19
名鳥十四郎。
世界有数の財力を誇り、その傘下に多数の企業を有する名鳥財閥の長男である。長髪、長身の整ったマスク。スーツを着せればこれほど似合う男はいないだろうと思わせるほどの美形だが、逆にそれ以外の外見的特徴を持たない青年でもあった。
病院経営から始まった名鳥財閥の直系に漏れることなく、彼もまた医学の道に進む。外科医としての地位を確立しながら、スポーツ医学にも食指を伸ばす彼は、若手ながら、実に優秀な医者としてその名を医学界に知らしめている。
現在は、若くして名鳥総合病院の跡を継ぎ、院長として経営にも従事。
それが、今の彼の表立ったプロフィールである。
◇
反転──
という現象を、まさしく言葉の通り実行したような体勢で、双真は空中で回転した。垂直に蹴りだされた足の裏に硬い金属の感触を抱きながら、後方に飛び上がる自分の身体を制御し、敵の位置を把握する。
だがしかし、当初いたと思われた場所に彼はいなかった。ならばどこにいるのかといえば、別段探る必要もなく五感が告げてくる。さらに上だ。
「はぁっ!」
空中で体勢を変えることの難しさを実感しながらも、双真はそれをやってのけた。自分の鼻先寸前を、『銀の剣』と呼ばれる魔剣が通り過ぎていく。振り下ろした剣の勢いで双真よりも下に移動してしまった十四郎が、こちらを見上げていた。その視線を受け流す間もなく、彼の手首が裏返る。重力に引かれて落下する前に逆袈裟に振り上げられた剣が、鉄板入りのブーツに深々と刺さった。その勢いで、双真はさらに上に飛ばされる。
そして、そのまま天井に着地した。逆様に。
「随分と弱くなってないか?」
「これからだ。怪我人のお前に勝てるくらいは強いつもりだよ」
そして会話は終わる。
即座に、双真は天井を蹴り破った。その反動で身体が地面へと降下し、強度を失っていた鉄骨が幾ばくか地面に落ちていく。それよりも早く地面にたどり着いて、双真は再び跳躍した。落ちてくる鉄骨を掴み取る。反動の付いた鉄骨を投げるのに、たいした力はいらなかった。若干動かない左手で振りかぶり、それを一気に投げつける。
その鉄骨を避けるために、十四郎が数歩後ろへ下がった。その時、双真は何某か奇妙な点滅を脳裏に見た。彼の立っている位置と、自分の記憶にあるものを照合する。
「…………」
その間も、堕ちてくる鉄骨を投げ続ける動作は止めない。だがしかし、全て投げ終わった瞬間、その陰に隠れつつ、双真は気配を完璧に消した。
「くっ!」
それは明らかな動揺だった。焦燥といっても良かった。その感情に身を突付かれながら、十四郎の五感がさらに研ぎ澄まされ、必至になって自分の位置を把握しようと空間をさまよい、うごめき、その触手を伸ばしてくる。
彼はこう思っているはずだ。鉄骨の陰に隠れている。もしくは、これを囮に後方や上空からの奇襲を企てているのだと。
が、実のところ、双真は全く別の場所にいた。
天井に出来た穴から、屋根に上り、相変らず気配を消しながら──勿論、足音も消して天井のある一角に向かう。上空からの奇襲と言う点では、それは間違っていなかった。
(やはりあった)
その存在を確認して、双真は足早に走った。
そして、そのままの勢いでそれの根元を叩き割る。鉄骨の音が消え、自分の姿を見失った十四郎の気配が、索敵のためにさらに拡大した。
ビキっと、鉄骨にひびが入る。支えをなくしたそれが、重力に惹かれて徐々に陥没していく。その音に、十四郎の気配が上空に向く。
(さぁ、行け)
天井が割れ、双真の──人間数十人分の質量を持った貯水タンクが、真下にいるはずの十四郎に向けて落下した。
◇
名鳥十四郎。
元不良グループ『HELL&HEAVEN』頭首。たった一年で総勢七百名を超える不良たちのトップに立った者。その名を裏の世界に知らしめた存在。
『銀の悪魔』と呼ばれた彼の異名は、ひとえに彼が所持する『銀の剣』に因る。
対吸血種専用に作られた退魔の魔剣。製作過程のミスからか、夜間にしかその効果を発揮できないという弱点を持つその剣が、彼が最も好んで使う武器だった。
しかしながら、彼は剣士ではない。麻生劉武装術という武術の使い手であり、引き分けを主体とする極めて特殊な戦法が、彼の特徴でもあった。
何にしろ、それはもはや過去の存在でしかない。
今はもう存在しない『HELL&HEAVEN』。たった三年で消滅した日本史上最強の暴走族集団──不良グループ。
彼がその頭首であったという公式記録はない。抹消された中で、唯一例外的に記録に残っている彼に関する過去の遺物──それが死有現象依存障害と記された、一枚のカルテである。
◇
死有現象依存障害。
人が死ぬ過程を見ることに極度の性的興奮を感じる精神病のことを指す。名鳥十四郎を担当した医師が診断した結果、彼はこのタイプの精神病患者であることが分かっている。
血を見ることに興奮を覚え、最初は虫を殺し、動物を殺し、最終的には殺人を決行するに至ったことから、その診断は正しかったと言えるのではないだろうか。
彼がそうなった原因は、間違いなく祖父の拳十郎にあると担当医師は睨んでいる。彼の祖父は自殺だった。理由は唯一つ。息子夫婦に自分が築き上げた名鳥財閥を乗っ取られ、クスリによって半身不随に追いやられたからである。もっともそれは拳十郎の妄想で、実際は『反』名鳥を掲げる者たちによる犯行だったのだが、薬物で脳をやられていた彼には、その時すでに、現実と妄想の区別がなくなっていたのだ。
彼の末路は悲惨なものだった。
当時まだ幼かった十四郎を呼び寄せ、孫の目の前で自分の身体を切り刻み、五体バラバラになりながら死んでいった拳十郎の死に様は、もはや異常以外の何者でもなかっただろう。
そしてその数ヵ月後、その事件の反動は最悪の形となって実体化する。
誰もが心配した少年の心の傷──その暴走。後に死有現象依存障害と称される精神病と診断された彼は、『銀の悪魔』と言う名の殺人鬼となって具現したのだ。
その後、彼がどのようにして依存障害を乗り越えたのか、それを知りうる者はいない。
それからの彼。槙原耕介に出会い、『HELL&HEAVEN』を創り上げるまでの彼。チーム存続時の彼。チームが解散した後の彼。今の彼。
それら違いは唯一つ、『銀の悪魔』であるか否か。たったそれだけの、だがそれ以上ないくらい強大な違い。殺人鬼であるか否か、それが彼の人生を決めている。
今現在──彼が、長崎中を恐怖に陥れた殺人鬼、『銀の悪魔』であったこと知る者は少なく、その記録は残っていない。
そしてまた、『HELL&HEAVEN』という不良グループを創り上げたことも記録にはない。『HELL&HEAVEN』は公式記録から抹消され、世間もまた、その名を口にすることはなかった。
ただ過去の存在として、今もなお、最悪の殺人鬼『銀の悪魔』の名は長崎に顕在し続けている。
◇
「臭い……」
何年も使っていない廃工場の貯水タンクの水など、飲めたものではないことは必至だ。堕ちてきたそれが何なのか分からなかったが、避けると言う判断は正しかったのだと、十四郎は心底思った。剣で切っていたら、腐ってヘドロと藻だらけの水を頭からかぶることになっていたのだ。考えただけでも悪寒が走る。
それでも、いくらかはねた水が服にしみこみ、腐敗臭を漂わせていた。
「相変らずめちゃくちゃな戦い方するな。お前」
「そうか?」
問いかけると、意外にも、神楽双真はすぐ傍にいた。一足飛びで攻撃できる距離だ。それはつまり、彼にとっても自分が攻撃可能範囲にいることである。
「武器や武術を使って攻撃するのが良くて、周囲の環境を利用して戦うやり方がめちゃくちゃだというその理由が俺にはわからん」
「武器は、敵を倒すために純粋に特化されてるだろ? 武術も然りだ」
「そうか? 戦闘というのは、生命活動の中でも特殊なものだ。人が生きるうえで必要とする生命力全てをぶつけ合う。そこに洗練さなど必要ない。求めてもいけない。お前が言っているのはただの効率の問題だろう」
「……なるほど。言われてみればそうかもな」
思わず納得して、十四郎はうなずいた。確かに、人が生きると言うのは奇麗事ではない。何が何でも生き延びようとする人間に、綺麗さなどあるわけがないのは当然だ。
だが逆に、そこにあるのは命ある者として純化された存在だ。人間ではないかもしれないが、命を輝かせている存在だ。
武器は逆にそういったモノを人から奪う。いかに効率よく人を殺すことが出来るか、そこから生まれたのが武術であり、武器だからだ。
スッと、十四郎は腰を落とした。剣を水平に構え、切っ先を双真の方へ向ける。
「そういえば言い忘れていた」
ふと、双真が口を開く。
「何だ?」
「お前は俺には勝てない」
「知ってるよ」
何を今更──という顔をしてやると、双真が奇妙に眉をひそめた。その表情に満足しながら、付け足す。
「ただし、負けもしないがな」
◇
麻生流武装術。
あらゆる武器を操ることを想定して、明治初期に開発された武術である。
操る武器は、接近戦用の剣や棍から、中距離の槍や鞭、遠距離用の飛針や、重火器(銃、ライフル)などの飛び道具まで、武器と呼ばれる全てを広く浅く扱う。戦法全て『引き分け』を前提としたモノとなっていることが最大の特徴で、一子相伝。
現在の使用者は名鳥十四郎ただ一人である。
◇
戦闘で、神楽双真に勝てるとは思っていなかった。彼の反応速度、瞬発力、攻撃力、防御力、どれをとっても敵わない。それは現実だ。変えようのない事実だ。
精神的に不安定ならいざ知らず、そんなことがあの男にあるとは思えない。ならば、純然たる戦闘力の差はいかんともし難いのが現状だった。それは決定的な差となって、戦闘に如実に現れるだろう。
ただ、敵う必要がないということだけが救いだった。
勝つことはない。勝つ必要性もない。だが負けることも決してない。そのための武術だ。そのために、今まで『本気』を出さなかったのだ。
誰も知らない、自分でさえわかっていない実力。
(見せてやるさ)
踏み切る。水平に切った剣を突き、それを右に躱す双真の動きに沿って、平行になぎ払う。その切っ先が双真の髪を切り払う間に、下に沈んだ彼の身体がこちらに隣接してくる。予想通りの動きに、冷静に十四郎は左腕を振った。袖の下に忍ばせていたデリンジャーが手にすっぽりと収まる。
トリガーを引いて発砲。即座に二発目。思ったよりも響かない銃声をあっけなく感じながらも、確実な手ごたえに十四郎は身体を引いた。だが、双真の追従は止まらなかった。
打ち抜いたはずの右腕がさらに突き出される。腹に突きつけられた拳が、まるで吸い付くように密着して──
その後の景色は、さながらジェットコースターよりも酷かった。世界が回転する。色を失っていた世界が色素を取り戻し、だがカラーであるからこその情報の多さが、逆に脳に負担を掛けてくる。胸のうちをついた嘔吐感に、十四郎は思わずひざを突いた。壁に寄り添って、その時ようやく、自分が飛ばされた距離を把握する。
「打ち抜いた腕でここまでするか?」
思わず呻く。あばらの数本は折れているだろう。体内に感じる血の流れに違和感があった。下手をすれば内臓を傷つけているかもしれない。
ようやく痛みをこらえながら立ち上がり、向こうを見ると、双真は右腕から流れる出血を止めているところだった。自分が打ち抜いた肘の部分。他のどこを打っても痛みをこらえることはできるだろうが、ここを破壊されては終わりだろうと考えられる最大の急所を、十四郎は確実に打ち抜き、確実に壊したのだ。それでも、双真の攻撃はその右腕によって行われ、自分はこの広い工場の端まで飛ばされた。
(相変らずの化け物か、あいつは)
愚痴りたくなる気持ちを堪えきれずに、十四郎は心中で毒づいた。だが──
これで彼の右腕は完全に死んだ。あの時は勢いもあったから攻撃できただろうが、あの右腕はもう使えないだろう。いくら彼でも、そこまでは無理なはずだ。
後一本。いや、包帯だらけの左腕も大して役には立たないだろうから、後は足。それを壊せば終わる。彼に、それ以外の武器はない。
(いや……最後の手段がまだあったな)
頭を振って、十四郎は再び剣を構えた。
(使わざる得ない状況に持っていってやる)
そうしなければ終わらない。生半可な終り方ができるわけがない。それは双真も同じ考えだろう。彼がまだあれを使わないのは、こちらの出方を待っているだけなのだ。
(使わずに終われるほど俺は甘くないぜ、双真)
過去。一度として本気で戦ったことのないだけに、その実力はおよそで判断するしかない。身近で見てきた客観的判断でしかない。
だがどれだけ自己評価を高くしようと、彼と自分の差は埋まらない。彼は強い。戦闘活動において、神楽双真は間違いなく天才なのだ。彼をかつて『HELL&HEAVEN』内で最強たらしめた理由は、彼の特殊能力たる『反力』ではなかった。戦闘思考力と、施行力。考えることと動くこと。その二種が完全に揃っているからこその強さだ。
戦って勝てるわけがない。あれは、まさしく何をすれば勝つことができるかを本能で感じ取り、それを本能で実行に移せる生物なのだ。
それでも、進まないわけには行かない。
この戦いをやめるわけにはいかない。
(今度は、俺たちが過去の清算をする番だ)
かつての自分。かつての彼。
そんな過去。今でも鮮明に思い出される過去。
過去──今はもうない現実。だが、確実に現在を紡いできた事実。
『HELL&HEAVEN』と言う名の居場所は、もう過去のものなのだから。
◇
過去。
そう──過去のことだ。
彼が『HELL&HEAVEN』頭首であったことも、悪魔と呼ばれていたことも、死有現象依存障害であったのも、過去のことでしかない。今の彼は医者であり、名鳥病院の院長であり、財閥の総帥になるべき人物である。
しかしながら、過去の事象全てが、名鳥十四郎という人物を語っている。そういった意味では、それらは全て現在のものだった。
彼は現実にここにいる。かつて『HELL&HEAVEN』を治めた者として。かつて殺人鬼『銀の悪魔』と呼ばれた者として。
今の彼は医者ではない。名鳥財閥の人間でもない。そうであったなら、彼は決してかつての仲間であった神楽双真の前に姿を現すことなどなかったはずだ。
彼はここにいる。そして戦っている。
『銀の悪魔』として。
ならばするべきことは決まっている。
◇
麻生流武装術はありとあらゆる武器を扱う武術である。その引き分けを前提とした戦闘スタイルはすなわち、勝つことを目的に戦った時点で負けることを意味する。
なればこそ、彼は引き分けるか、もしくはわざと負けるのだ。名鳥十四郎の戦い方は、その点でかなり特徴的で、それだけにやりにくく、戦いたくない人物でもあった。
打ち抜かれた右腕をさすりながら、双真は思う。
(やっかいだな)
戦いの覚悟。『HELL&HEAVEN』で共に過ごした頃も含め、この時のために今まで道化でも演じてきたのだろうが、逆に言えば、未来で起こるかもしれないことのために、自分の手駒を確実に隠すことが出来る。それが名鳥十四郎の本当の怖さだった。
こうして彼自身が完全に本気になったということは、彼にとってここが最後ということだ。
彼はもう小細工をしない。彼にはもう手駒もない。ただ戦って、そしてやはり引き分けにする。それが目的だ。
引き分け。
その意味と、そして自分の腕のことを考える。左腕は、槙原耕介とリオ・カリスマンとの戦いでもう使い物にならない。せいぜいが盾にするくらいだ。右腕は先ほど壊された。あそこで、何の違和感も抱かせずに銃を使えるあたりが、十四郎の強さでもある。
残るは足。だが、空中で浮いて攻撃できるわけでもないので、攻撃手段など限られる。そのうち、手札は消える。後に残るのは──
(残るのは『反力』だけか……)
双真が持つ、存在が『存在する力』を奪う能力。その発動。それこそが十四郎の望みだということも、双真はすでに分かっていた。
引き分けの意味。彼は勝つ気はない。負ける気もない。だが戦うその先に、彼は何かを望んでいる。それは、おそらく双真の望みと同じであることも──聞いたわけではないが、そんな予感がする。
死が望みではない。自分も彼も、そんなくだらないことのために戦っているのではない。死ぬ気はない。ましてや、双真には帰ると約束した少女もいる。
ならばなんのためかというと、だがしかし、実のところはこの戦いに意味などないことに、双真は気づいていた。
これはただ、決着をつけるための戦いだ。
自分自身と決着をつけるための戦いだ。
ああ、そうだ。ならば迷うことはない。
(望みどおり、使ってやるよ)
それも飛びっきりの奴をな。
小声で呟く。
「『反力』発動」
十四郎は聞いていない。この距離だ。この距離だ。聞こえるわけがない。
反力はその性質上、決して破ってはならない制約があり、双真はいくつものそれを自分に課している。何故なら、そうしなければ自らも存在消滅の効果範囲に指定されてしまうからだ。
力の発動にはいくつかの条件がある。
だがしかし、それらはあくまで自分を効果範囲外にするための制約だ。能力を制御するための誓約である。それを考えない場合は制約など必要ない。制約を誓約する必需性はない。
恒常的にセットされている制約を解除する方法二つある。一つは、対象が槙原耕介の命を狙うものであることだ。もう一つは、自分が効果対象になること。対象が自分に敵意を持ち、反力の発動を認識すること。自分の消滅をいとわないこと。
さすれば開放は始まる。
存在を否定する力。その本領が。
そして──
「!!!」
揺らめく力の激動が、彼の意識さえも瞬時に消し去っていく。それは、衝撃も痛覚も感じられないほど一瞬の出来事だった。はじけた鼓動に押し切られて、双真は抗う術もなく暗転する。
赤いオーラを纏った双真の身体からはじけた力。『反力』と称される消滅の力の奔流が、工場もろともあっけなく二人を飲み込んだ。