なら。何故私たちは人間と共存しなければならなかったの?」
「……数の問題だ。我らが少数だといったのは貴様ではないか」
「ええ、言ったわ。でもね、人間は個々の存在が弱いかわりに、逆に群れを成すことでその弱点をクリアする術を見出した。社会を築き、文明を興して、絶対不可侵の領域を作り出した。一人ではなく、全体で。それは誇るべき人間の能力よ。私たちにも、他のどんな生命体にも絶対にできない。彼らだけの特殊な技能よ」
「……それが──」
遊が何かを言おうとするのをさえぎって、エリザは続けた。
「私たち見たく魔力を持ってなかろうと、人間は知恵でそれをカバーした。それに対して、私たちはどう? 血液を定期的に摂取しなければ力も生命も維持できないじゃない。そして種族としても、その連帯はあまりにバラバラだわ。で、繰り返すけど、不完全な存在は一体どっち?」
「……我らには魔力がある。魔術がある。寿命も、力も。優れている!」
食い下がるように、遊がはき捨てた。
「魔力? 魔術? 空を飛んだり、炎を生み出したり? 空飛びたければ飛行機があるし、火を起こしたいならマッチやライターを使ったほうが、呪文唱えるよりはるかに早いし楽でしょう。そんなものはいくらでもカバーできるのよ。魔術は万能じゃない。現に死んだ人間を生き返らせることなんてできないんだから」
「…………れ」
遊が黙り込む。一気に叩き込むかのように、エリザは続ける。
「誰かに依存することが弱者なら、血液を摂取するために『人間』を頼る私たちのほうが弱者なのよ。貴方の目的が何なのかは知らない。人間との共存を拒否して何をしようとしているのかも知らないし、知りたいとも思わない。ええ、でもある程度は予測つくわよ。どうせどちらが世界を真に支配するにふさわしいかとか、そんなくだらないことを考えているんでしょう? それこそナンセンスじゃない? 『支配』そのものが、他者に依存していることに気づいていないんだもの」
「……黙れ……」
「支配するには、支配される者がいなければ成立しないのよ。 認めなさい、遊。支配欲に目がくらんだ貴方こそ弱者なのよ」
「黙れえぇぇぇぇぇっ!」
瞬間──
エリザは横に跳躍していた。さっきまで自分がいた場所を黒い影が横切っていく。影はそのまま銅像に突き刺さり、あっさりとその塊を二つに割った。
体位を変えておいて正解だったと、彼女は心中で安堵した。が、すぐに思考を切り替えてそれを凝視する。獣のような唸り声を上げているその存在を視認して、エリザはようやっと納得した。
「それが『倉庫』を襲ったときの遣い魔? それで警備部を喰い殺したのね」
「僕が手を出さないなどと思うなよ」
「思ってないわよ」
あっさりと言ってのけると、遊は嘲るように笑った。獣のような形をした影が、飢えた声を上げながら遊の前に躍り出る。
「フン。だがそっちはどうだ? 「一族間の戦いはご法度」という一族の絶対戒律を破る勇気があるか?」
「そうねぇ。降格はもう確実だし。この際、ちょっとくらい罪状が増えても悪くない気もするけど」
おちゃらけた態度が気に食わなかったらしい。魔力を一気に膨らませて、彼は声高々に叫んだ。
──To open their eyes,
in order to turn them from light to darkness, and from power of God to Satan!
その間の補佐するかのように、遣い魔が飛び掛ってきた。
上半身を落とし、獣を見上げる。飛び掛ろうとする獣の腹部がけて、エリザは魔力を叩き込んだ。
「ArtBurst!」
ぐしゃりと、獣をかたちどった影が肉魁のようにひしゃげ、つぶれて霧散する。だがそのときには──
遊の上空に、黒い渦が出現していた。
渦。
そう呼ぶことが果たして正しいかどうか、エリザは困窮した。闇の塊。空間のその一部だけが塗りつぶされたかのように。黒く、黒く、どこまでも深遠を感じさせる闇が球体を成して浮かんでいる。
「デモンズゲートと名づけた。ひねりがないネーミングですまないが、わかりやすいだろう」
勝ち誇ったように、遊が呟く。
渦は──そう表現することにした──ただその通り渦巻いているようにも見えた。空気を闇に変え、周囲を飲み込むようにゆっくりと肥大しながら、まるで瞳と意識を持つかのようにこちらを射程に収める。
「召喚術は僕の得意技でね。これは魔族を召喚するためのものさ。本来上級の魔族は、力が強ければ強いほどこちらの世界に来るには規制がかかるものだが、この門はそういったものを一切取り払う。だから契約しやすいんだよ。実にあっさりと主従関係になれる」
ごくりと、エリザは生唾を飲み込んだ。自然と汗ばみ、身体全体が重く感じる。目にみえないプレッシャーは、遊からくるものではなかった。遊の真上。黒の塊。みえないはずの闇の向こうに、だが確実にこちらを視ている存在がいることを、彼女は察していた。
「僕の力は確かに君より下だ。戦闘力でも、魔力でも、適わない。だが彼らは違う。魔族は優良種たる僕たち一族よりもはるかに強い戦闘力を持っている。魔力もね。そんな彼らを従えられる僕が君より劣るなんて考えられないんだよ」
遊は笑う。こちらの心情など知りもせず。
「さぁ、エリザ。君は彼らとどう戦う?」
言われなくとも──
魔族と呼称される連中の恐ろしさは、今現在、身をもって知っている最中だった。
魔族。
およそ高次元生命体に属するもの全てがそう呼ばれている。彼らが実際何者なのかなどは知りようはずもなく、また誰も解明できるはずもなかった。二次元の存在が三次元である自分たちを知らないように。自分たちもまた、彼らの存在に対して抗う術などない。
「さぁ。戦いの幕開けだ。できれば生き残ってくれ。君を殺すのは僕がやりたいから」
嘲笑する遊など無視して、エリザは渦を見つめた。確かに、戦えば負ける。どんな奇跡が起ころうと、それは決して曲げようのない未来だろう。
戦えば負ける。なら──
(戦わなければ、勝てる)
意識を渦から遊に移す。魔族はまだ、こちらの世界に来ていない。そのゲートさえ、それを生み出す元凶さえ排除すれば、彼らはこちらにはやってこれない。
その元凶、氷村遊を排除すれば。と、
「挨拶代わりだとさ。次元の向こうから、君への贈り物だ」
渦の中心。黒く渦巻く球体のど真ん中が、白く、小さく光を放ち──
それを視認したときには、エリザは白光の帯に身を焼かれていた。
…
何故理解できないのだろう。
力は、所詮ひとつのステータスに過ぎないというのに。何故自分だけを見つめ、自分だけを求めるのか。
他者を排除し続ければ、残るのは自滅しかないというのに。
何故わかってくれないのだろう。
愛しているのに。
例えそれが男女のものでなくとも、家族として彼を愛しているのに。いや、もしそういった恋慕を抱いていたなら、彼は受け入れてくれたのだろうか。
わからない。
彼のこと。
自分のことさえ迷っているのだから、わからないのは当然かもしれないが。
だとしても、
「好きよ。遊」
自身を震撼させた言葉。
この言葉さえ、その気持ちさえあれば。立場や、種族、性別や、力や、そういったくだらないものを、その身に降りかかる全てを乗り越えられるのではないか。
だけど届かない。
それはきっと悲しいことに違いない。何故って、今自分は、こんなにも悲しみに打ちひしがれているのだから。
こんな想いを、他の誰かにさせたくはない。だったら──
止めなくてはならない。
彼を。
力づくでも。
「私の全てをもって」
止める。
できるはずだ。
何故なら自分は。
(私は……)
思い浮かんだのは、神楽双真の言葉だった。
これは夢。思い出。それとも空想?
──気づけ。お前は……
(私は……)
魔女なのだから。
◇
爆発とともに、屋敷の半分が崩壊した。先ほどまで目の前にいた黒髪の女の姿は跡形もなく、煙だけが無意味に広い玄関に充満し、開いた穴から外へもれていく。
(終わったか?)
氷村遊は懸念した。
魔族が異次元から発した光熱波は、エリザをあっさりと飲み込みながら屋敷の右半分を内側から打ち砕いていた。
エリザベートの気配も消えている。魔力の波動も感じない。それこそ、一撃で死滅したかのように。木造の建物が崩れる音だけが、あたりを支配する。
この程度か。夜の一族の中でも屈指の実力を誇る魔女が、この程度なのか。だとしたら笑えるではないか。自分は、彼女の実力と聞き及んでいた戦果を危惧し、できる限り正面衝突を避けていたというのに。
こんなにもあっけないとは。
あきれを通り越して、笑いがこみ上げてくる。
それからしばらくして。
「終わったな」
何の変化もないことに、遊は確信を抱いた。実にあっけなくはあったが。
「まさか殺すことになるとはね。残念だよ、実に」
少しばかり気を楽にしながら、遊ははき捨てた。
勝者の凄み。利点。歴史を紡いできた者たちと同様にこれからの未来を想い、胸を高鳴らせながら。
「敵対という関係を除けば、嫌いなタイプじゃなかったんだが」
「そう。それは光栄ね」
「──っ!」
びくりと、彼は身を硬直させた。煙はまだ引かない。その向こうから、声は聞こえてきた。こちらから彼女は見えない。ならば、彼女からもこちらは見えないだろう。そう思いながら、彼は高鳴る鼓動を必死に抑えた。動揺と、焦りを悟られてはいけない、と。
努めて冷静を装いながら、彼は言った。
「生きていたとはね。驚きだよ」
「そうね。私もそう思うわ」
同意されるとは思っていなかっただけに、遊は呆気にとられたが、それも一瞬だった。すぐに気を取り直して、上空の渦へと意識を飛ばす。
「なら、もう一発食らってみるかい? 彼を呼ぶかどうかは迷ったが、生きているならご対面くらいさせてやりたいしね」
「そうなの?」
煙の向こうから、声だけが答えてくる。
「ならその前に、こちらにも挨拶させてくれる? さっきのお返しだってね!」
怒気を含んだ声と同時に、遊は呪文を耳にした。
──To open their eyes,
in order to turn them from darkness to light, and from power of Satan to God!
(この呪文は──?)
自身のものと似ているようで異なる言葉に、遊は身を硬くした。
呪文には意味がある。それも紡ぐ本人にのみ、その意味を成す。魔力を現実世界に具現化させるための媒体なのだから、たとえ同じ効果を持つ魔術であろうと、魔術師によって呪文は異なる。そして、例え同じ呪文であろうともその効果は異なる。
故に。
「何の魔術だ」
その疑問は自然なものだった。その魔術の効果に構えを取る。危惧したのは一瞬だった。否、危惧できたのは一瞬だった。
自身の上空で渦巻いていた魔球が、あっさりと霧散した。生まれた時を逆算するように。巻き戻しする映像のように。
「な…………に?」
目を見張った。こちらの世界に現出しようとする魔族もろとも、悪魔の門がその姿を完全に消失する。
「何をした」
呆然と、彼はうめいた。
「一体何をした、エリザ!」
煙の向こう。少しずつ晴れていく崩壊した屋敷の方に向き直る。
そして──
今度こそ、遊は我が目を疑った。
目の前にいたのは女だった。それは間違いない。だが、目の前に佇む女性が誰なのか、遊にはわからなかった。記憶だけが彼女の存在を認め、理性がそれを拒否した。
「誰だ、お前は」
呻く。女から感じる圧倒的な魔力の圧力。それをその身に受けながら、遊はやっとの思いでそれだけをはき捨てた。
長い銀髪。赤い双眸。長身で、細身ではあるが貧弱そうには見えなかった。白いブラウスに、青いジーンズパンツ。そしてなにより、彼女の肌は褐色だった。その肌に、蛇のような紋様が刻まれている。白く光を放つ呪詛のような紋様が、服を通り越して浮かび上がっていた。
見覚えがない。記憶にない。一体誰だ、あれは。
だが考えてみろ。今さっきまで、あの場所にいたのは一体誰だというのだ。一人しかいない。あの女しかいない。そうだ、確かに自分は彼女の名を呼んだではないか。
だが──
「お前は誰だ!」
認めるわけにはいかない。認めてはならない。
他者が生み出した魔術を、逆の意味の呪文で消し去るなど、あってはならない。少なくとも、魔術師の世界ではそうなっている。
呪文は言葉遊びではない。裏のカードを裏返せば表になるかといえばそうではない。それが他者の魔術であるなら、なおさらである。その構成、効果、根源にある基本公式にいたるまで、決してまねできない。であればこその、独立。魔術師が孤独とされる理由なのだから。
そんな魔術の基本を覆すようなことを、認めるわけにはいかない。
「何寝ぼけてるの? 私は私。独りしかいないでしょう」
「エリザ……なのか?」
「他に誰かいるのかしら?」
「だが……貴様のその姿は……。いや、それ以上に。一体今、何をした。何故だ。誰だ。何を。できるわけがない。できるわけがないんだ」
混乱している。意識の片隅でそれを自覚していた。だが止まらない。目の前の褐色の女は、自身の能力を根底から無力化したのだから。
「挨拶だって言ったでしょう? あのゲートを通してしか魔族はこちらの世界に来れない。そして戦えば負ける。ならこちらの世界に来させなければ私の勝ちよ」
「だがどうして。いや、どうやって」
「呪文の擬態。他者の魔術の無効化。確かに、他のどんな魔術師でさえできないことね。でも貴方は忘れている。私は誰?」
それを君が問うのかと、遊は言いたかった。
だがふと思いとどまる。そう、彼女が誰なのか。
エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタイン。一族の次期当主。夜を継ぐ者。吸血の女王。数多くの異名。畏怖。尊敬を集めてきた存在。
ああ。だが何か忘れていないか。
彼女には名前がある。エリザベートよりもさらに個人的な、ミドルネーム。魔術師としての称号として、彼女が普段は決して名乗らない、彼女の魂名がある。
「……白刃の魔女……」
忘れていた名前。決して他者が呼んではならない名前。
だがその姿はどうだ。彼女は黒髪に、黒目。肌の色は白ではなかったか。
「だが貴様のその姿は……」
「一族が力を解放する際、その瞳が赤くなるのは何故だと思う?」
「? なんだと?」
訝しげなこちらの問いには答えず、エリザは続ける。
「眼球にある虹彩。その色素によって瞳の色は決まる。赤くなるのは、魔力に反応して一時的にその中の赤の色素が発光するから。それと同じよ。私は普段魔力を抑えるために色々細かい封印を身体に施している。今、貴方の目に見えている蛇の紋様だって、魔力を抑えるためのものよ。そして断っておくけど、今の私はまだ封印を解いていない。高めた魔力に反応して、封印が浮かび上がっただけ」
「……な……んで」
「あー、言っておくけど、私って元々肌は褐色だし、髪は銀髪だからね。肌や髪の色も封印で変わっちゃうのよ、これが♪ ま、黒髪も綺麗だから私は好きなんだけど。おかげで私の本当の姿を知っているのは、一族でも一握りの人たちだけなのよねー」
「……」
息を吐く。深く、深く。何よりも今、失いかけている自分という存在をつなぎとめるために。深く、深く。そして遊は力の限り叫んだ。
「……ふざけるな」
「……うん?」
「ふざけるなと言った! 貴様は何だ。誰だ。何者だ。いや、エリザ。ああ、そうだ。僕はその君をはじめて見た。自分がこれほど井の中の蛙だったとは思わなかった。実力か。才能の差か。どっちでもいい。もうかまわない。同じさ。ああそうさ。僕は何も知らなかった。わかっていなかった。君がこれほどの化け物とはな!」
「言ってくれるわね」
悪あがきだとわかっていた。だが止まらない。切れた線はつながらない。
「ならばエリザ。この戦いの勝者よ。さぁ、どうする? 僕を殺すか。封印するか。一族の裁判にかけるか。ハハハハ。お笑いだ。僕は何をしていた。何を見ていた。結局、敵視していた君のことなど、何一つ把握できていなかったのか」
「……そんなことは……ないわよ」
さり気なく、小声で呟いた彼女の言葉は、だが遊の思考を停止するには十分だった。驚きながら、エリザベートを見やる。彼女という魔術師を。その表情を。
「何故、君がそんな哀しそうな顔をする」
疑問だった。何故、目の前の最強の魔術師は、悲しみに満ちた目でこちらを臨むのか。哀れみかとも思ったが、どこかそれも違う気がした。
「どこで間違ったの? 貴方は」
「間違った?」
聞き返す。彼女の真意がわからなかった。
「そう、間違ってしまった、貴方は」
「僕は間違っていない」
「本当に?」
「無論だ。君が言うことも一理だ。確かに君も正しい。だが、だからと言って僕が間違っているわけではない。僕は正しいんだ。人間は愚かで弱者だ。それは絶対の真実だ。例え、群れとして優れていようともな」
「遊……」
「エリザ。君は正しい。そして僕も正しい。だが両者は相容れない。決してな。僕は人間が嫌いだ。君よりも、何よりも嫌いだ。だから君と僕は交わることもない。これまでも、これからも」
「どうしても?」
「ああ……」
小さく、エリザがため息をついた。迷子のように。親に突き放された子供のように。ゆらゆらと、悲しげに、彼女の赤い瞳が所在無く揺れる。
やがて意を決したように、エリザが顔を上げた。その瞳に、もう迷いはなかった。
「好きよ、遊」
「僕も君のことは嫌いじゃない」
「けれど、貴方を見逃せない」
「僕は君を許容できない」
「だから、貴方の力を奪うわ」
「故に、僕は決して君には屈しない」
言葉は終わりだった。魔力を紡ぐ。この魔女を相手に勝つ自信など微塵もなかった。だがどうでもいい。彼女は自分と決別したのだ。
敵として認識したのなら、すべきことはひとつしかない。
殺しあうしかないのだ。
紡がれる魔力。
魔女の呪文は淀みなく、歌声のように周囲を震撼させる。
──Hearing you will hear and shall not understand,
and seeing you will see and not perceive.
And he will lose his life as and when he finds it!
一瞬だった。
「……ハハッ……」
発動させた魔力ごと呑み込んで、エリザベートの魔術が遊を捕らえていた。脳に直接、聞き惚れた歌が響く。
「ハハハハハハハハッ!」
遊は笑った。魔力の渦の中で。奪われていく喪失感の中で。心地よい魔術の光の中で。
発光する視界。光が眼球を打ち抜き、神経を通って脳に信号を送る。
もう眠れ、と。
「ハハハハ……」
笑う。それが唯一、遊にできたことだった。
「ハハハハッ!」
さぁ、どこまでも笑ってやれ。力で敵わなくとも、心は我が物なのだ。
決して屈しない。
だから笑え。
氷村遊。